悪魔か魔人か人間か
辺りを照らした光が徐々に薄れていき、辺りは再び闇夜に包まれる。誰もが静まり返りつつも、体勢を解こうとはしていない。悪魔を祓えたのかどうかの確証がない以上は、いつ攻撃が来ても対処できる状態を維持しておかなければならない。
「……アイリーン」
「ええ、ジェーン。どうやら、あれは我らの想像を越えている」
「領域外」
「間違いなく、世界を逸している」
二人の会話から、悪魔はまだ祓われていないと判断し、アレウスだけでなく冒険者が各々が取るべき行動へと移る。
「怪演だったろう?」
黒い鳥の姿をしていた悪魔は光によって散り散りになった。しかし、それと同時にカールの様子が変容していた。
「この人間の最後の怨念を消し飛ばしてくれて、感謝しかない」
アイリーンとジェーンが即座に動き、カールに拳を振り上げる。
「人として残された最後の心を、『邪気を祓う』という名目で消した気持ちはどんなものだい?」
カールが目を見開き、鎗を軽く振る。生じた緑の風が拳を押し留め、更には二人の体も吹き飛ばしてしまう。
「どういう意味?」
「我らの思考を乱すつもりか?」
吹き飛ばされた先で体勢を維持し、問いかける。
共振したことのデメリットだろう。物理が通じるようになったということは、相手の諸々の攻撃を受ける。片側だけが得をする原理や道理ではないだろうとは思っていたが、こうして目に見える形で表されたならば、確信に至る。
「俺は最初からこっちの、カールの体に大半の意識を残していたんだ。そして、カールの大半の意識はお前たちが悪魔と言って攻撃をしていた方に詰め込んだ。どちらも俺の意識で制御していたけれど……悪魔が攻撃する時に発する邪念や邪気は全てがこの人間の感情そのものさ。こちらで見せた弱さ、拙さ、幼さもまた人間のもの。だけど、それ以外の全ては俺が演じていた。“どちらも”」
「どちらも?」
悪魔とカール。そのように判断していたが、あの黒い鳥の姿をした悪魔が実は、カールの中に入り込んでいた悪魔が生み出した分身のようなものであったとするのなら、こうして雰囲気が一変したことにも説明はつく。
だからなのか、鎗捌きがおかしい。アレウスが対峙した際には、児戯であった。だが、今はさながら戦場で一騎当千を果たした兵士のごとき手捌きで鎗を扱っている。手元での遊び方は余裕の現れであり、同時に相手への挑発。それを体現したデルハルト以上の気力と、カールから放たれる気配が一種の怖気を生み出し、その場にいる全ての者のリズムとテンポを乱した。
入り込まれる。
そう思った時にはもう遅い。アレウスは経験から知っていたにも関わらず、距離を詰められた。ルーファスが『闇歩』と呼び、アレウスは『盗歩』と呼んでいる足運びのように、一瞬の隙を突かれた。作った隙でも、自らが隙だと思ってすらいなかった秒にも満たない時間をカールは盗み、そして入り込んだのだ。
防御の姿勢を崩していなかったのが功を奏し、刺突の軌道は逸らせた。だがそこまでだ。鎗はアレウスの左肩を貫通し、更に穂先へ流入される力の余波によってカールが引き抜く動作に入らずとも、アレウスの体が勝手にカールとは逆方向に弾き飛ばされることで穂先が体から外れた。
カールの持っていた鎗の穂先は刃だけを持っているものではない。反しがある銛のような形状を取っている。そのため、引き抜けば肉が抉れる。それがほぼ同時に起こったとなれば、ただの刺突とは呼べない。これもまた、『技』である。
受け身を取ることもできず、アレウスは受けた力を分散することもできないまま地面に体を打ち付け、転がった。体中の至るところから激痛を訴えてくるが、特に左肩からの訴えが強い。痛いと分かっており、更には重傷を負ったと確信している中では傷口を見ることさえできない。現実逃避、又は現状を知ることへの恐怖心が汗という形で噴き出してくる。
アレウス自身は勇気を振り絞って視線を左肩に向けたいのだ。だが、脳がそれを拒絶する。首を動かすなと命じてくる。目視すればパニックやヒステリーに陥ることを頭は理解していても、心がそのことに追い付いていない。そのため、アレウスはその場にいる誰よりも思考が迷走と錯綜を繰り返し、視界が歪んでいく。額から垂れた血液を、目に入るまでは汗だと思い込み、息は絶え絶えに、目は充血を始める。
「どうだい、痛いだろう? まぁ、人間のような人間モドキにとってはどうってことのない箇所を突いたかと思ったが、その様子だと効いているようだ」
カールの口調は悪魔に似ている。だが、そこに意識は向けられない。
左腕の感覚が薄い。まさか左肩から先が刺突によってもぎ取られたのではと悪い方向へと妄想が流れていく。
「“癒して”」
駆け付けたアベリアが回復魔法を唱える。全身から痛みは引くが、左肩の痛みが消えていかない。
「なんで……?!」
「悪魔の送った魔力が回復を遅らせるんです。“癒しを”」
アイシャの魔法も重ねられるが、尚も左肩は痛みを訴える。
「僕の左腕は……くっ付いているのか? 感覚が、あるのかないのか……分からないんだが」
「肉だけでなく鎖骨もやられている。回復が済むまでは無理に動かすな」
ガラハの言う通りなら、急所は免れているが受けてはならないところに攻撃を受けてしまった。急所は死に直結する部位だが、攻撃を受ければ行動に制限を受ける部位がある。鎖骨が砕ければ、肩の筋肉と関節の支えが奪われてしまい、腕を上げられなくなる。アレウスの左腕は辛うじてくっ付いてはいるものの、激痛の中では回復魔法による縫合が完全に終わるまで動かすことはできなくなってしまった。合わせて、悪魔が作る傷は回復も遅いらしい。
左腕が使えないのなら右腕を使えばいい。幸い、右腕にはアーティファクトの筋力ボーナスがある。
そのように楽観視することができない。体は両腕と両足、そしてあらゆる部位の筋肉を用いてバランスを保つようにできている。片腕を一時的ではあれど動かせなくなってしまえば、訓練を受けていなければ立って歩くことすらままならない。走ることは不可能に近い。ましてや、走った先で武器を振るうことなどできるわけがない。
だからこそ、受けてはならない部位なのだ。こういった部位への一撃を受けないようにこれまでずっと努めてきたが、カールの刺突はアレウスの注意を上回った。それどころか間を盗まれた。追撃されていないのが幸運としか言いようがない。
しかし、それは幸運でもなんでもない。顔を上げたアレウスが見たのは、アイリーンとジェーンがカールの鎗撃をかわしながらもいつか距離を詰めようと様子を窺っている姿だった。追撃しなかったのではなく、阻まれたからしなかっただけにすぎない。もしも二人の眷族が動けていなかったなら追撃を受け、死んでいただろう。そんな二人の眷族もアレウスが刺突を受けるまでは動き出せていなかった。恐らくは他人を守ることよりも自己防衛に集中していたためだ。
「守られようとしている……それに甘えて、このザマか」
血混じりの痰を咳き込みながらも吐き出し、ようやく左肩の痛みも薄らいできた。しかし、依然として左腕は上げられない。
「アベリア、精霊の戯曲は唱えられそうか? カールが纏っている風を貫くぐらい強い魔法が必要になる」
「まだ回復が終わってない」
「そっちはアイシャにやってもらえば済む」
「二人で回復をかけても、まだあなたの傷は塞がり切っていないんですよ? 私一人に任せたら、回復は今よりももっと遅くなってしまいます」
アベリアとアイシャの魔力量に差があるから言っているわけではない。回復魔法にもランクがあり、アベリアとアイシャは同一の物を唱えている。そのため、どれだけ大量の魔力を注ぎ込んでも、回復速度は一定のラインで上がらなくなる。逆に攻撃魔法は二度、三度と唱えれば自然と火力が上がるためにランクの低い魔法を使い続けた方が魔力の消費量における燃費は良くなる。ならば回復魔法の重ねがけも有効のようにも思えるが、攻撃魔法は唱えれば形となるが回復魔法は傷が縫合を終えるまで継続させなければならない。勿論、唱えたあとも魔法を対象に当てるまでの魔力の消費は必要となるが、それは回復魔法の継続よりも安く済む。唱えて終わりなのか、唱えて続くのか。たったそれだけとも言えるような差が、大きな差となってしまう。
「俺がアベリアさんの回復を引き受けよう」
「駄目だ。ヴェインには祓魔の術を唱えてもらわなきゃならない」
息が整わないが、守られるように立ち回ってはアイリーンとジェーンに負担がかかってしまう。
「あれはカールじゃなく、魔人になっている。分身を用意できるくらい強大な力を持った魔人に」
「その通りだ、人間モドキ! でなければ人前に現れるわけがないだろう!?」
祓われる危険を持ったまま、悪魔憑きが現れるわけがない。やはりその前提は間違ってはいなかった。
「契約を結んで、体の自由を奪うのを先送りにした話も嘘か?」
「嘘ではないが、それはもう過去の話だ。半年も前に終わっている」
「カールの言っていた大人は嘘つきという話は?」
「俺が囁き、この人間が猜疑心に呑まれただけのことだ」
ならば、カールは本当に大人は嘘つきであると思っていた。でなければ悪魔の囁きに耳を貸すわけがない。
教会で聞いた限りでは、悪魔に付け入られる隙など微塵もないような少年にしか思えなかったが、教会の孤児たちには見せないところで様々な大人の嘘を浴び続け、叩き込まれていた。そう考える以外にない。
「顎に同時に打ち込んで、脳震とうを起こさない時点で予測はしていたけれど」
「既に脳が機能していなかったか」
「共振されてしまった時には身の危険を感じたが、お前たちが分身を狙ったおかげで分かったことがある」
二人を退けて、カールが口が裂けているのではと疑うほどニヤッとした気持ちの悪い笑みを浮かべる。
「お前たちは悪魔を祓った経験はあっても、人間を殺したことはないんだろう?」
「審判は女神が下す」
「我らが判断によって善悪を決めることはできない」
「悪魔は、概念そのものが悪であるから我らは祓う」
「しかし、魔人は悪魔と人間の中間体」
「我らはそれを悪と断じることができない」
「「全ては審判女神の意のままに」」
気持ちの悪い笑みを浮かべたままのカールは乱雑に鎗を振るう。どれもこれも大雑把で隙だらけの攻撃にアレウスには見える。だが、アイリーンとジェーンはそこに強く踏み込むことはあっても決定打――殺すための一打を決して放たない。それどころか、先ほどの祓魔の術を唱える素振りもない。
悪魔がカールの全てを奪い取ったことで、魔人となった。だがそれは、あくまでもアレウスの見立てに過ぎない。怪演と悪魔は口にしたが、これが悪魔の狂言ではないと立証できない。まだ魔人ではなく悪魔憑きであったなら、悪魔さえ祓えばカールは助かる。しかし、悪魔――フォーゲルは祓魔に特化した二人ですら手こずるほどの力を持ち合わせている。当然、祓魔の力も強める必要が出てくる。それが強力過ぎてカールが戻るべき肉体すらも消し去ってしまえば、これは殺人になってしまう。審判女神を信仰する眷族の二人にとって、それはあってはならないことなのだ。
特に“天罰”は分身なのか、それともまた別のなにかなのか分からない黒い鳥を一瞬で光の元に消し去った。あれを放てば、恐らくはカールの肉体も消し飛ぶ。
「どうする人間?! 俺はカールか!? それとも悪魔のフォーゲルか!? 分からないならばこの肉体ごと祓うか?! 俺は一年の月日を経て、力を付けている。生半可な祓魔では俺じゃなくこの肉体を傷付けるぞ?! だが、俺すら消し去る祓魔を放てば、カールも消えてしまうだろうなぁ?」
自らが憑依している肉体を盾にしている。これが狂人や人語を介するような魔物の戯言であればなんの効果もないのだが、悪魔憑きであれば別となる。
「子供一人に、冒険者が寄ってたかって有象無象のように集まって……誰一人として手を出せない。人間は群れなければ戦うことすらできないというのに、群れても戦えないなんて虫けら以下じゃないか」
分かりやすい挑発だが、今回ばかりはそれに心が乗りそうになった。アレウスは左肩の回復が終わっていないために動かずに済んだが、他の冒険者はその限りではない。カールという少年の肉体ごと悪魔を祓い、そして殺す。そう決意したのか、それとも矜持や信念を汚されたことに腹を立てたのか、とにかく問答無用で駆けて行く。
しかし、固まり切っていない決意ほど脆いものはない。鎗を縦に振って鈍器のように、横に薙いで剣戟のように、そして鎗特有の鋭利な刺突を使い分けて冒険者を屠っていく。その様を見て、仲間の表情は強張り、そして足も地面に根が張ったかのように動かなくなる。
「精霊の戯曲は唱えられないか?」
アレウスはもう一度、アベリアに問う。
「……火の精霊が寄ってきてくれない。私が好かれているのは火よりも土の精霊だし……その土の精霊も土壌の穢れが残っているから、あんまり応えてくれない」
「なら、他の方法でやるしかない」
「他の方法ってなんですか?」
「あれがカールなのか、それとも違うのかなんて僕には分からない。だから、殺す」
アイシャは震える声で訊ねてくる。返す言葉がどんなものか分かっているようだったが、それでも口にすることで自身の覚悟の糧にする。
悪魔か魔人か悪魔憑きか、その境界が曖昧であるからこそ覚悟が足りずに冒険者が死んでいく。このままではアレウスも二の轍を踏んでしまう。アレウスに限らず、ガラハやクラリエも仕留め切れずに死んでしまうかもしれない。
「“永遠足り得る風の守護”とは言っても、足り得ない場合だってある。抜け穴があるんなら、そこを突く。審判女神の眷族が手を汚せないのなら、僕が手を汚すしかない」
幸いなのか、それとも今更なのか、左肩の傷も縫合を終えた。僅かに痛みは残っているが、全速力で走ってもバランスを崩すことはない。
「ですが、そんなことをすればどのような目で見られてしまうか、分かっているんですか?」
「分かっていて口にしているんだ。ここに来る前から決めている。一縷の望みがあるんじゃないかと思って、手放しかけたけど、結局はそれを手に持っていなきゃならなかったってだけの話だ」
自身に悪魔憑きを殺せるだけの力があるわけではない。眷族の二人は殺せはしないが、そこまでの導線は作り上げてくれるだろう。あとはアレウスが上手く乗るだけだ。運さえ良ければ殺せるはずだ。
「光明が見えたから希望を抱いてしまった。だけど、改めて思い通りにならない世界だと分からされた。打ちのめされそうになったのは、これで何度目かも分からない」
短剣を両手にそれぞれ構えて、姿勢を低くし、呼吸は最小限に留めつつ、腹の内側から全身に熱を帯びた血の流れを起こす。
「さっきは本当に死ぬかと思った。手を抜いてくれたおかげで生きている。感謝を込めて殺す。付いて来るかこないかは、みんなが決めてくれていい」
アレウスは突き放すように言って、自身にそれだけの力があるように思い込ませる。実を言うと、確実に殺せるとは思っていない。良くて相討ち、悪ければ返り討ち。そして、自身の技量では返り討ちに遭う方が圧倒的に高い。
だから、心が求める。自分の代わりに自分のやろうとしている役目を全うできるような実力を持った人でなしの冒険者はいないだろうか、と。




