悪魔の囁き
鎗に集中すれば、あの鎗撃はかわすことができるだろう。しかし、それをかわしたあとが問題だ。あの速度で近付くことができるのなら、足運びも自然と加速する。必殺の一撃を避けたことに浮かれていると、すぐに狩られてしまう。合わせて、悪魔の動向にも気を付けなければならない。
冒険者は首を切られて死んだ。その時、カールは腕を少し動かしただけだとアベリアたちは言っていた。アレウスが考えるに、その首を切ったのはカールではなく鳥の姿をしている悪魔だ。
しかし、悪魔が視認できても、あれは風の塊のようなものだ。近付けばきっと風圧で吹き飛ばされる。鎗のリーチとは思えない刃も、風圧に乗せているのであれば可能な範疇なのかもしれない。
「ガラハは悪魔が見えるか?」
「悪霊の類はスティンガーの力がなければ難しかったが、あれは見える」
「多分だけど、アレウス君とガラハが見ているのは悪魔じゃないと思う。悪魔が纏っている風だよ。あたしの『衣』と同じで、色が付いているから、それが悪魔の形になっていて見えているんじゃない?」
随分と悠長なことを言っているが、状況は切迫している。それでも、自身の中にある疑問などは話せる内に払拭しておきたい。クラリエの言葉通りであるのなら、アレウスとガラハが見ているのは悪魔そのものではなく、悪魔が纏っている色の付いた風ということになる。風に色が付いて見えるというのも不思議なのだが、確かに青白く見えている。悪魔が衣服のように風を着ている。そのように表現するしかない。それでも、風を視認していることがすなわち、悪魔を捉えているに等しいのなら問題はない。もしも問題があるとするならば、悪魔と思っていたのが風の塊という名の囮になるようなことがあった場合である。
「悪魔については僕とガラハ以外の三人で意識しておいてほしい。纏っている風を脱いで、僕たちに見えない本体だけが移動し始めたらちゃんと伝えてくれ」
返事はないが、やや後ろ隣にいるヴェインが肯いたのが横目で確認できた。
「どうやって俺を殺すかの話し合いは終わったか? 知っているんだ。そうやって大人は俺たちをなんの感情も抱かずに殺すんだろ?」
『俺たちの特別な時間を奪ったお前たちは早々に殺さなきゃならない』
被害妄想が激しいのは悪魔の影響のようにも思えるのだが、大人に対する不信感が確定的なものになったのには、明確な理由が存在するはずだ。アレウスが神官嫌いになったような出来事があったならば、多少の同情の余地も生まれる。
生まれたとしても、もはや引き返すことなどはできないのだが。
『カール? 君にもう一度、速さを与えよう』
「任せろ」
僧侶に一瞬で近付いた加速。あれを再びやることを宣言している。
「見ていてどうこうなるものじゃないんだよな……」
「どうする? 接近のタイミングが取れないなら、もう防ぐ構えを取っておくべきじゃないか?」
「それは問題ない」
追い付くことはできなかった。だが、一度は見た。
距離を詰める足運びは学んだ。アレウスのそれは間を盗む方法だが、カールのそれは単純な加速。一つの動作には必ず前兆がある。呼吸、構え方、筋肉。相手の全てを観察し、同時に自身の隙を見せる。
ただし、見せるだけだ。隙を作るのではない。これは相手を欺くための隙である。
五感を研ぎ澄ます。
風の流れを感じる。鼻で吸った空気に血の臭いが混じる。口に至った臭いは、鉄の味を伝える。
目を見開き、カールの放った刺突に合わせて剣戟を繰り出す。閃光とも呼べる一瞬の攻防は、どちらが制したわけでもない。だが、アレウスは防いだものの攻撃に転じられず、カールは攻撃したが防がれた。その時、少年が纏っていた風が周囲に吹き荒れ、大地に生えている草が激しく揺れる。
「来ているよ、アレウス!」
ヴェインが一歩だけ前に出て、鉄棍で地面を打つ。
「“鐘の音よ”!」
アレウスの左側から迫ってきていた風の鳥にヴェインが魔法を唱える。
『ぐ……! さっきの輩よりも、この力はずっと……』
風の鳥の突撃が緩くなり、やがて諦めたのか上空へ飛翔する。
『カール、気を付けるんだ。そこの大人たちは他の大人たちよりもずっと厄介だ』
「大人……?」
カールがアレウスを睨む。
「大人……か?」
疑問を二度、口にし、なにかを振り払うかのように首を振る。続いてアレウスに変わらずの殺意を向ける。
「大人がどうして憎い?」
「俺たちを騙し、裏切るからだ」
鎗で弾かれる。だが、低い姿勢を取っていたことで重心が普段よりも下にあったことで、アレウスのバランスは崩れない。そのため次に来た二撃目の刺突も防ぐ。
「なにがあった?」
「教える道理はない! 俺はこの街の孤児たちを連れて、自由にするだけだ」
弾かれ、防ぎ、弾き、防がれる。
「それが子供を不幸にするかもしれないとしてもか?」
「お前たち大人になにを言われても、俺の意思は変わらない!!」
鋭く、殺意に満ち、そして空気を貫くかのような鋭い刺突を受け流し、アレウスがカールの懐へと迫る。
鎗のリーチに短剣は絶対に敵わない。だがそれは、近付かれない立ち回りをされた場合に限る。カールは自ら近付き、そして刺突を繰り出す内にアレウスの範囲へと入ってきたのだ。『盗歩』で間を盗み、入り込める余地があった。そしてここまでの近距離にまで入ってしまえば少年は絶対に鎗を振るえない。
『油断するな、カール!』
凄まじい風圧を受ける。カールは風に乗ったかのように後方に飛んで、アレウスはその場に留まるのがやっとで追撃ができない。
「アベリア!」
「“火の玉、踊れ”!!」
『そんな魔法!』
複数の火球を吹き荒れる風が全て押し退け、更には消し飛ばす。
「二度、三度、“火の玉、踊れ”!」
複数――個数にすれば二十に近いほどの火球が再度、アベリアの上空で生み出され、射出される。
『何度も唱えたところで無駄だ。俺の“永遠足り得ぬ風の守護”は破れない!』
二十の火球はその全てがカールの周囲で吹き荒れている強風が弾き、消し飛ばす。あらゆるものを寄せ付けない、強い防護の風である。アベリアの魔法の対応に追われている間にガラハと共に距離を詰めてしまおうと思っていたのだが、これでは不可能だ。そのため、二歩、三歩と進めていた足を今度は後退させることになる。
「僕には“永遠足り得ぬ風の守護”って聞こえたけど、ヴェインはどう聞こえた?」
「そのままの通りだよ」
「アイシャなら重なって聞こえるのかもな」
「聞こえたところで、突破口が見えるわけでもない」
無駄な会話をするなと言わんばかりにガラハが一蹴してしまった。
「足り得ぬ、ってことは足り得ないってことのはずだ」
「当たり前のことを言われても、あたしはアレウス君より頭が悪いからピンとは来ないよ」
「あの悪魔は自分自身で、あの防護の風には穴があることを口にし、っ!」
突如、ヴェインがアレウスを突き飛ばす。首の左側を鋭い刃が掠めたかのように切り傷が生じ、そして血が噴き出す。
「アレウス!」
「優先順位を考えろ! 僕はあとだ!」
ヴェインはアレウスよりも先に動いたのだ。つまり、悪魔の気配を誰よりもいち早く感知して動いたのだ。
「アレウス君の傷はあたしが治すから、アベリアちゃんはヴェイン君を」
クラリエが素早く、“それ”を拾って戻ってくる。
「“癒して”!」
そして、クラリエが投げて寄越したポーションをアレウスは飲み、続いてアベリアの魔法がヴェインに唱えられる。
だが、アレウスはヴェインを直視することができない。何故なら、アレウスはヴェインに突き飛ばされたから風の刃が首を掠めた程度で済んだのだ。だが、身を挺したヴェインが今現在、どうなっているかを確認することに恐怖を感じている。
「痛みから逃げるな!」
ガラハがアレウスを一喝する。
「貴様に落ち度がないことは分かっている。だったら、貴様を守った行動とその結果から目を背けるな」
行動には結果が伴う。アレウスの判断は間違ってはいなかったが、それでも避けられないこともある。結果から逃げれば、次も同じように逃げてしまう。結果と向き合わなければ成長もない。
分かってはいるが、アレウスはヴェインの右腕が切り落とされたことに激しく動揺していた。クラリエがすぐさま回収し、ヴェインの元に届け、そしてアベリアが回復魔法を唱えることで接合中であったとしても、起こったことは事実として残る。突き飛ばされはしたが、アレウスの目はしっかりと切断の瞬間を目撃した。死体の山、死体の損壊。冒険者が殺される場面。そのどれにおいて、惑いはあったとしても冷静さを失わずに済んでいたのだが、仲間の身体の損壊に関しては、精神的に来るものがある。たとえ回復が約束されているのだとしてもだ。ヴェインはこの時、この場面で激痛を味わい、立つこともままならず、気絶と発狂の狭間で揺れている。それが分かってしまう。
何故なら、アレウスも同じように右腕を失った経験がある。頭で否定しようとしても痛みを共感してしまう、共有してしまう。そのトラウマが未だ強く根付いていることに否応なしに気付かされる。
さながら、当時の痛みが舞い戻ってきたかのような感覚。全身から血の気が引いて、頭の中は真っ白ではなく真っ黒になり、痛みに痛みが重なって、止まらなくなる。
「しっかりして、アレウス」
アベリアの声がする。だが、内容まで頭には入らない。汗が止まらず、視野が狭くなっていく。
『カールだけかと思ったが、やはり人間は面白い……』
囁くように悪魔の声が頭の中で響く。
『俺なら、その痛みも不安も恐怖ですらも取り去ってやれる。取り引きをしないか、人間?』




