巻き起こる風
全員がアレウスの考えに同調しているわけではないだろう。だが、誰一人として教会に残ろうとはしなかった。その場に留まってしまえば、事の顛末を知るのはギルドからの報告だけで済む。きっとその方が胸の痛みは少ない。
そうだとしても、動き出さずにはいられなかった。悪魔憑きを止めるためか、街を守るためか、はたまたアレウスの暴走を止めたいがためか。各々が考えていることは分からない。そして、前線でどんな行動を起こすかも定かではない。なにもかもを承知の上で動いているのだから、これはまさに冒険者の矜持としか言いようがない。
アレウスは別に子供に同情したつもりはない。施しを与えようと思ったわけでもない。アベリアと教会の孤児たちを重ねたわけでも決してない。ただ、人としての道理が、理屈が、たとえ歪であったとしてもアレウスに走れと命じたのである。
教会から一番近い街の門をくぐり抜けて、アレウスたちは前線に到着する。相変わらず教会の鐘は鳴り続けてはいるが警鐘は鳴りやんでいる。一定数の冒険者が集合したことで兵士がもう不要だと判断したのだろう。
「街に入らないと約束するなら、君に憑いている悪魔を祓うと約束する」
「だからそれ以上、こちらに近付かないでほしい」
数人の冒険者が制止するよう声をかけている。アレウスの位置からでも結構な距離がある。だが、この場にいる冒険者は誰も気を抜いていない。いつでも交戦できるように武器に手をかけており、その後方では魔法職が言霊の詠唱の準備に入っている。
これでは、兇器を持っている者に兇器を持った状態で威圧しているのと同義である。しかしながら、人を殺せるだけの悪意と兇器を持ち合わせている以上は、こちらもそれに対抗できるだけの正当性のある武器を持たなければならない。なにも装備せずに会話だけで全てが終わるのであれば、そもそもとしてこのように赤い月の夜中に冒険者が集まって、一人の悪魔憑きの対応に追われることもないのだ。
「難しいな」
思わずアレウスは呟いた。相手の神経を逆撫でしないように説得しようにも、相手の深層心理を把握していない限り難しい。どれだけ優しい言葉を投げかけても、どれだけ未来について語ろうとも、相手の心に届かなければ意味がない。心が揺れないならば、感情も動かない。自身が起こしたことを決して省みない。感情がないのなら、罪の意識すら芽生えない。人種にはすべからく感情と心があるから罪の意識があり、贖罪が成立するのだ。
もし、悪魔憑きの少年から感情が失われているならば、冒険者の言葉は一切、意味を成さない。しかし、その発言を全否定することもできない。何故なら、アレウスもこの状況なら、同じような言葉を投げかけるに違いないからだ。
「悪魔憑き……いや、魔人になりかけているかもしれない。確か、一年前……だったね?」
「あの悪魔憑きが発したカールって名前と、教会で一年前に行方知れずになった少年が一致するならね」
ヴェインの問いにクラリエが答えるも、二人とも視線を交わしはしない。どちらも少年を注視している。これは別に二人に限った話ではない。この場にいる全ての冒険者が、たった一人の少年の一挙手一投足に気を張っている。それだけ、悪魔憑きの少年には独特の気配があり、なによりも強い殺意めいたものを肌で感じずにはいられないのだ。
「俺は帰ってきただけだ」
少年が声を発する。
「約束通り、街にいる全ての孤児を連れていく」
「約束?」
「なんのことだ?」
「分からないが、君を街に入れることはできない」
少年の言う約束について、アレウスもまた答えを見つけ出せない。こんなことなら教会でもっと行方知れずになった少年について聞き出しておくべきだっただろうか。しかし、時間がなかった。なにか重要なことを聞き出せていたとしても、この場に間に合っていなかったならばそれは意味のない情報となる。この場に間に合うことが、冒険者としては最重要だった。
しかし、約束という言葉は強くアレウスの胸を打つ。自身もまた、その言葉を、その文字を頼りに生きてきたからだ。もし少年もまた、それに縋って一年間を生きていたのだとすれば、下手なことは言えない。
「悪魔に吹き込まれた妄想なんじゃないのか?」
「なんでそんなことを言うんだ」
心無い言葉にアレウスは少年から視線を外し、同時に発言した冒険者を睨み付けた。
その直後、アレウスが注意した冒険者の首が右側から深く切り裂かれ、血飛沫があがる。血溜まりの中に冒険者は倒れ、僅か十数秒で動かなくなった。今のは致命的な一撃――致命傷である。どれだけ準備していようと神官や僧侶の回復魔法では間に合わない。『影踏』やクラリエ、果てにはヴォーパルバニーと呼ばれる魔物が行う『首刈り』めいた一撃が冒険者に成されたのだ。
「首が飛ばなかっただけありがたいと思え」
少年に視点を戻す。一歩たりとも、動いていない。なのに、どうすれば冒険者のいたところまで斬撃か剣戟、或いは刃物のようななにかを飛ばすことができたのか。全く分からない。
「あいつは動いたか?」
「ううん、ほとんど動いてない。ちょっと右手を振っただけ」
アレウスと違って、視線を固定していたであろうアベリアが答えた。ヴェインやクラリエ、ガラハからも確認を求めようかとも思ったが、アレウスの問いは別にアベリア一人に向けたものではない。ここでアベリアの言葉に足らないものがあったなら、補足するはずだ。しないのなら、アベリアが言ったことが全てなのだ。
「マズいよ。あの子は、悪魔と契約を結んでいる」
「契約?」
「悪魔からしてみれば、体さえ乗っ取ることができれば、契約なんてなんの旨味もないことなんだ。だから人種側の条件なんて飲む必要がない。でも、あの子が提示した条件に悪魔は興味を抱いて、その条件を飲んだんだ。だから、一年経ってもまだ彼の精神が残っている。彼自身が思っていることをそのまま話すことができている」
「それってどれくらいマズい?」
「精神は徐々に汚染されるけど、悪魔とその力を使役できる。いずれ魔人になれば、身も心も破滅すると分かっているのに、その力に溺れていく。彼はまさに、その状態だ。魔人になる一歩手前で、人として心残りだったことを果たそうとしている。一年経っても、魔人に成長していないのがその証拠だし、魔人として一年という期間は短いんだ。強く、僧侶にすら祓うことのできない魔人になりたいのなら、人前に姿を現す旨味はない。なのに、魔人になるかならないかの状態でこうして姿を現したのなら」
「それが契約の条件として入っている」
「ああ。きっと、あの子の心残りこそが契約の条件そのものなんだ。この街の孤児を連れていくこと。これを果たすまで彼は悪魔に肉体全てを明け渡す気がないってことだよ」
それは逆にチャンスなのでは、とアレウスは期待の視線をヴェインに向けるが、表情は険しいまま変わらない。どうやら状況は良い方向には転がっておらず、悪化しているらしい。まず、冒険者が一人、惨殺された時点で場は完全に乱れてしまっている。恐怖、混乱、狂気は少年にとっては好都合なことばかりだ。
『カールとの約束を忘れているなんて、やっぱり大人は悪いやつばかりみたいだ』
アレウスの左耳が声を拾う。『森の声』と同様に、魔力を用いて声が発せられている。だが、エルフの用いる『森の声』に繋がっているとは思えない。では、誰が魔力を通しての声などを発することができるのか。
そんな存在は想像するに、一つしかいない。
「こいつもあの異界獣と同様、人の言葉を喋るのか……」
「喋る? なにか声がしたのか?」
ガラハが不思議がっている。
「まだあたしとアレウス君にしか聞こえていないと思う。でも、そのうち聞こえるようになる。だって、そうじゃなきゃ人種を誑かすことなんてできないんだから」
エルフの耳でしか拾えない魔力の音声らしい。
「手を出したな、悪魔憑きめ!」
「悪魔祓いを始めろ」
『ああ、本当に貴様たち人間は姑息だ。カールを挑発して、攻撃を仕掛けさせた。大義名分を得るためならば、子供すらも騙すということなんだな』
少年――カールの周辺で風が渦巻く。
「なんだ?」
先ほどまで風は吹いていなかった。吹いていたとしても弱々しいものだ。それが、感じ取れるほどに強いものに変わっている。普段なら心地良いはずだが、風が肌を滑るたびに異様なまでに緊張が高まっていく。
「異常震域……」
声を発したアベリアを見る。
「悪魔憑きが放つ、雰囲気のこと」
まさか、カールが放っているとでも言うのだろうか。まだ距離はあるのだ。なのに、ここまで強く、体の奥のなにかを震撼させている。
『悩む必要はないよ、カール。みんな、みんな殺してしまえばいい。君にはそれだけの力がある。そして、大人たちから君の大切な者たちを取り返すんだ』
風はカールを優しく抱擁するかのように収束し、やがて両手で頭を抑えて苦しみ出す。唸り、呻き、強く発声をしてなにかを吹っ切ったかのような挙動の果てに、おおよそ子供がするようなものではない鋭くこちらを睨み付けてきた。
「フォーゲル……大人たちを殺そう」
収束した風が翼の形となり、続いて辺りへと風圧を発しながら空高くへと鳥となって飛翔した。
『言われずともそのつもりだ』
「鳥、鳥、鳥」
『カールの望むがままに』
空から降りてきた風の鳥が嘶き、魔力の塊がカールの手に飛ぶ。それを受け取った少年は、さながら玩具のように手元で振り回して遊んでから、身構える。
その一連の動きは見たことがある。しかし、記憶の動きよりも拙さは見えるものの、やっていることはデルハルトと同じだ。ならば、少年は自身の手元に形となって現れた鎗の扱いを心得ているに違いない。
「悪魔憑きは単語を三つ唱えて、言霊にする。俺たちが行使する魔法と同じだよ。魔の叡智に触れていなくても見えるのは、悪魔が決して霊的な物とは言い切れないからだ」
まさにそこが疑問だった。魔力の才がないアレウスどころか、魔の叡智に触れていないガラハですらも視線で追っていた。本来なら霊的な物と魔力に触れられないアレウスとガラハが、その流れを捕捉できている。ヴェインは悪魔が霊的ではないだのと言っているが、恐らくは悪魔の力は魔の叡智とは異なる代物だとするならば、多少は合点がいく。それでも悪魔側は魔力に干渉できている。実に不可思議な存在だ。風から生まれた鳥というのも困惑してしまう。
同時に、カプリースのアーティファクトを思い出す。水の体を持った生命体が、カプリースの魔力を喰らって洪水を引き起こしていた。あれも悪魔に限りなく近しいとしか思えないのだが、あれはアーティファクトでこちらは悪魔だ。似て非なるものと捉えた方がいいだろう。
風から生み出された鎗を持って、カールが前進する。アレウスは応戦する冒険者に混じって突撃しようとしたが、ガラハに腕を掴まれて無理やり引き下がらされた。
「死ね、死ね、死ねぇえええええ!!」
真横に薙ぐように振るわれた鎗。離れたところからの、誰にも届かない鎗撃――のはずが、直後に風圧が巻き起こり、駆け出した冒険者たちの腹をまとめて切り裂く。傷は深いどころか骨まで到達し、何人かは体が上下に半分となって転がった。アレウスもガラハに止められていなかったなら、その中の一人に仲間入りしているところだった。
「死ぬ感じは全くしなかったぞ」
死を直感的に知ることができるはずのアレウスの技能が反応しなかった。安直に攻めようとしたためかもしれない。距離があるからと気を抜いていた。それはきっと、攻撃を受けた冒険者全てに言えることで、そのせいで避けることさえできなかった。
「ガラハの『飛刃』みたいなものか?」
斧を振った際に作り出した十字の軌跡がそのまま刃として飛んでくる『技』をガラハは持っているが、カールの放った薙ぎの一撃もそれに似ている。
「恐らくは魔の叡智に近しい力が込められた風の刃だ。オレの『技』よりも強力なのは、一目瞭然だ」
「あんな力が子供の体のどこから出て来る?」
「与えているのは悪魔の方だ。貸し与えられた力を振るっている……それも、手慣れた様子で」
多くの犠牲の上で、カールの鎗が振るったことで起こる風の刃の射程は分かった。だが、逆に言えばそれだけにしか分かっていない。未知の部分が多すぎる。祓魔の術を持っているヴェインがいつも以上に慎重さを見せ、アレウスたちに解決策を提示してこないのは、彼もまたどこから、そしてどのように手を付ければいいか分かっていないからだろう。
「『首刈り』を狙う?」
「いつかの霊媒師のように首を悪魔が守ったなら、次に待っているのは貴様の死だ」
「そうは言っても、近付かなきゃ止めようがないじゃん」
ガラハが冷静にクラリエを諭している。だが、クラリエの言っていることももっともだ。どうにかしてカールに近付き、意識を失わせるか、それとも殺すか。彼を止めなければ被害は更に広がる。
「周りの冒険者と足並みを揃えつつ、状況を打開する。さっきので即死の範囲は分かったはずだ。どうやって凌いで、どうやって攻めるか。まずは考えながら動いてくれ。確証がない限り、無闇に突っ込むな」
アレウスは短剣を抜き、今までにない弱気な指示を出した。だが、誰一人としてそれを糾弾することもなく、またそのような余裕はなかった。




