赤い月
カプリースのアーティファクトが起こした津波とも洪水とも呼べる水流は極めて広範囲に渡って被害をもたらしていたらしく、どれだけ浄化作業を続けていても終わりの目処が立たない。アベリアたちと合流してからは会話をできるだけ最小限のものにして、辺りに聖水を撒き続けた。
季節は暑さから寒さへといよいよ移り始めたくらいの時期。それでも未だに残暑は抜け切っていない。そんな中での長時間の活動は非常に難しく、数度の水分補給や昼食を摂ったのちの休憩などを交えても、汗が出なくなることはなかった。
「これよりも暑い時によく山なんて登ったよねぇ」
「それはオレの住んでいた山のことか?」
「そうだけど? それ以外に登っていると思う?」
なにやらクラリエとガラハが言い争うような雰囲気を出し始めていたので、割って入って仲裁しようとも思ったのだが、二人がなにか話をするたびにアレウスが気を回していたのではいつまで経っても腹を割って話すことはできないだろうと思い、静観する。
「草原よりも木陰のある山の方が涼しいと思うんだがな」
「でも登るってことは体を動かすってことでしょ?」
「それなら今も運動していることに変わりはないだろ」
「まぁ確かに。だったら、山登りの方がまだ気が滅入らなかった方かしら。あっちは一応、目標があったんだから。ドワーフの里に行くって目標が」
「この浄化作業はいつ終わるかも分からないか」
「そういうこと。目標が見えないから、目的地が見えないから、気が滅入るってわけ」
「違いない」
どうやらアレウスが想像していた展開にはならなかったようだ。仲裁に入っていたならば、逆に険悪なムードを作っていた。静観できたことにアレウスは心の中で自分を褒める。
しかし、そのような僅かな高揚も時間が経てば薄れていき、やはり暑さに気持ちは落ち込んでいく。
「みんな、休憩にしよう。でないと暑さで倒れてしまう」
そう提案して、みんなの顔を軽く見渡す。
「私はまだ続けたい」
「駄目だ」
アベリアの提案を跳ね除ける。
「どうして? みんなはずっと作業を続けているのに……私たちは休みすぎなくらい」
「休憩っていうのは誰かが倒れてから取るものじゃないんだ。動ける内に休憩して体力を回復させる。鉱夫の僕が言うんだから、信じろ」
「でも……」
「猟師や農家に助けられてきたから、その恩返しをしたい。その気持ちは僕だって同じだ。でも、倒れてしまったら恩返しもできない。周りがずっと働いているように見えるのは、人数が多いことと視野に限りがあることで起こる錯覚だ。たとえば、五人が休憩を取ったタイミングで、他の五人が働けば、労働力に差は出ても労働人数に差は生まれない。働いていると周りが見えなくなりやすい。そうやって周りの景色があんまり変わらないから、休憩を取ろうと思っても取れないままに働きすぎて倒れてしまう。それは労働力の差よもずっと大きな穴になる」
鉱山で働いた場合、体力の計算は洞窟を出て家に帰るまでで行う。鉱山に行った切り、洞窟での作業中に倒れたら仲間の鉱夫に迷惑を掛けるだけでなく、場合によっては助からない。生きるためには休憩は取らなければならない。働き続けられる者などいないのだから。
「アレウスに賛成する。この暑さに過度な発汗は水分を取らなければ体調を崩す」
「別にアレウス君はアベリアちゃんに意地悪をしたいわけじゃないんだから。ね? 休憩しよ?」
「……うん」
渋々、アベリアが了承する。ここまでアレウスの意見に反対した彼女を見たのは久々だった。それほどまでに今回の件には胸を痛めているのだろう。そこには共感もできる。だが、カプリースのアーティファクトが暴れてくれなければ魔物と獣人の進軍を留めることも、そして撤退に追いやることもできなかったのも事実だ。その尻拭いをカプリース以外の冒険者がやらなければならないのは納得の行かないところではあれど、誰かがやらなければ浄化も進まない。冒険者がやったことを冒険者が片付けるのも、協力だ。
冒険者が用意した簡素な休憩所に行き、各々が水分補給を済ませて腰を下ろす。
「そうだ、アベリア。クルタニカさんはどうなった?」
彼女が卵のような氷の塊の中で回復に入ったことは、異界から脱出後の宿屋で聞いている。その後、変化はあったのかが気になっていた。
「ヒビが入っているから、もう少しで回復を終えるんじゃないかってデルハルトさんが言ってた」
「それってなにか、後遺症が出ることはないのか?」
「今回で三回目らしくて、二回ともそんなのは無かったって。でも、ちょっとお茶を濁すような言い方だった気がする」
「お茶を濁す?」
「『教会の祝福』で甦るよりも多少、面倒なことが起こるとかなんとか。詳細については教えてくれなかった。私たちが心配するほどのことが起きるわけでもないって」
肉体を再生する方法が祝福かそれとも自力かの違いなのだが、後者の方が苦難であることは想像できる。『教会の祝福』が人智を超えた力による再生であって、本人の力を求めない点においては、なにもかもに勝るため、冒険者になった際にそれを欲するのは当然のことだ。なのに、クルタニカは神官でありながら、どういうわけか自力での回復を選んだことになる。それとも、クルタニカの血に半分、流れているガルーダの血がそうさせるのだろうか。
「クルタニカはアレウスを守ってくれた」
「正確には僕じゃなくてクラリエを守るために動いていたように思えるけど」
彼女がクラリエの気配を感知できていなかったとは思えない。だから、アレウスの傍で息を潜め続けていた彼女を見張るようにしてクルタニカは付近を飛び回っていたのだろう。獣人を追い払ってくれたのはそのついでだろう。そのすぐあとに『影踏』が現れて『人狩り』と交戦したところを踏まえても、その可能性が高い。
「あたしも守られてばっかりだったし……自分の身は自分で守れるようになったつもりだったけど、まだまだだって分かったし……だからアレウス君のパーティに入ったわけだし」
一人で活動していくよりも、複数人での活動がクラリエには望ましい状況になった。木を隠すなら森の中とはよく言うが、まさにダークエルフとはいえ一介の冒険者に過ぎない彼女が、まさかイプロシア・ナーツェの娘とは思うまい。
とはいえ、『衣』を発現し、『森の声』と繋がった。そのため、死んでいたことになっていたはずが生きていることをエルフには知られたらしい。しかし、同族に姿を見られたところで、ダークエルフである限り、特定することは不可能だろう。なにせその情報までは『森の声』と僅かな間、繋がったとしても伝わりはしないのだから。
「ガラハはどうだ? 今回の浄化作業はヒューマンの自業自得と見て、参加しなくても良かったんじゃないか?」
「確かに、この件はヒューマンの愚かさがそのまま形となったようなことではある。だが、オレはやりたいようにやるだけだ。山とは形式が違うとはいえ、草花や農作物、そして森や川が穢れるのは見てはいられない」
「結局、目標は目的が異なってはいても、そこに至る導線が同じなんだよ。ヒューマンの冒険者にとっては防衛後の後始末。ガラハやクラリエさんは自然を守るための活動。方向性は違っていても、なにもしないという選択は取らなかった。アレウスが心配することは今のところ無いよ」
パーティの人間関係を不自然に気にしていたのはどうやらみんなにはバレバレだったらしい。
「そんなことに気を向けている暇があったら、今夜を乗り切ることを考えろ」
「今夜? なにかあったか?」
ガラハが意味深に言うが、心当たりがないので訊ねる。
「今夜は月に赤い花が咲く。赤い花が」
「……花が?」
「あー、ガラハが言いたいのは月花のことだと思う。月の花と書いて、月花。でも、エルフの間では月の赤と書いて月赤って呼ぶこともあったかな」
自身が持ち得る限りの記憶から、クラリエの補足してくれた言葉を頼りにして、その意味を思い出す。
「ヒューマンだと赤い月って表現だったか?」
ヴェインに問い掛けると、「その通りだよ」と返事をされた。
「魔が生まれる夜」
「赤い月が差す光は人種に悪魔憑きが現れやすい……だから気を付けろってことか」
アベリアの言ったことに、アレウスが付け足す。
「月赤の周期とか、なんで赤く染まるのかの理由は分からないんだけど、星辰から予知できることなんだよねぇ。あたしはサッパリだけど、街の占い師が声を揃えて今日の夜だって言っていたから間違いないと思う」
エルフにとって『赤』はなにを意味するのかは不明だが、クリュプトン・ロゼが用いた『赤』の力はあまりにも暴力的で凶暴なものだった。そのため、吉兆というよりは凶兆という意味で使われているのだろう。クラリエの顔を見れば、彼女の言うところの「月赤」が危険であることは容易に想像できる。
「アレウスは産まれてから、赤い月を経験したことはないのかい?」
「ない。普段から真夜中に外出するのは控えていたからな」
赤い月のことは文献や古書などで知ってはいたが、実際にその夜に出歩いた経験はない。魔物の脅威をよく知っているからこそ、人気の少ない時間帯に外出することが危険だと分かっていたからだ。だからアレウスもアベリアも、赤い月を見たことはない。
「俺の村じゃ赤い月が昇ると分かれば、全員が日が沈む頃には家に帰る。玄関の扉には魔よけの札を貼るんだ。家の中の扉という扉全てにも貼るところもあったかな。窓も危険だから魔よけの札を貼る。その日は雨戸も閉めて、絶対に開けない。絶対に日が昇ると分かる昼食時になるまでは、外に出ることは禁じられる。だから、目を覚ましてもずっと部屋にある時計と睨めっこしていたかな」
「ドワーフは出歩くことを制限されることはなかったが、里の外に出ることは認めらることはなかったな」
「あたしはハイエルフの神域にいたから、みんなが慌ただしく動き回って、あたしを部屋に押し込める日がいわゆる月赤なんだなって思ってた」
「人種によって対応に違いはあるけど、伝わっている内容は一緒じゃないかな。この日は悪魔が降りてきて、人種をかどわかして契約し、悪魔憑きを生み出す。悪魔憑きは人を殺せば殺すほど強まって、最終的には魔人に至る」
「魔人か……」
みんなの説明を聞きながら呟き、アレウスは段々と水を飲む速度が落ちてくる。まだ喉は渇いているはずなのに、水を飲むという動作が禁じられているかのような緊張感があった。
「子供が狙われやすいって言われているの」
「ああ、確かそんな風に書いてあったっけ」
どうしてだったか。アベリアの言ったことについての理由を記憶から探し当てる。
「純粋で、悪魔の囁きを心の底から信じやすくて操りやすいからと、あとは……」
「成長期の子供は、悪魔憑きとして姿を消してしまったら数年後に強力な魔人になりやすいから」
アベリアに補足されてしまった。だが、ここまで思い出せたのもみんなからの言葉を聞いていたからだ。赤い月など、アレウスにとってはどうでもいい現象の一つに過ぎないと考えていたくらいだ。信仰心が限りなく低いアレウスにとって、赤い月や悪魔のような迷信めいた話はどれもこれも現実味がない。
それでも赤い月の噂を聞けば、外出を控えた。それは僅かでも、迷信ではないのではという疑惑を捨て切れなかったためだ。疑うに越したことはなく、身の安全こそが冒険者になる前は最低条件だった。なにより、迷信が現実になった時、自分自身がその悪魔の囁きに抵抗できる自信がなかった。力を与える代わりに体を貸せ、などというような誘い文句をかけられた際、跳ね除けられるほどの精神力は今に比べれば無いに等しかったのだから。
「今夜を乗り切ることをって言うけど、僕たちは悪魔に惑わされるような冒険者じゃないはずだ」
「ああ、オレたちは確かにそうだろう。だが、子供はどうだ? 街を守るために起こされた洪水で、住む家を失い、更には親すらも亡くした子供がいたならば、どうなる?」
アレウスはごくりと唾を飲む。
「呪言を用いるあたしが言うのも変な話だけど、子供が溜め込む呪いは一番怖いのよ。純粋な気持ちで人を恨むし、呪う。そしてその恨み節と呪いに、世界は応じやすい。ひょっとすると、全ての子供が等しく冒険者の才を秘めているからなのかも」
「ロジックが逆効果ってわけか」
この世界では当たり前のようにロジックが存在する。だがそれは同時に、生き様に刻まれるテキストに強い力が込められやすいことを意味している。明日になれば忘れる小さな失敗も、ロジックにはしっかりと刻まれて、そこに干渉されればその当時の感情が呼び起こされる。
だとすれば、何十年経っても忘れることのできない悔いや恨みや呪いが、テキストに溜まり続けた場合、そのロジックは果たして、神官の言うところの「清廉なる力」と呼べるのだろうか。




