混乱を乗り越えて
仲間がいれば、強気になれる。それは誰だって同じだが、アニマートが言うようにアレウスは露骨すぎた。それと言うのも、形成が逆転ではないにせよこちらに傾いたことが大きい。
自分が不利になれば元気をなくし、有利になれば元気が出る。至極、当たり前なのだが、だからこそ、その当たり前を口にするのは控えるべきなのだ。人に嫌われやすいからでもあるが、なにより戦っている相手に感情を読み取られやすくなる。対人戦であったなら許されていない。
「『盗歩』は通った。だから、鎧の乙女にも一応はヴァルゴの感覚がある」
霧がヴァルゴの全てであるのなら、鎧の乙女はヴァルゴの一部。視覚情報を得るための器官とするなら、意思が介在すれば『盗歩』が通ったことにも一応、理論付けることができる。ただし、これらでヴァルゴの全てを把握したとは考えにくい。
異界獣はいつだってアレウスにとって脅威だった。だから、仲間や強力な助っ人が現れたからという理由だけで、“討伐できる”と思ってはならない。巣の主が、こんなことで魔力を喰うための獲物を逃すわけがない。
だが、そこを押し通ることこそが目標である。ならば、怯えて様子を窺うよりも自ら死線を潜りに行く方が正しい。幸い、アレウスは死の一撃を直感的に察知できる。無謀、無策も言葉で変換するのならば、多少の無茶ぐらいにまで意味合いが低下する。
真っ直ぐ、愚直に、一直線に。アレウスはクラリエよりもエウカリスを目指す。意識が戻っていないとはいえ、クラリエは解放されている。つまり、あんなことを言ってはいるもののアニマートが気にかける。取り敢えずの庇護下に入っていられる。だが、エウカリスは拘束を解かない限り、そこに入ることさえ叶わない。『緑衣』を纏っていながらも、両手両足を束縛するヴァルゴの霧の腕を解くことができていないのは明らかにおかしい。確かに彼女を拘束している腕は、もう形が変化していて、人の皮が縄のようになった代物となっているが、見た目としては単純な変化でしかないそれを切り払えていないのは、異常事態が起こっていると考えていい。だからこそ、ここはエウカリスを優先する。その分、危険は増すが仕方がない。
エウカリスを見捨てるわけにはいかない。彼女は死んでいて、魂だけの存在であるのだとしても、まだアレウスは彼女との約束を果たせていないのだ。あれは心から頼まれたことだ。完遂することに意義がある。
鎧の乙女の前でアニマートがフラフラと歩きつつ、振るわれる大剣を弾き返し、鎧を杖で砕く。防御の魔法に限らず、筋力の加護も自身に付与していると思われる。でなければ、あんなに容易く鎧は砕けない。そして、鎧の乙女も自身が剥離させた鎧の分も含めて、もうほとんどその姿は晒されている。やはり、衣服と合わせて女性の肉を被っているため、その姿は極めて人間に近い。だが動きは人外であるため、混乱はしない。
鎧を失っても、ヴァルゴは肉の皮から霧を噴き出させて、鼻歌のような音楽を奏でている。鎧による反響音によるものかと思いきや、ヴァルゴが持ち合わせている能力、或いは技能であったとここで発覚する。
そして同時に、アレウスの思考が強い混乱に見舞われる。濃霧による方向不全、視界不全に続いて、遂には聴覚にまで異変が及ぶ。周囲の音を拾って行動していたため、この無音に近しい世界に、自然と足が止まった。
濃霧を切り裂いて、鎧の乙女が前方に現れる。だが、その容姿は先ほど見たものとは異なる。こちらは鎧が一つも剥離しておらず、そしてアニマートにも砕かれていない。幻影と断定するべき要素が多数あるので、無視する。
刹那、アレウスの頭を直撃するはずだった大剣を傍まで距離を詰めていたヴェインが防ぐ。
「どうしたんだい、アレウス? 君らしくもない」
鉄棍で大剣を押し飛ばし、続いて鎧の乙女を牽制すべく前方を薙いだ。
「幻影だと思った」
「幻影だとしても、立ち止まるのが君だろう? 怪しんで、確実に幻影と思う部分を見つけるまでは注意を続けるのが君だっただろう?」
聴覚が回復している。ヴァルゴの鼻歌の効果は一定時間で消えるようだ。思えば、今までも何度か鼻歌を耳にしてはいたが、感覚のなにもかもが失われたことはなかったし、方向不全が永久的に続いていたこともない。視界不良であることは今も継続中だが、それは霧が本体であるヴァルゴの強みであるため、鼻歌とはあまり関係性がない。
ヴェインの言う通り、もっと慎重に見極めなければならなかった。それができなかったのは、やはり鼻歌のせいだ。あれが思考力を奪ってくる。
「お前はあの鼻歌が聞こえないのか?」
「聞こえているよ。物凄く、気味の悪い音色だ。どういうわけか、ガラハも足を止めてしまったから俺が出なきゃならなかった。恐怖で動けなくなるタイプじゃないだろ、彼は? それに、ニィナさんも動けなくなっていたようだし」
ヴェインにとっては、鼻歌は気味の悪い音色程度の代物であるらしい。
「そう言えば……いや、いい」
彼には『純粋なる女神の祝福』というアーティファクトがある。その効果は全ての状態異常を完全に防ぐもの。今回の鼻歌がいわゆる状態異常と認定されるレベルの混乱を呼び起こしているから、ヴェインは混乱しなかった。だとすれば、エウカリスの救出はヴェインが適役なのかもしれない。
しかし、アレウスを突き動かしているものは理屈で説明が付くようなものではない。感情で語れることだ。危険であろうとも、アレウスがエウカリスを助けに行く。そうしなければ、ヴェインは彼女がひた隠しにしていることに気付いて、思わず口走ってしまうかもしれない。信じていないわけではないが、ヴェインだって彼女がまさか死んでいることを隠しているとは思わない。事情を知らなければ、唐突に事実が声となって漏れてしまう。
「僕がエウカリスを助けに行く」
だから、この場合はヴェインにも一時的ではあれ嘘をつかなければならない。
「今のは幻影じゃない。アニマートさんが戦っているヴァルゴじゃなく、新たに生まれたヴァルゴだ」
「霧で新しく作ったってことか」
本体なのか分身なのか。そもそも本体がこの場にいないのか。それを深く考えれば、またヴァルゴの鼻歌によって混乱に陥りかねない。もっと単純に考え、そして自身の思考を疑う。それが唯一の対策なのだが、エウカリスに言われてから一度も成功していない。思考とは自分自身の意識そのものなのだ。それを疑うということは、自身の生き様を疑うに等しく、混乱を解くには自身の常識を自らの手で破壊するための、別の意味での覚悟を要する。
しかし、一つの可能性をアレウスはそこで見出す。
「ヴェインは、鼻歌を気味の悪いものとしか考えないんだな?」
「ああ。それ以外になにかあるのか?」
「……そう思えるなら、問題はなさそうだ。頼みがある」
自分の思考が信じられないのであれば、仲間の思考を信じればいい。
「これからも時と場合によるだろうけど、とにかく今はヴェインが指示を出してほしい。僕だけじゃない。アベリアやガラハ、ニィナやアイシャを的確に動かすにはお前じゃなきゃ駄目だ」
「アレウスが前線に出るからかい?」
「それもあるけど、ヴァルゴの音色を聞くと思考が不安定になる。思考に留まらず、方向不全に聴覚の乱れも起きる。僕は僕自身の判断を信じられる状況にない。きっと、アニマートさん以外の全員もそうだ。でも、敬虔な僧侶だからかお前だけが強い抵抗力を持っているみたいだ。だから、お前が指示を出してくれれば、その言葉に間違いはないと判断して動ける。それが合理的なのか、効率的なのかは考えなくていいから、どう動けばいいのかを教えてほしい」
「それで君が死ぬことになるかもしれないのに?」
「仲間を信じて死ぬ。特段、悪いことじゃない。異界ってのが最悪なんだろうけど……後退して、アベリアやガラハにも僕がそう言っていたと伝えてほしい。そうすればあの二人も、ついでにニィナとアイシャもちゃんと動いてくれる」
むしろアレウスの指示で仲間を動かした場合、ヴェインの指示よりも危機的状況に陥りかねない。
「……分かったよ。でも、期待はしないでほしい」
「期待はしない。信じている」
「それ、あんまり嬉しい言葉じゃないなぁ。期待されるように、俺も勉強したいところだね。取り敢えず、アレウスの目的はあそこのエルフだよね? だったら、さっきと変わらず真っ直ぐ突き進んで構わない。で、目の前に現れるのは全て敵だ。幻影なんて考えなくていい」
「分かった」
「じゃぁ、俺は下がるから」
ヴェインが後退したのを確認後、アレウスは二体目の鎧の乙女と対峙する。一体目がアニマートの目を盗んでアレウスの元までやって来ることはまずないだろう。だとすれば、エウカリスを救出するには、この鎧の乙女を出し抜かなければならない。
「怖がったって仕方がない」
判断が間違っていようとも、思考が鈍ろうとも、足を止めてはならない。それが全て鎧の乙女にとっての攻撃のチャンスになってしまう。隙は作りたくて作るものではないが、できることならば少ない方がいい。
ヴェインに言われた通り、アレウスは突撃を再開する。鎧の乙女が前方を遮った。同時に鼻歌が奏でられる。視界不良は継続。方向不全には陥ったが、辛うじて右目がエウカリスという熱源を捉えたので、構わず走る。聴覚が乱れる。呼吸や足音がズレているような、そして反響して強い耳鳴りが生じる。
不安に押し潰されそうな中、鎧の乙女が振った大剣を左に避けて、左右の短剣で反撃しつつ、鎧に刃を擦り付けながら横を抜けようと試みる。寸前、鎧の乙女がその場で回転しながら振るった大剣が正面に近付き、左へと更に飛び退く。右目はエウカリスの熱源を捉えたままなので、ここでは鎧の乙女の剣戟には付き合わず、ただそちらへとひたむきに走る。
《私に、あなたが命を削ってまで助けるだけの価値があるとお思いですか?》
エウカリスが“森の声”を用いてアレウスに問い掛けてくる。直後に再び鎧の乙女が迫り、右に左にと振られる大剣をかわす。もう何度目かも分からない、一手でも間違えれば首どころか体が真っ二つになる緊張感に、息を強く吐き出しながら、顎に力を入れすぎて歯軋りが起こる。それらも耳鳴りとなってアレウスを襲うが、どんな情報にすらも惑わされずに、剣戟を凌ぎ切ってみせた。
「アレウス!」
耳鳴りの中に、微かなヴェインの声を掬い取る。
「君の前に、どんな者が現れてもそれは敵だ! 君にとって敵じゃないのは、君が助けたい者だけ。そっちの特徴は覚えているだろう? それを辿るんだ!」
特徴――恐らく、ヴェインはエウカリスが囚われている状態にあることを伝えている。それがなにを意味するのか。どういった意味合いになるのかはまだ分からない。
しかし、すぐにその意味を悟る。
アレウスの前方に、アベリアがいる。アベリアが立っている。いつものように微笑みを投げかけて、アレウスを求めるように両腕を広げて待っている。
歯軋りは更に強くなる。これは先ほどの緊張感からではなく、怒りから来るものだ。
「僕より前にアベリアは立たない!」
二本の短剣で、アベリアを切り刻む。しかし、手応えがない。それどころか金属音が返ってきた。アベリアだったものの化けの皮が剥がれ、鎧の乙女となって後退していく。
ヴァルゴは鎧の乙女を霧で仲間に化けさせていた。だからヴェインの指示が飛んできたのだ。
だとすれば、エウカリスにも化けるのではと考えたが、『衣』はエルフにだけ与えられた生き様を燃やす方法で、異界獣はその術を知らないからだ。もし化けられても『緑衣』で見分けがつく。
《私はもう死んでいるのですから、クラリェット様を連れて撤退が上策なのではないでしょうか?》
「守るべきか守らないべきかは僕が決める。だから、黙って助けてもらえばいいだろ」
《私よりも弱い存在に、助けられる。なんとも惨めな話です》
「弱いとか強いとか、そんなものでしか人を推し量れないわけじゃないだろ?!」
アレウスは鎧の乙女と強く衝突する。
「もうお前は知っているはずだ! 強さ以外で、人は動くんだと! 強さや効率、利益に限らず、感情で人は動くんだと!」
大剣とはやはり、分が悪い。それでも抜けなければならない。
「僕はお前を助ける。助けて、お前が僕に頼んだことを果たす。絶対にこれだけは譲れない! 僕は冒険者だから!」
《冒険者だから?》
「頼まれたことはなにがなんでも完遂させる」
《……果たせないことも多いのでは?》
「そうなんだとしても、助けることが冒険者の矜持だから!!」
『盗歩』を用いて、距離を詰め、そして鎧の乙女の横を擦り抜ける。同時に、鼻歌が奏でられて思考の混乱が生じる。
「迷うな、アレウス!!」
唇を強く噛み、混乱に立ち向かいながらアレウスは辿り着き、エウカリスを拘束を短剣で全て断ち切る。
後方に鎧の乙女が迫り、大剣ではなく拳が背中を打つ。骨が確実に砕けたような音を耳にしつつ、襲いかかる痛みに表情を歪ませて叫び声も上げそうになる最中、エウカリスが『緑衣』で鎧の乙女を押し返し、アレウスの片腕を掴んだ。
《どこまでも無謀なヒューマン。私を助けたところで、戦況が良くなると言い切れるわけでもないのに、そうなると信じて疑わず、ひたむきに……》
細腕には似合わない腕力でアレウスを引っ張り、摩擦を受けない移動を始める。アレウスが死ぬ気で突き進んだ道のりを逆走し、あっと言う間にヴェインたちのところへ送り届けられた。
「彼の骨は砕けています。回復の魔法をかけてあげて下さい。意識はハッキリとしているようなので、すぐに戦線には戻ってもらいます」
そう言ったエウカリスの『緑衣』が輝きを増す。
《私に敬語を遣わなかったことについては大目に見ましょう》
『緑衣』の端から、アレウスの手元に彼女の手帳が落とされる。
《燃やすわけにはいきませんから、早くそのアーティファクトの大体を掌握して下さい。あなたは私が、この異界を出るための要に成り得ると信じて疑っていない。私の『衣』は貧弱ですが、せめてハイエルフの誇りに賭けて、それを実現してみせましょう》




