反撃はすれども、先は見えず
霧そのものが異界獣であるというエウカリスの仮説をすぐには飲み込むことができない。
《声を出さずに聞いてもらいたいのですが》
左耳にだけ聞こえる彼女の声に、思わず驚きそうになったのだがどうにか抑え込む。
《霧は気体に属しているので、風の流れがありません。私が矢をつがえていた最中に首元に絞め付けを感じました。すぐに動いたのですが、首元に巻き付いた霧は離れることなく、そのままヴァルゴの腕として顕現したのです》
アレウスは視線だけでエウカリスになにをどう伝えたらいいのか迷う。そもそも、意思疎通が可能なのかどうかも曖昧だ。だが、伝わらないと決め付けるよりは伝えることに重視した方がいいのは明らかだ。
《クラリェット様は隠密に優れていますから、異界の主に居場所がバレることはほぼ無いでしょう。ただ、あなたは前衛を務める以上は音を出さざるを得ず、私もクラリェット様を守るためには音を出しての行動を強いられます…………ええ、そうです。この霧は私たちの発する音を頼りに居場所を突き止めているように感じられます。しかし、隠密に徹しられてしまえば異界の主はあらゆる人種を逃がしてしまいます。それを阻止するための肉の皮を貼り付け、鎧を纏った存在が霧を中心に動き回っているんでしょう》
だとすれば、アレウスが取るべき行動も見えてくる。
《首を絞められるまで気付けないとは、『緑衣』に甘えてしまっていました》
翡翠の羽衣が炎のように揺らめきながら振り回され、辺りの霧を払う。
《私が囮になります》
そう言って、エウカリスが矢を射掛ける。翡翠の軌跡を描きながら、矢は穿つ相手を探し求めて空を彷徨う。同時に彼女は駆け出す。それを追うように霧が集まり、再び彼女を捕まえるべく腕が顕現するが、二度目は無いとばかりにその腕を空で彷徨っていた矢が穿つ。
濃霧の中にエウカリスが消えて、アレウスは言われた通りに可能な限り、音を立てずに活動する。まずはクラリエと合流するのが先決だ。彼女が戦っている間に、彼女が戦いにくいであろう問題を取り除く。それが急務に違いない。
また、救ってもらうのか?
しかしそれは、一つの文章としてアレウスの脳裏に浮かび上がる。浮かび上がったのであれば、それは徐々に心の音色に変わり、更には声として脳内で響くようになる。誰が言ったわけでもないのに、足が止まる。
また、犠牲の上で救われるのか?
唇を強く噛み締める。下を向いていた頭を上げて、前を見る。
後ろめたいと思うのなら走れ。
それは恐らく、心の叫びであり、アレウス自身の本当の感情である。同時に、他の誰にも理解されない強い欲望だ。
逃走する気持ちを捨てる。闘争心に火を灯す。
アレウスは強く地面を踏み付け、続いて霧の中をがむしゃらに駆け出す。
《馬鹿なんですか?!》
「僕の欲です」
考え方が後ろ向きだった。
エウカリスが生き様を燃やすのならば、アレウスも命を賭ける。味方の一人が体を張っているのに、自らはなにもせず見守っていることなどできない。
なにより、これは望んでいたことじゃないのか? そのように自身に問い掛ける。
異界獣と戦うことはずっとずっと望んでいたはずだ。
なのに、ずっと逃げてばかりだった。
異界獣を倒す。異界を壊す。どれもこれも、無理だと笑われてしまうほどに大きく大きく掲げた目標だ。なのに、ずっとずっと手の打ちようがなく、なにもできず、なにも果たせないままに逃げ続けてきた。リオンも、ピスケスも。
そして、ヴァルゴにさえもアレウスは逃げ出すのか。エウカリスに囮になってもらい、クラリエを連れて逃げるのか?
絶対にできない。それはもうできない。
あの男に、そしてあの女性に命を賭けてもらって救われた。そしてまた、エウカリスに命を賭けてもらって救ってもらうのか。確かに彼女はもう死んでいる。しかし、こうして囮になってもらっていることにはなんら違いはない。
救われたばかりはもう嫌だ。このままでは自分は前に進めない。上を目指すことができなくなる。自らの矮小さに苦しみ、動けなくなる。
そうなると、アベリアもまた同調するだろう。彼女にとっての全てはアレウスなのだ。彼女の中でアレウスが全ての中心に存在する限り、自身の決断は彼女の決断にも繋がり、自身の挫折は彼女の挫折となる。
彼女の生き方を任されている。委ねられている。信じられている。だから、引き下がれない。今、ここで立ち向かうことでしかアレウスは自信の喪失を阻止できない。
引き下がれない上に、死にたくもない。
それでも、ヴァルゴという異界獣と戦う機会を得ている。
勝つことはできないだろう。負けることはつまり死を意味するだろう。だが、逃げれば自身の基礎を揺らす。
だから、アレウスは立ち向かうことを選ぶ。むしろそれ以外に選択肢はない。もし、あるのだとしてもアレウスは絶対に挑戦する方を選ぶことしかできない。
嫌々選ぶのではない。望んで選ぶのだ。心に強く強く言葉をぶつけ、不敵な笑みを浮かべて殺意を高める。
ヴァルゴはエウカリスを脅威と捉えているが、アレウスのことも未だ無視できない存在としているだろう。予想は現実となり、濃霧の中で鎧を纏ったヴァルゴがアレウスに剣戟を繰り出す。
濃霧そのものがヴァルゴであるというのがエウカリスの見立てだが、しかし周辺の霧を全て掻き集めてヴァルゴという意思が成立するとは考えにくい。そのため、スライムのように核を有しているのではないだろうか。鎧の中にそれがあるとは言い切れないが、しかし鎧を動かすためのなにかは必ず潜んでいる。それさえ崩せば、あとは霧からの脱出に念頭を置けば、エウカリスを囮にせずに済む。
相変わらず、エウカリスは自身に意思を持って収束してくる霧の全てを『緑衣』で払い飛ばし、さながら探知機代わりに翡翠の矢を上空に放っている。自身がヴァルゴに襲われ、身動きを取れなくなったとしても予め放っておいた矢が彼女を拘束するものを射抜くという算段だ。
『火種が激しく燃え上がっている。貴様も、人類の悪意の塊だ。生き様を燃やしているエルフ共々、この世で葬り去る』
火種という表現がなにを指しているのかは分からない。だが、ヴァルゴにとってはエウカリスだけでなくアレウスも抹殺の対象であることはこれで確定した。大剣を避け、続け様にくる攻撃の数々をギリギリで凌ぎ、短剣で鎧の隙間を裂く。肉には至らない。更にその奥には通らない。鎧を剥離して加速力を得た分、隙間を精密に狙わずとも刃は通るようにはなった。
だが、鎧が霧のような気体ではなく固体であり、れっきとした物質であるならば、いずれは繋ぎ目さえ切断してしまえば、肉も断つことも可能になる。そして、霧散させてしまえばヴァルゴは奇襲でしか干渉ができなくなる。それも、こちらが音を立てさえしなければ不可能な戦法だ。
だから、このヴァルゴの基準である鎧の乙女を撃破するのが急務。この存在こそが探知機だ。倒せば、あとは感知の塊である霧の中を慎重に歩み、脱出できる。
「絶対に引き下がってたまるか」
クラリエやエウカリスほどではないが、アレウスも瞬発力と反射神経には自信がある。これまで、なんのためにルーファスに稽古を付けてもらっていたのか、なんのためにエウカリスに体が鈍ってしまわないように訓練をしてもらっていたのか。全てはここで放出するためだ。
そう、実戦で形にできないのならば、稽古も訓練に意味はない。経過の果てに結果はある。結果を出すためには経過も大切だが、経過が腐っていては結果も腐る。それは経験であっても同義だ。
大剣のリーチに短剣では敵わない。だがそれはどんな状況でも言えることだ。短剣という武器を選んだ以上、リーチの足りなさは付いて回る悩みだ。だからその解決策も模索し続けてきた。立ち回り、足運び、隙を突く。そのどれもを駆使して生きてきた。
あの男に学ばせてもらったことを、真似ているだけだとルーファスに言われて考えた。
そして、考えたからこそできるようになった動きもある。
凌いで凌いで、凌いだ先で見える相手の隙。ヴァルゴは異界獣であるが、思考を有してこちらに魔力を用いて言葉を送ってくる。つまり、この異界獣に対してだけは『盗歩』が使える。
狙い通りに鎧の乙女の懐まで詰め切る。更にそこから相手の右手側へと身を向ける。どれもこれも右側からのスイング――薙ぎ払う仕草を見たからだ。横薙ぎに振るわれるとはいえ、完璧に横一閃に振るう動作をここまで一度も見ていない。つまり、横薙ぎではあるがそこには僅かに角度が付いている。それは身長、腕の長さと武器の重みで引き起こされることなので、どの人種にも共通する剣戟の癖だ。だから屈んで滑り込めば、回避しながら詰め切った距離の中から反撃の流れに移ることができる。
地面から跳ね上がるほどに脚力の全てを駆使し、そして短剣でのスイングを強く強く意識して、あらゆる力をそこに込めて振り上げる。鋭い剣戟、そしてほぼ真下から来る攻撃は鎧の乙女の右脇を切断する。血飛沫の代わりに巻き起こる濃霧によって視界を閉ざされるが、焦らず気配だけで鎧の乙女の位置を探り、切断された右腕が握っていた大剣を左手で持ち直しながら振るう一撃を避ける。
《……アレウス、どこでそのような技を?》
「技?」
霧が晴れない以上はエウカリスの援護はない。翡翠の矢は紅の矢よりも万能ではないことをここまでで把握している。あれはエウカリスが認識した範囲の生物、物体しか追尾しない。そして、見えなくなった対象は追いかけられず、再発見するまで中空を彷徨う。なので、霧をエウカリスの『緑衣』が払い飛ばすまで、この鎧の乙女のラッシュを受け切らなければならない。
《下からの短剣による切り上げ。地面から限りなく近いところから跳ねて起こす剣戟の軌道は、さながら地面から突き出す獣の牙の如く。分かりますか? 今のは獣の剣技です》
「けも、っ!?」
詳しく訊ねようとしたが、そんな余裕は一瞬で失われた。
大剣は目視していた。そうでなくとも、振られる際に起こる空気の流れや生じる音で反応できていた。なのに、剣身がアレウスの見える範囲で消えた。
「くっ……」
唐突ではあった。余裕もなかったが、どうにか対応はできた。何故なら、この現象をアレウスは一度、体験している上に対処し切ったことがあるからだ。
「隠剣……なんでお前が」
《……あなたに負けた男が姿を消しましたが、その剣技をここで見たということは、つまり、そういうことです》
「喰ったのか?」
思わず、鎧の乙女に訊ねてしまう。そのように言葉をぶつけたところで、予想は的中している以外にないというのに。
返事はない。だが霧の中から振るわれる剣戟は、切られるかの瀬戸際にならなければその剣身を見ることが敵わない。ここで出会った男とは太刀筋どころかリーチも違う。先ほどは回避できたが、ここから続けて回避し続けるのは至難の業だ。
なにせ、さっきのは反撃がくることを想定して避ける動作に移っていた。それがたまたま、功を奏しただけのことだ。右腕を失っても尚、戦う姿勢を崩さず、獣の悲鳴すら上げることのない異界獣は左手で、右手で振るった大剣と同じ具合で振り回す。利き腕という概念が存在していない。得手不得手が鎧の乙女に求めるのはそもそも間違いだ。
《クラリェット様が現在、動いています。あなたが注意を惹くというのなら、クラリェット様が仕掛ける時に私も射掛けましょう》
作戦はエウカリスの中では決まっているらしい。しかし、アレウスはいつ来るか分からないクラリエの一撃を待ち続けなければならない。この剣身を隠す剣技にどこまで体が反応できるか定かではない。
片腕を落としたというのに、どうにも優勢にならない。反抗の意志を見せても、ヴァルゴは全く動じなかった。これがなによりも、精神的に追い詰められる。
前には進もうとしている。しかし、本当に前に進めているのかが分からない。結果に至るまでの経過はいつだって、その時には良好か不良かは分からないのだから。




