唄い惑わす者
「魔物の臭いがします。とても強く、鼻が曲がってしまいそうなほど強い臭いです」
「その臭いがどちらから漂っているか分かりますか?」
「不思議なことに、辺り一面から漂っています。クラリェット様も、……クラリェット、様?」
明らかな動揺を感じ取ったため、アレウスがエウカリスに向き直る。
「クラリエさん、どこにいるんですか!?」
そして、向いたことで動揺の意味を知る。
この極めて短い時間で、クラリエを見失ってしまった。
霧は濃くなり続け、もはや濃霧と呼んでいい。エウカリスの顔さえ視認が難しい。
「そんな……クラリェット様の気配を、感知できません」
「どういうことです?」
「私は人物ごとに感知の仕方を変えています。色分け、グループ分けみたいなものです。クラリェット様は特に強く、感知できるように常に意識していました。それが、読み取れないとなると」
唾をエウカリスが飲み込む。
「クラリェット様はもう……死んで、」
「決め付けるのはまだ早いでしょう」
気配を掴めないから、死んでいる。そうやって決め付けるのは簡単だ。なにより、エウカリスは経験豊富なために、そうやって早急に結論を出せる。そんな彼女が断言するのを遮った。言い切らせてしまったら、それが現実になってしまいそうだと思ったためだ。
鼻歌が聞こえる。アレウスとエウカリスは背中合わせになって、集中力を高めていく。
クラリエの声がしたような気がした。そうアレウスは思い、顔を僅かに前方に向けた時には背中を預けていたエウカリスが動いた。濃霧の中に彼女が消えていき、続いて二人の声が再び耳に入った。
確信を持って、アレウスは一方向へと濃霧の中を駆け抜ける。すると、霧によって外界から隔絶されたような空間に出る。濃霧が辺りを覆っているにも関わらず、ここだけは視界が明瞭である。
そして、アレウスはクラリエに振るわれる大剣を、合間に割って入ることで受け止め、しかしそれを流し切れずに打ち飛ばされたエウカリスを捉える。
クラリエが自身を狙っていた生命体から目を離し、エウカリスの打ち飛ばされた先に首を動かす。アレウスは躊躇わず走る。
「アレウス!!」
激しく地面に身を打ち付けながらも、あるタイミングで受け身を取ったエウカリスが叫ぶ。
生命体が振るう大剣よりも速く、アレウスはクラリエの前方へと到達し、右腕に握る大剣でそれを受け止める。本来ならば、この圧倒的な腕力と、大剣が秘めている破壊力には叶わない。だが、ギガースに比べても弱い。だから、右腕ならば受け切れる。
生命体から、蒸気が――いや霧が放出される。そして、霧が漏れ出る度に、鼻歌のような音色が奏でられる。
「な、んだ……!?」
なにも生命体の体から霧が放出されたのではない。
生命体は鎧を纏っている。鎧の隙間から霧が漏れ出て、そしてそこを霧が、空気が通るたびに音色が奏でられているのだ。その音色は限りなく人種が唄うような鼻歌に近く、頭は違和感を憶え、錯覚に陥りかける。
「あなたは何者ですか!? どうして僕たちに剣を振るう?! 何故、僕たちに攻撃してきたんですか?!」
人ならば、交渉の余地がある。たまたま、偶然――とにかく、様々な理由があるだろう。それらの理由で、クラリエに思わず大剣を振るってしまったのではないだろうか。異界ではあり得る。いつどこから魔物に襲われるか分からない極限状態にあるのなら、気配を感じたその時に攻撃しなければ間に合わないこともある。極限の状況であることを踏まえ、この凶刃については大目に見ることもできる。
「違う! それは人間なんかじゃない!!」
クラリエが叫ぶ。刹那に、アレウスの体が宙を舞っていた。
受け止めていたはずが、大剣に乗せられる力が強まり、短剣ごと打ち飛ばされている。それを把握するのは、地面に激突する間際だった。強く生存本能が働いたことで反射的に受け身を取った。
エウカリスに稽古を付けてもらった際に見よう見まねで体得したものなので、付け焼き刃もいいところなのだが、アレウスが想像していたよりは体へのダメージを抑えられている。ギガース戦ではただの一撃でズタボロになっていたはずだ。剣戟を受け止めたのもそうだが、身体能力は冒険者として認められてから着実に成長している。
「動けますか、アレウス」
弦は切れ、折れてしまった弓を投げ捨てながらエウカリスが訊ねてくる。
「あれはなんですか?」
「“森よ、観測せよ”」
言霊を紡いだエウカリスに魔力が反応し、緑色の発光体が宙を舞う。そして鎧の何者かの前で沢山の粒子となって弾けた。
「エルフの魔法か……」
アレウスは独り言を吐きつつ、短剣を構え直す。五大精霊、自然元素、それら全てを掌握しているエルフが言うところの『森』、そしてその『声』に働きかけることで魔法を発現させているようだ。原理は分かろうと、魔力の器となれないアレウスには手を出しようのない叡智である。なので、ここはエウカリスの魔法による観測を待つ。
「名称はヴァルゴ。又の名を『唄い惑わす者』」
瞬間、アレウスの心臓の鼓動が強まる。
亜人であれば、エウカリスは「又の名を」とは口にしない。そして、冒険者や人物に与えられる異名は、“そのように長くはならない”。
鎧を纏った者――ヴァルゴが大剣で空を薙ぐ。腕を振ったことでその身を包む鎧の隙間に入り込んだ空気は霧となって放出され直し、鼻歌のような音色を奏でる。
「全身を纏う鎧は鉄壁で決して砕けず、霧と共に現れ、霧の中に獲物を迷い込ませる」
「唄っているわけじゃないだろうに」
「弱点は鎧の隙間」
「人種だってそんな簡単には鎧の隙間を切らせても、突かせてもくれやしないですよ」
ダラダラと喋っている場合ではない。アレウスはすぐさま戦線復帰し、クラリエへと迫るヴァルゴの大剣を受け、今度はそのまま流す。剣戟は地面を打ち、砕き、礫が宙を踊る。もう一方の腕が、宙を舞った礫を打ち、その一撃はアレウスの右側頭部を直撃する。
脳が揺れた。眩暈を起こし、視界が暗闇に染まっていく。気絶の一歩手前で舌を噛み、意識を引き戻す。それでも揺れた脳は平衡感覚を失い、膝を折る。
そのような攻撃の流れが存在するなど想像できなかった。なにせ、大剣で地面を砕き、浮き上がった礫をもう一方の腕で打ち飛ばしてくるなど、まず人外にしか不可能な動きだからだ。
比較的、人種の大柄な人物としても説明できそうな体躯が対人戦を意識させた。これがギガースほどの体躯をしていたのなら、もう少し慎重にアレウスも動いた。だが、魔物としてはどうしても小柄と呼べてしまう体躯に油断した。
感覚を、認識を変えなければならない。アレウスが対峙しているのは、紛れもない魔物の中の魔物。そして魔物を統べる異界の王である。
クラリエが急いでアレウスの体を掴み、引きずるような形であれ全速力の後退を行ってヴァルゴの追撃を凌ぐ。
「なんとかできるよね、エウカリス?」
無茶振りにも近いクラリエの要求に、エウカリスは首を縦に振って答え、アレウスの容態を診る。
「すみません……」
「いえ、私も油断した一人です。あの体躯であれば、亜人か者、どちらかであろうと思い込んでしまいました」
エウカリスが携帯品の小瓶を取り出し、アレウスの鼻を摘まんで口を開けさせ、ポーションを流し込む。噛んだ舌の痛みが和らぎ、そして再び飛びそうになっていた意識が鮮明なものに回復していく。その間も鎧の隙間に入り込む空気と放出される霧によって奏でられる鼻歌が響いている。
「逆に言えば、次からは油断しない……ということです。よろしいですね、アレウス?」
「はい」
失っていた平衡感覚を取り戻し、右側頭部に残る僅かな痛みを感じつつもアレウスは立ち上がる。
「でもなんで異界獣が? 最終感知エリアに入ったってこと?」
「エルフの目でしか見えない距離で確認しただけですよ? それなら、最終感知エリアが狭いという想定が覆ることになります」
「けれど、僕たちは“穴”を見ました。僕は見えていませんが、お二人は見た」
近付いてくるヴァルゴの動きは鈍いように見える。様子を窺っているだけだろうか。気を抜けば、またあのような想定外の攻撃の連鎖を行ってくるかもしれない。
「見たことが、この異界獣の感知に繋がる……のでは? “穴”を見つけた者だけを確実に殺す……荒唐無稽ですけど」
自身で言っていることに自信が持てないので、今までよりも小さな声で説明する。
そして、同時にアレウスは頭の中で起こっている認識の甘さに混乱する。今まで遭遇した異界獣の中では、まだ戦えるように思えてしまっている。思い込んでしまっている。それが、誤認であることは痛いほど理解しているはずなのにだ。
「この誤認は、どう払拭したらいいんですかね」
「獣の中には手負いを装うものもいます。あの異界獣はまさにその手法を取っているのでしょう。亜人として捉えても小柄に見えるあの体躯、そして遅いように見えて素早い動きも取る。なにより、この霧と……音色」
「霧であたしたちは方向不全に陥っているし、誰かの鼻歌のように聞こえる音色は、あたしを惹き寄せた」
「なんで一人で動いたんですか?」
そもそもの部分についてアレウスは訊ねる。
「だって、誰かが助けに来たんだろうと思ったから……でも、なんでそんな短絡的な答えを出したのか分からない」
「あの音色は、私たちに様々な誤認を与えてきているのではないでしょうか。だから、迂闊な動きを取ってしまう。私も、今から思えば……何故、弓で大剣を受け止めようとしたのか、自分ですら理解できませんから」
替えの弓を背中から取って、矢をつがえながらエウカリスは続ける。
「頭の中のあらゆる油断を疑い、排除した上で戦わなければならない。それも周囲は霧に包まれている。逃げようとしても方向不全に陥っている私たちは、絶対にこの場所に戻されるようになっているのでしょう」
獲物が罠にかかった状態とも言える。しかし、“穴”を見つけること自体が罠であるという認識は恐らく違う。ヴァルゴにとっては、仕方なくこの場に現れたはずだ。
「押し通ろうとすれば死ぬ。退こうとしても死ぬ。攻めも逃げも塞がれている中で、僕たちにできることは……なんだ?」
これまでの異界獣と同格であるのなら、上級冒険者が複数人揃って、且つ大規模な作戦を練ってようやく討伐できる相手である。アレウスたちにはまず勝ち目がない上に、討伐という選択肢はない。
そして、逃走という選択肢は潰されている。
ならば、あとになにが残っているというのだろうか。




