博識
保存食はまだ使わなくても良さそうだが、持ち込む形となった飲み水は雑菌の繁殖が進みそうだったため使わざるを得なくなった。
「きゃっ!」
珍しくクラリエが女性らしい高めの声を上げて、自らが水を投入した鍋から猫のように跳ねながら下がる。
「どうかした、」
最後まで言い切ることなく、アレウスは鍋の中を覗いて冷や汗を掻く。
目玉が水面に浮いている。こんな猟奇的な瞬間を目撃すれば誰だって驚いてしまう。現にクラリエは驚き、アレウスも発声を忘れた。
「水を糧にして作り上げた目玉ですね。さほど気にするほどのものでもありません。こちらを観察できるほど高度な魔力が込められている様子もありませんから、驚かせるために誰かしらが変容させたのでしょう」
そう言ってエウカリスは目玉を素手で取り出し、そして潰す。『魔眼収集家』が仕掛けたトラップのようにもアレウスは思ったのだが、三人の身に特になにも起きてはいないので、ただの杞憂であったようだ。
「目玉が浮いた水を煮込むの?」
「目玉のように固まっていた物です。気にしないで下さい。本来はただの水なのですから」
どこまでも冷静なエウカリスにクラリエはやや引きつつも残りの水を投入し、アレウスも自身の飲み水を鍋に加えた。
「まぁ、水を目玉のように変えるような魔法はエルフの間にも伝わってはいませんので、これはハゥフルの御業でしょう」
「ハゥフル? えーっと、えーっと……! そうそう、魚人だっけ?」
首を傾げつつも、クラリエが脳内にある知識の海からどうにかすくい上げる。
「人魚とも言いますが」
「魔物のマーマンとの違いは、獣人と同等ですか?」
アレウスの問いにエウカリスは肯く。
「魔物から亜人、獣人、魚人と派生していると考えてください。その中でも亜人は一番、魔物に近いので人種として数えないで下さい」
異界獣の興味本位でこねくり回されている亜人は別物らしい。
異界が存在しなければ獣人も魚人も、ひょっとするとクルタニカの祖先である鳥人すら生じることはなかったと考えると、人種の増加は異界獣によって行われたことになってしまう。人種が増えたことで争いも増えたが、人種の発展性も広がった。かといって、異界獣に感謝することは筋違いとなる。
「しかし、ハゥフルの御業が何故、クラリェット様の水袋の中に? お知り合いにハゥフルが?」
「うーん、心当たりがない」
「……カプリース・カプリッチオ。あの時、水の全てを掌握していたのはあの男しかいない」
「あー……でも、ハゥフルみたいな雰囲気はどこにもなかったけどなぁ」
「では、その男の本体は別のところにあるのでしょうね」
エウカリスはそう断言する。
「ハゥフルは水属性の魔法全てを行使するとまで言われていますが、代償として行動範囲が海や湖と限られています。それでも尚、外を出歩くとなればそれは本体ではなく、本体のように精巧に作られた偽者です」
「エルフが森から出るために適応訓練が必要なのと同じ感じ?」
「彼らの場合は、海岸や湖の近くでしか生きられません。水棲生物と同様です。体が濡れていないと雑菌により体が蝕まれるのです。ただ、水棲生物よりもまだ陸地に適応できていますので、週に一度か二度の半日かけての水浴びで済むと聞いています」
やはり、エルフという人種であるからこそなのか、エウカリスは博識である。思わずアレウスも彼女の解説が気になり、調理の手を止めていた。
「私たちは確かにヒューマンに対し、強い偏見を抱いています。場合によっては獣人、その他の人種すらも強く見下すよう、教えられ、育てられます。ですが、同時にその人種についての知識も頭に入るのです」
アレウスの視線に気付いたらしく、エウカリスは自身の知識の源について語る。
「けれど、エウカリスさんのように全てのエルフが偏見を乗り越えられない」
「それは全てのヒューマンがアレウスのように偏見で物事を見ないように生きられないのと同義です。私が特別というわけではありませんが、私は『灰銀』という偏見の立場に置かれたがゆえに偏屈になりました。それが、逆に役立っているのやも知れませんが」
様々に思うところがありつつも、アレウスは調理を手伝い、野菜の煮込みスープに異界産の小麦で作られたパンを添えて、夕食とした。エウカリスの言うように、調理自体は単純なのだが、そのどれもに味気無さが出てしまう。外の世界の食料とは育ったとしても味わい深いものにはならない。
「僕が異界で過ごしていた時には、あんまり味について気にしたことなんてなかったのにな」
昨日と同じようにアレウスは外で就寝という形となり、独り言を零す。
「クラリェット様はもうお眠りになりましたよ」
「昨日もそうですけど、なんで報告に来るんですか?」
「いえ、私は亜人の襲撃に備えているだけで、どちらかと言えば、あなたが夜遅くになっても眠っていないのが問題なのでは?」
「僕は基本、戦わなきゃならない場所では熟睡しません」
「いわゆる寝ていないことの自慢ですか? ヒューマンは非常に意味のない部分を自慢げに誇らしく語ります。だから、あの男に気を許すことはできなかったわけですが」
「隠剣なんていう技を持っていながら、女を侍らすことにしか思考が向いていないからですか?」
「アレウスは随分と女性を侍らす男を嫌っているようですね」
何故だろうか。そう口にしたときのエウカリスは、さながら『核心を突いたに違いない』という、強い自信に満ちた表情を浮かべていた。
「昔は、お金で買われる子供や女性を見ましたし、奴隷商人という存在だって知る機会がありました」
「なのに、あなたは女性と会話するとき、とても楽しそうではありませんか。この私にすら、嬉しそうな顔を見せます。クラリェット様には冗談だって言ってみせているようですね」
夕食のとき、会話が続かなければ気まずいと思ったが、そこはクラリエの話に乗ってしまえばどうにかなった。苦労はしたが、その時間が楽しくなかったと言えば嘘になる。
「女性と話すのが楽しいんじゃなくて、人と話すのが楽しいんです。僕やアベリアは人間不信ですし、神官嫌いですし、疑心暗鬼に囚われている偏屈なヒューマンです。でも、やっぱり話すのは嫌いじゃない。話すことは楽しい。僕が知らないことを相手が知っていたり、相手が知らないことを僕が知っていて、その情報を交換しあいます。けれど、そのただの情報共有の中には幾つもの、本来であれば不必要な言葉のやり取りがあり、どういうわけか僕たちは必要な情報を話しさえしてくれれば、不必要な言葉のやり取りの方が楽しいとすら思えてしまう。エウカリスさんも、そうじゃないんですか?」
「私が?」
「『灰銀』と罵られ、肩身の狭い思いをしたあなたは、誰よりも、対等に話をしてくれる人を求めていた。それがクラリエさんだったんじゃ?」
「……面白いことを仰られますね」
「面白いことですか?」
「ええ、非常に面白いですよ。そのように物事を考えるヒューマンの浅ましさが見えて」
貶すわりに、口元には柔らかさが見える。
「森では『灰銀』であることを隠していました。正直なところ、ハイエルフにはバレるのではと怯えていました。クラリェット様の侍女になると決まった際にも、私の人生はその瞬間に終わるのだろうと思ったほどです。ですが…………どれほどの歳月を過ごしたかはもうおぼろげなのですが……いえ、感傷に浸っているときほど、無駄なこともありません」
「省みることは悪いことじゃないと思いますよ?」
「……私が省みたところで、未来に繋がるわけではありませんから」
いよいよアレウスはエウカリスに問わなければならないらしい。クラリエが眠っているのなら、彼女も真実を語ってくれるだろう。
「その首の傷痕は、致命傷としか思えません」
指摘されたエウカリスは首元を手で隠す。
「僕は異界でしか、全容を知ることはできないのですが、同時に異界だからこそ分かることもあります。エウカリスさんは、もう死んでいますよね?」




