無欲が魅力とは限らない
「非常に複雑な気分です」
ベースに着いて、まず最初にエウカリスはそのような溜め息混じりの言葉を吐いた。
彼女の先導により、ベースへは想像以上に速く到着することができた。この異界のベースはアレウスがよく知っているリオンの異界にあったベースよりも清潔で、尚且つ建築物や物が雑然とは並べられていない。規則正しく、住み心地のよい環境が整えられている。亜人の進行を妨げるためか、ベースと外の境界線となっているのは一般的な生物であれば飛び越えられない壁となっている。それでも何体かの亜人は侵入してくるだろうが、それは複数人で叩くのだろう。
「なにか不満なの?」
「クラリェット様には不満しかありませんが、よりにもよって下賤な輩に私の名前が似ているという部分が複雑なんですよ」
「そんな文句は名付け親に言ってもらいたいところです」
「私が言いたいのは、あなたの名前がヒューマンでありながらエルフの名付け方に近しいのではということです」
「アレウス君はエルフ寄りってこと?」
「だとしても、ヒューマンである以上は名前負けするだけでしょう。それに、アレウリスという言葉には一切の意味合いが込められてはおりません。私たちエルフは、自身の名前になにかしらの意味が込められているとクラリェット様も教わったでしょう?」
「結局、その肝心な意味については教えてはもえなかったけど」
「それは私も同じですが……エルフが綴った語感の良さを、あなたの親は子に名付けたのやも知れませんね……それが私の名前に似通っているというのが複雑なのですが」
アレウリスとエウカリス。確かに語感が似ている。母音で始まり、『リス』で終わること、そして五文字であることも似ている。もしかすると、アレウスが嫌う『アリス』という愛称をすぐに思い付いたのは、その似通った部分からの推理だったのではないだろうか。となれば、エウカリスの愛称もすぐに検討が付く。だからと言って、それをアレウスが口にすれば、矢が飛んで来そうなので控える。
「その仮説だと、エルフ以外の人種の命名には意味がないと言っているように聞こえるんですが?」
確かに意味を持たせず、語感の良さで名付けることもあるだろうが、名前に意味を含ませることはエルフだけが思い付いた特権ではない。どの人種であっても思い付くことだ。花のように育って欲しいと願えば花の名前を付けることだってある。
「エルフはあまりにも自分たちのやっていることが特別性を持っていて、ついでに正しいと信じて疑わない節がありますね」
「大地を蹂躙したヒューマンがエルフに説教を? クラリェット様もそうですが、私も容姿に比べてあなたよりも長く生きています。もっと敬いの気持ちを抱いて下さい」
「年を取ると突然、敬愛しろだの敬慕しろだのうるさくなりますが、ヒューマンで言うところの五十代や六十代ぐらいの相手だと思って接しろってことでしょうか?」
なにを隠すこともない挑発であり、エウカリスはそれに容易く乗って来る。アレウスに向き直り、腰元に手をやって、そこにある短剣を今にも引き抜きそうだった。
「少しばかり指導が必要なようですね。やはり、ヒューマンは下賤な者であり野蛮人なようです。エルフを怒らせるとどうなるか、教えてさしあげましょう」
「事実を言われてカチンと来るなんて、年を重ねた割には思考は幼稚なんですね」
「どっちも言い過ぎだけど、アレウス君は特に酷い」
横で聞いていたクラリエに窘められる。
「普段はもっと紳士的なのに、なんでエウカリスにはそういう態度なの?」
「強いて言うなら、僕よりも長い間、異界で生活している割に健康そうだからでしょうか」
クラリエがダークエルフになった日、エウカリスが裏切った日。その単位は、十数年、或いは何十年前だろうとアレウスは考えている。その時にエウカリスが異界に堕ちたというのなら、生きることに絶望し、死に掛け、心が壊れて行くことを感じながら混濁して行く意識の中で、朦朧と日々を過ごすものだ。なのに、彼女にはその傾向がまるで見られない。エルフだからなのかは分からないが瑞々しい肌、痩せ細っていない健康そうな肉体、疲労や衰えを感じさせない運動能力。アベリアを最低とするなら、彼女はあまりにも異界において生活に困窮しているように見えない。
異界に当たりハズレがあるなどとは思いたくない。異界に堕ちれば全てハズレである。しかし、アレウスが生活していた異界とはあまりにも掛け離れた環境を恨めしく思っている。
これはいわゆる同族嫌悪だ。異界で過ごした日々が現在のアレウスのアイデンティティを形成する大きな要因になっている。そこに唯一、触れられるのはアベリアと、二人を助けてくれた冒険者だけのはずだ。しかし、エウカリスは容易にそこに触れることができる。彼女がアレウスの過去を知れば、共感と同情を抱くだろう。それがただただ嫌なのだ。
共感も同情も、憐憫ですら必要ない。必要なのは力と知識と強い意志だ。振り払い、捨てたはずの感情が再び自分の体を包み込むのではないかと不安になる。
「この下賤な輩が普段、紳士的というクラリェット様の言葉にも疑問を抱かずにはいられません」
「ホントだって。信じてくれたって良いでしょ、それぐらい」
「……お分かりだと思いますが、異界に堕ちた身としてはありとあらゆることを疑わずにはいられなくなります。誘惑、甘言、篭絡。ありとあらゆることがここではまかり通るのです。清廉なように見えて、生きる上では地獄なのが異界です。特にエルフの女性は年齢問わず、容姿だけで下賤な者どもが寄って来ます。私もどれほど苦しみ、どれほど、この手で……」
見たこと、知ったこと、そして身を守るためにしたこと。どれもこれもを思い出すように吐き捨て、エウカリスは拳を握り、筋肉が強く硬直するほどに力を込めている。
「エルフの女性に限った話じゃないはずです。異界では、無力な者ほど道具扱いされる。戦う術を知らなければあらゆる人種の女性だけに留まらず、少年少女も餌食になる」
アレウスの異界では労働力こそが全てだった。鉱夫としての仕事を辛うじて務めることができたからこそ命を繋いだ。その仕事に身を置くことができなかったなら、アベリアのような乞食であっただろうし、場合によっては奴隷や男娼にまで身をやつしていたに違いない。それ以外に少年少女を物として扱う術がないからだ。命の巡りから外れているのだから、子供への感情が欠落する。戦う力がなければ、育ったところで子供たちもまた異界からは出られないのだから。
「私がどれほどの地獄にいたのか、さながら知ったように言うのですね」
「それはアレウス君が、」
「あなただけが地獄を見て、生きているとは思わないで下さい。僕もまた、それを改めて自覚しました」
自分自身は特別ではない。特別な力を持っているわけではない。特別な使命を得ているわけでもない。
ただアレウスの身に残っているのは、男に託された『異界を壊す』という言葉だけである。しかし、たったそれだけでここまで生き抜いて来られたのだから今後もそれを目標に掲げれば、少なくとも死ぬことはないのではと、妙な心持ちでもある。
「……あなたは初めて会った相手に過小か、或いは過大な評価のどちらか――大きなブレ幅を持った評価のされ方を今までして来たのではありませんか?」
深奥にある不快感、そして不思議だと思い続けていた部分にエウカリスが触れて来る。
冒険者になるためのテストの時、アレウスは知識と力で示さなければ同じくテストを受けていた者たちに信用すらされなかった。だが、ルーファスやクルタニカからはアレウスの完全な所感となってしまうが、期待をされているように感じている。
「結構……ありますけど」
一方では認められず、一方では認められる。何故そのように大きくブレるのか。その答えが分かるのなら、多少の恥は飲み込むことを決める。
「あなたはあまりにも欲が無い。物欲、性欲、食欲、その他諸々のあらゆる欲が薄いのです。生存への意志ばかりが先を行って、欲望が常に沈んでいる」
「それのなにが悪いんですか?」
欲望に振り回されるのは間違っている。だから、あらゆることに抑制をして来た。悩みの種になりつつある性欲についても、発散はすれど上手く抑え込んでいる。むしろそれらを抑制できなければ、ただの獣と変わりない。
「あなたは死にそうな者を助けた時、あらゆる手段を用いてその命を救おうとするのでしょう。生存への執着心がそうさせているはずです。が、助けた相手があまりにも生存に対して欲が薄かったら、どう思いますか?」
「こっちが必死になっているのに、どうしてもっと生きようとしてくれないのかと思います」
「あなたはまさに、そんな感じです。生きることに必死な割に、それ以外が薄弱であるが故に、魅力を感じません」
「欲があるから物を奪う。欲があるから喰らう。それは乱暴者であり、獣ではありませんか?」
「では、欲がない者の言うことに従えますか? 欲があればあるほど、その者の欲を求めて者は集まるのです。人を殺す決意をしていないボスが、人を殺せと命じて子分がそれに従いますか? 物を盗めと命じるボスが、物欲が皆無であるとお思いですか? 者を束ねる者は、それ相応に欲望を抱かなければなりません。清廉潔白、聖職者、人畜無害な者であることは素晴らしい。だとしても、指示を出せる立場の者が、そうであってはなりません。もしもそんな者を目指している、そんな者を目標としているのであれば私は薄ら笑いを浮かべるしかできません」
「無欲は悪逆非道よりも下だとでも?」
「いいえ、それは極論でしかありません。それに、悪逆非道な者にほど下っ端となるような者が付いて回ることだってあるのです。むしろ無欲な者ほど孤高ですし、孤独でしょう。私のあなたへの評価が初見においてあまりにも低いのは、欲の薄さから。無欲な者に対して、期待を抱く者は少ない」
「なら逆に、評価が高いのは、なんでですか?」
なにも言い返せず、訊ねることしかできていない。生きたいという気持ちと目標以外のあらゆる我欲を抑えて来ていたアレウスにとっては、どれもこれもが刺さるせいだ。
「私は、エルフ以外の人種の言うことは見たことしか信じないと決めています。見て、生き様を知り、そこで評価が覆る。それとは別に、顔を見ただけで分かる部類の者がいます。あなたはそういった部類の者が『面白い』と思うのでしょう。この『面白い』とは侮蔑の意味ではなく、与えて来る課題を着実にこなすことのできる強い意志を表現しています。なので、強者ほどあなたへの期待は大きくなる。そしてあなたは不思議なことに、その期待を越える働きや成果を今まで死ぬ気で果たしてしまっている。だから評価が失墜しない。これは生存への欲、目標達成への欲が大きく作用しているのでしょう」
エウカリスはいつの間にか手を腰に掛けていた短剣から離していた。
「人であり、また人ではないのが亜人です。つまり、人種を殺すことと感覚がさほど変わることはありません。殺すことも、欲が織り成す感情です。その欲すら持たないあなたが、亜人を殺せるのかどうか怪しいものです。魔物は殺せても亜人は殺せない。そんな冒険者を、ここで多く見てきました。そしてその冒険者の末路も……あとはもう、お分かりですね? 聖人君子が必ずしも正しいとは限りません。なにかをしろと言うのなら、なにかを果たしてもらわなければならない。それが対等というものでしょう?」
肯くしかない。
この場では、力を示すのが全てである。エウカリスは特にエルフ以外の人種は、実際にやって見せないと信じないと言っている。クラリエとは一時休戦を取った。だが、アレウスを彼女はクラリエと同じように特別視していない。
この異界で死にたくなければ、殺す欲を見せろ。そして信用させろ。
また歩き出したエウカリスの背中はそのようにアレウスに要求していた。




