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血筋ではない。自分自身で未来は切り拓けるものだ。
少なくとも、彼女は“その時”が来るまではそう信じて疑わなかった。
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クラリェット・ナーツェが産まれたのはエルフの森の奥深く。聖域、或いは神域と呼ばれるほどに、その森で暮らすエルフたちにとっては近寄り難く、そして何者も寄せ付けてはならない場所である。
そこに身を置くことを許されるのは、あらゆる生命、精霊、森の声を束ね、そしてエルフの魔力を強くその身に染み込ませた生粋のエルフ――ハイエルフと呼ばれる者たちだけだった。
そのような場所でクラリエを産んだのはこの世で最も偉大なハイエルフ。人界において『至高』に達した唯一無二の英雄。崇め奉られるほどに清廉で美しく、他に類を見ないほど高域の魔法を幾つも会得した者。その名はイプロシア・ナーツェ。この世に九十九のゲートを作り、百ヶ所目のゲートを作りに行くと宣言したのち、世界より姿を消した、黎明の英雄である。
この話をクラリエは乳母、及び侍女から物心の付いた頃に聞かされた。母がどれだけ偉大であるのか、そしてクラリエ自身もそんな偉大なる母の血族として産まれたのだから、その将来はエルフのみならず人種の垣根を越えて、歴史に名を刻むほどの叡智に満ち溢れた賢者になるに違いない、と。そう期待されており、クラリエもまた歴史に名を残すことの出来るような英雄になりたいと思っていた。
それは自身が掲げた夢であり、同時に周囲からの期待から逃れられなかったからこそ常々に胸の内に抱かなければならなかった責務でもある。
「クラリエ様、どちらへ向かわれるのですか?」
「森の中を駆け回りたいんだけど」
「では、御付きの者を手配します」
「一人で良いから」
「あなた様になにかあれば、私たちの首が飛びます。神域から外へ出るのであれば、一人にさせることは決して参りません」
産まれた頃から自由が無い。こうして神域から出たいと思わない年頃であったならば、これでも納得できていたし、自分には多くの自由が与えられているのだと信じてやまなかった。
しかし、クラリエのその考えは周囲より課せられた様々な義務を知って、簡単に覆された。どこに行くにも御付きを必要とし、神域の中で一人で歩いていても常に誰かに見張られている。
強い期待を向けられている。イプロシア・ナーツェが姿を消してから、御付きも見張りもより強固な物になった。それはクラリエが次なるイプロシア・ナーツェに、又は母を超える偉大なる英雄になることをハイエルフだけでなくエルフですら信じてやまなかったからだ。
クラリエからしてみれば、それらは大きな大きなお節介であると同時に、強い呪縛であった。母を愛している。尊敬もしている。いついかなる時も彼女を見れば、誰もが母の名前を口にし、その偉業を語る。それを誇らしくも思う。
確かにイプロシア・ナーツェは偉大なる大英雄なのだろう。エルフの誉れであるのだろう。しかし、しかしだ。『母』という面で見れば、クラリエにとってイプロシア・ナーツェは下の下である。
産まれてこの方、母が母らしく振る舞った姿など一度も見たことがない。記憶にあるのは母の代わりをしてくれた乳母や、身の回りの世話をしてくれた侍女ばかりである。
だからこそ、クラリエは自分自身の血筋が嫌いだ。もしも、ナーツェに連なる血統でさえなければ、母という存在をもっと実感することが出来ただろうし、なによりもその愛情を深く知ることだって出来ただろう。
どれだけ周囲から愛されようと、どれだけ周囲から敬愛されようと、母に愛されているのかが分からなければ、それら全ては無意味に等しい。そもそも、それらは本当に自身に向けられている物なのか、それとも自身の血統に向けられている物なのか。そう考えると、ナーツェの血統で無ければ今のように周囲は自分自身を愛してくれるかすら怪しい。逆に母の愛さえあれば、他にどんな情念も必要ないとすら思える。どのように虐げられようと、母にさえ愛されていればそれで構わないのだ。
だが、それらは全てまやかしである。夢と現の区別は付いている。現状を憂いたところで母はクラリエの前には帰って来ない。そのようなことに時間を潰すよりも、母の後ろを追い掛けることにはなるが、その道を目指すために日々鍛錬に臨んだ方がまだ堅実的である。
一人で森を駆け回ろうと考えるのも、技能の上達を目指しているからだ。常に御付きや監視役が付いて回る日々を過ごしていたので、感知の技能はおかげさまで叔父にお墨付きをもらうほどになったものの、気配消しについては未だ上手く出来ない。これさえ叔父のように上達し切ってしまえば、御付きや監視役の目を擦り抜けられる。クラリエほどの感知の技能を持っていなければの話ではあるが、希望として抱いていても損はない。
「ねぇ、叔父様? あたしはお母様を越えられるのかしら」
目には見えないが気配はする。クラリエの叔父は信じられないほどに気配を消すのが上手いが、最近ようやく感知出来るようになって来た。
「直系でない者の助言は控えろと言われている」
「あたしは乳母が話したお母様のように、魔法の流れを目で見ることも出来ないし、これと言って沢山の才能に溢れているわけじゃない……それでも、お母様を越えられる? 周りが期待しているような英雄になれると思う?」
「それは自身が考え、見つけ出す答えだ。外部からの言葉などを鵜呑みにしてはならない」
「魔法の叡智を学べているのは良いけれど……あたしは、叔父様のように気配を消して、みんなが知らないところでしている内緒の話を聞いて、クスクスと笑っていたいの」
「つまり、間諜や暗殺者になりたいと? そんなことを進言すれば、その身が朽ちるまで神域の外には出させてはもらえないだろうな」
「そんな危なっかしいことがしたいわけじゃないんだけどなぁ。あたしはもっと、誰にも見られていないところで静かに生きていたいのに」
「それはそれで寂しいと思うが?」
「叔父様はどうしてあたしの監視と、あたしに関わるあらゆる脅威の排除をする仕事を選んだの?」
「……選ぶ、ということは俺には与えられていなかった」
クラリエの叔父は感情を僅かに込めて、吐露する。
「イプロシア・ナーツェの直系ではないが、イプロシア・ナーツェを生み出した血は確かに俺の中に流れている。その点で、俺や末弟を重要視する意見もあったが……末弟が死んでな。血を絶えさせてはならないがために、生きる術や戦う術、そういった物を随分と教えてもらったが、お前という後継ぎが産まれた直後に俺の必要性は皆無になった。そうなると、上の連中が気にするのは俺がイプロシアを――姉を妬まないか。妬んだとして、殺害しないだろうか、或いはお前を手に掛けないだろうかと不安がった。だから俺は間諜と監視を使命とさせられた。勿論、俺が間諜と監視を務めるということは同時に、俺自身も監視されているのだが」
「あたしを守るために監視している叔父様があたしを殺そうとしても、叔父様を監視している人たちが叔父様を殺すってこと?」
「最初はその方式だったが、百年前……いや、もう少し前だったか? 途中で形式が変わった。魔法で俺の生き様に刻まれたんだ。クラリェット・ナーツェを殺害した場合、その魔法が発動して俺は死ぬ」
「……そんなの、まるで呪いじゃない」
「これは俺からの忠告だが、呪言や呪術といった類には決して近付くな。それらは回り回って、お前の体を蝕む。野蛮なエルフになりたくなければ尚のこと、その手の物には興味を示すな」
「野蛮なエルフって、ダークエルフのこと?」
「奴らは森の戒律を破った。その罰としてその体に呪いを浴びている。呪術、呪言はお手の物だが、同時に森の声も魔法の叡智の大半も損なった」
「知ってるよそれくらい。でも、大半はあたしたちと変わらないんでしょ?」
「そんなことは俺以外の前では決して口にするな。ハイエルフとエルフをダークエルフと同義とすれば、舌をねじ切られる」
「大丈夫よ。神域のみんなは、あたしを誰も裁けやしないんだから」
「その思い上がりは、俺の不安要素の一つだ」
叔父が明らかに頭を悩ませているような言い方をする。だが、クラリエは叔父が思っているほど傍若無人なわけではない。ただ言ってみただけだ。本気で戒律を破ろうなどとは考えていないし、神域の中でダークエルフの話題を出すつもりはない。ただ、もしもそのようなことをしたらどうなるのか。それを叔父に訊ねてみて、その反応で色々と察したかった。
クラリエが思っている以上に、ハイエルフとエルフはともかくとしてダークエルフとの溝は深いらしい。しかし、そもそも神域でダークエルフを見る機会は無い。だからと言って、その手の文献を調べようとしても書かれていることの大半は、彼らは悪逆非道であることや戒律を破った罰を受けたにも関わらず、それを受け入れようともせず森を奪い取ろうとする蛮族という扱いばかりだ。
この目で見たことしか信じたくはない。それは、外界から隔絶されていたからこそクラリエが抱くようになった信条である。この中で語られること全てが本当だと、真実であると言われ続けては来たが、実際に目で見たわけではない。聞き齧りの知識など、習得した技能にすら劣る。見て、学びたいのだ。見て、知りたいのだ。それこそが知的好奇心を刺激された先で得られる知識だと思うのだが、クラリエの進言はいつも却下される。こうして姿を消してはいるが、いつも傍で監視、又は見張りをしている叔父ですら首を縦には振ってくれない。
「こんなところにいらっしゃいましたか、クラリェット様」
侍女がクラリエを見つけ、駆け寄って来る。
「今日は弓術の訓練があります。魔法の勉強よりはずっとずっと簡単ですよ?」
「あたしはどっちも向いていないような気がするんだけどなぁ……」
「そんなことを言ってはなりません。あなた様はナーツェの血を引く者。素質はあるのです。あとはそれが花開くのを待つのみなのですから」
「……どうだか」
侍女は拗ねているような仕草を見せるクラリエに、柔らかな笑みを浮かべ手を引く。
「私もあなた様の将来が楽しみで仕方が無いのです」
そう言われてしまえばクラリエも溜め息をついて肯かざるを得ない。
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「入念に準備し、用意もした間諜だけに留まらず、未来ある冒険者も纏めて水で洗い流しやがって」
見張り台の上で、リスティの隣で前線を見ていたヘイロンが毒を吐く。
「防衛に強い冒険者とは言え、横暴にも程があるよ。さっさとこの水の魔法を止めな!」
煙管を口元から離し、カプリ―スへと鋭く向けながらヘイロンは続け様に言う。その態度に対し、カプリ―スはまるで自分がしたことではないかのような表情を向ける。
「そんな目の敵にしなくても良いだろうに。僕のアーティファクトは言うことを利かない。一度、解放したら気分を良くするまでは帰って来ないんだよ」
「それを知りながら、アーティファクトを用いた点について反論は無いのかい?」
「僕を責めている? どうして? 僕のアーティファクトのおかげで相当数の魔物は流され、獣人たちも溺れ死んだことだろう。王と姫を仕留め損ねてしまったのは、僕のミスじゃない。あの場に居たアレウリス・ノールード君が悪い」
「最前線で死を前に戦っていた中級冒険者に責任を押し付けないで下さい」
さすがの光景にシエラも苦言を呈する。
「おや、どうにも分が悪そうだ。では、僕はこのまま退散するとしよう。けれど、一つ二つは置き土産をしてあげよう。一応は僕もこの街を守る冒険者であるからね」
ほくそ笑みながらカプリ―スは続ける。
「『風巫女』のクルタニカ・カルメンが矢に貫かれて僕のアーティファクトが生み出した水流に呑まれて消えた。あと、『影踏』が『人狩り』と交戦し、その最中において『影宵』が乱入。『人狩り』がなにやら高揚し、その背後に出来た異界の“穴”に彼女を放り込んだ。そして、同じ丘陵で餌として活用していたアレウリス・ノールード君だけど、堕ちた『影宵』を追い掛けて彼もまた異界に堕ちた」
カプリ―スの体が水へと変化し始める。
「憤っている暇は無いんじゃないかな? 『異端審問会』はどうやら“穴”を引き寄せる――或いは生じさせる力を持っているらしい……と、これは以前から知られていることだったね。では、僕はまだ防衛戦に出なければならないから……ごきげんよう」
水と化して消えたカプリ―スの言葉を確かめるかのようにリスティが手元にある地図を眺める。
「……アレウスさんの居場所を捕捉出来ません」
「あの性悪男の言う通りだってのかい?」
「『影宵』のシオン――クラリェット・ナーツェを失うのは世界の損失よ」
二人はアレウスの居場所を認識することは出来ないのだが、自身が担当している冒険者の位置を把握するため、リスティが管轄している地図を眺める。
「ウチの若い連中は揃って水に呑まれちまっている。大半は生き延びてはいるが、数人は死んでしまっているよ」
「私の担当の冒険者もかなりの被害を受けています」
「だが、後方待機の連中は使えるね。ルーファスには悪いが、預かっている虎の子を出す。体調面に不安が残るから、リスティのところの僧侶のガキに面倒を見てもらわなきゃならない」
「クルタニカが動けていない以上、私から出せる冒険者は二人だけ。防衛戦に参加していないから本人の意思確認が必要よ」
「アベリアさん、ヴェインさん、ガラハさん……三名とも無事を確認。ガラハさんが水に呑まれていないのは運が良かったのか、それとも妖精が早々に危険を感知したからなのかは分かりませんが、アレウスさんの捜索に出すには問題無いでしょう」
「合わせて六人かい? 上級が一人だけってのは、随分と不安が残ってしまうけどねぇ」
自らを落ち着かせるためにヘイロンが煙草を吸い直し、煙を吐く。
「クラリェット・ナーツェを救うとは言え、その情報は可能な限り秘匿しなければならない」
「年月を重ねた冒険者ほど情報管理が甘くなるから、こういう時は新進気鋭の冒険者の方が秘匿率は高くなる」
「アベリアさんとヴェインさんは『異界渡り』を行っています。シエラ先輩が出す一人も、異界を経験している。防衛が落ち着くまでは、この六人を救援パーティとします」




