波濤
俗に言う『魔眼』だろうか。アレウスは自身の『蛇の目』とは異なる獣人の瞳の変化に推測を立てる。『異端審問会』の中でも危険視されている『魔眼収集家』と接触した。彼の者が持っていた『魔眼』への執着、なによりそれの使い方を間近で見た。どちらかと言えば、『魔眼収集家』が利用した、神官モドキの目玉こそが『魔眼』であったのだが、その効果は絶大としか言いようがない。耐性が無い者が、信仰心だけで神官モドキに従っていたわけではなく、他者を信用させるような強い魔力を帯びた眼球に魅せられて、従っていたのだ。
だが、獣人の瞳はどうだろうか。こうして鮮やかな茶色の虹彩が黒く染まる様を見届けても、アレウスの心はちっとも傾かない。瞳に魅せられている感覚が無い。そもそも、注意していて、魅了を防ぐことが出来るのかどうかも怪しいが、しかし未だにアレウスの闘志は獣人へとしっかりと燃え上がっている。
獣人が仕掛けて来ないため、アレウスが先手を取るべく駆け出す。その衝動は強く、止められない。その直線的な移動と、短絡的な思考から繰り出される剣の一撃を獣人が容易くかわし、お返しとばかりに振り抜かれた骨の短剣がアレウスの左手を裂いた。痛みが走り、同時に手から剣を落としてしまう。
だが、その痛みがアレウスに冷静さを取り戻させる。
「……今のは、その瞳がそうさせたのか?」
落とした剣を拾い上げ、自らの武器とした獣人の連続的な剣戟を左に右に避け、そして後退する。裂かれた傷はさほど酷くはないが、ウィルスの宿主としての役割をこの獣人も務めているのであれば、早急に手当てだけでなく『解毒』の魔法が必要となる。
「ワタシたち獣人は昂ぶりを喜びとする。それを見た大抵の人種もまた、奥底に眠る興奮を刺激される」
「御託を並べてくれてどうもありがとう」
獣人は思った以上に饒舌である。こちらが問い掛ければ、なにかしらの返事をする。対話を好んでいないフリをして、その実、楽しんでいる。楽しみながら、相手を傷付け、苦しみの顔と声を上げて行くところを見届け、殺したいという気持ちは瞳を見ずとも剣戟の中で伝わって来た。
ともかくも、獣人の目は『魔眼』ではないらしい。どの獣人にも等しく心の昂ぶりがあり、それが瞳を通じて現れる。その瞳を見ると、興奮に揺り動かされて冷静な判断力を損なう。
そこまで理解したところで、アレウスは意識的に視線を落とす。しかし、そうなると視覚で得られる情報は獣人の足運びだけである。ルーファスならばまだしも、アレウスには足運びだけで相手の意図を探れるだけの経験則は無い。
故に、これは明らかな悪手だった。対応できるはずの攻撃の全てで遅れを取り、反撃の糸口が掴めない。
根本的なところを見直さなければならない。
辛うじて獣人の剣戟を弾いたところでアレウスは不敵な笑みを零し、一旦、短剣を納める。それから引き裂かれ、血を流している左手を強く右手で絞め上げた。血が地面に流れ落ち、ズキズキとした痛みは鈍く、しかし確実に左手から全身へと渡って行く。
「頭でもおかしくなったか、強奪者?」
「忘れていたんだよ、痛みを」
血に濡れる左手で短剣を再び抜く。
「粘れば誰かが助けてくれるだろうとか、生き延びていればチャンスが訪れるだろうとか、僕もどこかで他力本願だったんだ。誰かに守られているという気持ちは同時に自分自身を堕落させていた。だから、思い出した」
痛みは過去より浅い。それでも、現在の堕落した自分自身を戒めるには十二分である。
「考えて考えて考えて、良策を練ろうと努力する。だけど、僕も一人の冒険者だ。強者を前にして、怯えている場合じゃない」
どんな時であれ、冒険者は立ち向かう。どれほどの脅威を前にしても、決して引き下がらない。
であれば、強者を前にして策を練るよりもまず最初に、感じなければならないことがある。
死ぬ気で戦える存在と出会えたことへの高揚感。昂ぶり、そして興奮。アレウスには根本的に、それが足りなかった。だが、自身がそんなものを大して必要と思っていなかったこともまた事実ではある。
とは言え、この場では興奮が逆手に取られる。それを制御するには、戦いを愉しまなければならない。なにも戦闘狂になるわけではない。この時だけ、獣人の高揚に乗るだけだ。
「いつだって、痛みが僕を前に進ませる」
無理に口角を吊り上げつつ、アレウスは命のやり取りへと身を投じさせる。御託について皮肉ったためか獣人はもはや、言葉を発しはしなかった。瞳を睨み、全身を巡る熱い血の流れを感じながらも先ほどの無謀過ぎる突撃よりはよっぽどマシな足運びでもって獣人に接近し、短剣を振るう。獣人はアレウスから奪い取った剣を主体に戦闘を組み上げていたが、途中で慣れていない得物特有の扱い辛さに嫌気が差したらしく、アレウス目掛けて投げ付けてからは従来の二本の骨の短剣を用いた戦い方へと戻った。
速度と速度。『影踏』に比べればアレウスも、それどころか獣人ですらも拙さの極みにあるような剣戟の応酬ではあるのだが、少なくとも二人の間にはそのような熟達した者の茶々が入らない。たった一本で、それも左手を負傷した状態でありながらアレウスは獣人の左右から来る剣戟を出来得る限り捌き、避け、時に強めに地面を蹴ることで加速しつつ距離を離す。獣人もしなやかに体を揺らし、跳躍、軸をブレさせながら確実な一撃をお見舞いしようと試行錯誤して来る。それを凌いだ先でアレウスは強く反撃に出るが、素早く獣人は守りを固める。アレウスが攻めれば獣人は守りに徹し、獣人が攻めに転じればアレウスがそれを捌くことに集中する。攻守を何度も逆転させ、膠着状態が続き、そして一向に崩れない。
「最初に当たるヒューマンはどいつもこいつも覚悟も出来ていない腑抜けた輩ばかりだと父上は仰っていたが、ワタシはとても運が良いようだ」
すっかり黒く染まり切った瞳をギラリと輝かせる。
「よもや初戦で、貴様のような強奪者と戦えるとは夢にも思わなかった」
「それは褒めているのか?」
「そう聞こえるのならば、自惚れが過ぎる」
強く互いの短剣を弾いたところで獣人が飛び退いて、右手の爪で地面を削る。
「“芥の骨より出でよ”!」
手にした土を唾で濡らし、骨の短剣に塗り付け、直下に突き刺す。
「呪言か!?」
魔法よりも、シオンが用いる呪言に近い。しかし、分かっていても対処は出来ない。
「“地を奔れ、蛇骨”」
地面を喰い破るようにして骨の大蛇が現れ、獣人に命じられた通りにアレウスの元へと奔走する。短剣で払い飛ばせる大きさならば脅威ですらないのだが、大蛇は大蛇でも、アレウス程度のヒューマンであればその体の半分ぐらいは軽く噛み千切れてしまうのではと思えてしまうほどの大蛇である。こんな大蛇は骨でなくとも相手にしたくはない。
「ここで使いたくはなかったが、貴様を喰い破るにはどうやら使わなければならないらしい」
使いたくないのなら最後まで使わないでもらいたい。そんな気持ちを口にする暇など与えられず、骨の大蛇に追い掛けられながら、アレウスは打開策を探す。骨なのだから、砕いてしまえば動きは止まるに違いない。しかし、大蛇は土を糧にして呼び起こされたためか、徐々に土を肉の代わりとして纏い始めている。骨の大蛇が土の大蛇に化けるのも時間の問題である。だからと言って、強く攻勢に出たところでこの大蛇を押し退けられるとは思えない。そして押し退けたところで、獣人からの急襲を受けないとも限らない。
「手詰まり感は否めないが」
後退はしても、撤退はしない。そして決して逃げるという選択は取らない。
「核は骨の短剣だ。それを貫けるか否かってところと、あとはどれだけあの獣人が大蛇と戯れている僕を眺めていてくれるかどうか」
呼吸を整えながら、大蛇の牙を避けつつ、狙うべき箇所を絞り込む。
《命のやり取りを愉しむとは、思考は獣人と同等のケダモノか》
突如、耳に聞こえた声にアレウスが動きを止める。獣人が大蛇を下がらせたところを見ると、この声はアレウスだけに聞こえたわけではないらしい。
《しかし、姫をそこで足止めしてくれたことには感謝しよう。あとは君がその獣人を逃がさず捕まえ、諸共に溺れて死んでくれると信じよう》
「ワタシが溺れて死ぬだと? なにを下らない世迷い言を!」
そう発した獣人の眼前で中空に水の粒が生じる。危険を感じたのか、獣人は大きく距離を取った。水滴のような小さな水の粒はそこから空気中の水分という水分と取り込んで行き、やがて人のような、或いは人ではないような異形の姿を作り出す。
《紹介しよう! 僕の魔力を喰って生きるアーティファクト! 『海より出でる悪魔』だ!》
「リコリス?」
《アレウリス君はどんな世界で死んだのか、憶えているかい? 僕はハッキリと憶えている。腐った海に、壊れた世界。そして壊れた者たち! そう、あの時に見た女は間違い無く、『海魔』よりも『海魔』だった! リコリスという名は、そんな壊れた女の通称から貰った》
リコリスと呼ばれた水の異形はどんどんと膨れ上がって行く。
《けれど、このリコリスは僕が記憶している女以上に、悪魔なんだよ!! さぁ、獣人の姫君を捕らえろ、アレウリス・ノールード! そして諸共に溺死しろ! 君の命一つで情勢が変わる! なぁに、気付けば甦るような安い命じゃないか!》
水の異形が破裂し、貯め込んだ水が波濤となってアレウスたちに押し寄せる。




