閑話休題
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「あっちぃ~」
街の井戸から汲んで来た水を頭から被り、アレウスは朝から強く照り続けている太陽を憎らしく一瞥した。季節は暖かみのある時期から言葉にしたくなるほどの「暑い」時期へと移った。地方によっては雨季ともなるこの季節は、水分補給だけでなく、倒れないように上がり過ぎた体温を下げなければならない。
「夜ぐらいは涼しくなってくれたって良いだろ」
ボヤきつつ、あまり眠れなかったためにややボーッとした頭に再び水を被らせ、今日一日の始まりに対しての意気込みとして「よし!」と言葉に力を込める。
「アレウス? 今日はクルタニカと出掛ける用事があるから」
「魔法の稽古か?」
「ううん、買い物」
「買い物? なにか買わなきゃならない物ってあったか?」
「ある」
「なんだ?」
「ブラ」
「…………いや、恥ずかしがらずになに言って、」
「駄目?」
「駄目じゃないけども! むしろ買って来て下さいなんだけども!」
「良かった」
アベリアは玄関先から顔を家の中へと引っ込めた。
「胸当ては着けていたけど、ブラはそういや今まで見たことがなかったな」
幅が広く、厚めの生地で出来た布で胸を覆っているところを見たことはあったが、そのような誰に見せるでもないのに肌着――この場合は下着であるが、それに拘りを持ったのは大きな変化である。
「と言うか、この世界にもあるんだな……ブラ」
女性が着けているところなど勿論だが見ていないので、その存在をアベリアが口にすることで認識したくらいである。逆にアレウスの場合はその先を見てしまっているのが問題だ。クルタニカの一件は、自身に煩悩を植え付けた。それは時折、淫靡な夢となって出て来るのだから、忘れようにも忘れられない。
「待てよ? 誰に見せるでもないのに、なんでブラを買うんだ?」
暑さがそうさせているのか、それとも男としての本能がその二文字の言葉にくすぐられ、思考が引っ張られているのか。どちらにせよ、傍から聞けば変質者のようなことを疑問として口にしていることにも気付かずに、アレウスは顎に手を当て、首を横に少し捻る。
まさか、見せるような相手が現れたのか?
それ以外にあり得ない、と。アレウスの思考は多くの仮説も仮定も無視し、早くも結論を出す。ムカムカとした感情が湧き上がる。自分すら見たことのないブラを見せる相手がこの世界にたった一人、存在しているのではという可能性がとてつもなく腹立たしく、今にも怒りへと昇華されてしまいそうだった。
「絶対に確かめなければならない」
アベリアのブラを、ではなくアベリアが誰と仲良くなっているのかを。
そうと決まればアレウスは支度を早々に済ませ、家に鍵を掛けてから街へと駆け出した。
「やぁ、アレウス。良い休暇だったよ。故郷に帰って、久方振りに羽を伸ばせた」
今朝の街着きの馬車で故郷から帰って来たのだろうヴェインと偶然にも出会う。
「どうしたんだい? なにやら不穏な気配を感じざるを得ないよ」
「共犯者になれ」
「え、いや……遂に、なにかやらかしたのかい?」
「遂にってなんだ?」
「冗談だとしても本気でやりそうなのが君の危ういところだろ」
どうやら言い回しがヴェインを身構えさせるものだったらしい。アレウスは喉の調子を整えて、言葉を選び直す。
「アベリアを尾行するのを手伝って欲しい」
「手伝えない」
言葉を選び直したのにも関わらず、ヴェインに強く拒まれた。
「仲間だろ?」
「仲間でもそれは手伝えない。親しき中にも礼儀ありだよ。アベリアさんは君にプライベートを出し尽くしていると思うけど……勿論、それは君もなんだろうけど……なのに、君はそれで満足が出来ないと? 一人、出掛けるその羽を伸ばす時間すら、与えたくはないと?」
「そうは言っていない」
「束縛し過ぎると愛想を尽かされるよ。やめた方が良い」
「だからそういうわけじゃない」
「じゃぁ、どういうわけなんだい?」
「アベリアに悪い虫が付いている可能性がある」
「話が変わった。続けて?」
アレウスは自分自身で勝手に妄想して出した結論を述べただけなのだが、言葉の妙とはまさにこのことだ。言い方を変えるだけでヴェインは拒否の姿勢から協力的な姿勢へと早変わりを果たした。
「朝からアベリアの様子がおかしい。あれは絶対に、異性に少し変わった自分をアピールしたいという気持ちの表れだった」
「女性は些細なことにも手を掛けるからね。髪を少し切っただけでもその変化に気付かなかったらその日は一日中、機嫌が悪くなるくらいだ」
「そういうものか?」
「そういうものさ。だからアレウス以外に些細な変化を見せたい異性が居るのなら、それはかなり問題だ」
「問題か……」
おおよそ自分自身が考えていたことの数倍ぐらいに物事が膨らんでいるような気はしているのだが、アベリアがアレウス以上に仲良くする異性など“まだ”居てはならない。“まだ”早い。アレウスには“まだ”心の準備が出来ていないのだ。その点で考えるなら、ヴェインの言うように問題だ。
「どうすれば良い?」
「そうだな。まず相手を特定しないと……その相手には場合によっては十個ぐらいの試練を与えないと」
「十個じゃ物足りない。百個だな」
「俺も言ってみたものの、少ないなと思っていたところだよ」
アレウスはまだ肝心要の部分を話してはいないのだが、ヴェインの様子を見るにそれをわざわざ伝える必要は無いと判断する。
「それにしても、アレウスになにも言わずに他の異性と仲良くするかな?」
「家族には秘密にしたいことだってあるものだろ?」
「君とアベリアさんは一緒に暮らしてはいるし、家族同然なのも分かるけど血が繋がっているわけではないけどね」
アレウスはまざまざと現実を叩き付けられたような気になってしまう。一緒に暮らしている、家族同然ではあるが血は繋がっていない。それはもう、俗に言うところの「付き合っている」ようなものなのではないだろうか。
妄想が駆ける。信じられないほどに今のアレウスは欲望に忠実になってしまっていた。
「アベリアってやっぱりモテるのか?」
「今まで何度となく羨望の視線を浴びて来ているはずだよ。俺はともかく、特に君なんか羨ましいを通り越して恨まれているんじゃないかな。そこのところは自覚していて、守るために気に掛けているんじゃなかったのかい?」
「自分のやっていることに正当性があるのかどうかの再確認がしたかったんだ」
そして、正当性はあるとアレウスは確信する。使命感にも近いなにかを抱きながら、アレウスはヴェインを連れて街を回る。とは言いつつも、彼女の行きそうなところをアレウスが把握しているわけもなく、取り敢えずギルドに入る。クルタニカと一緒に買い物をするのならば、ひょっとしたらギルドを集会所のように利用しているのではと思ったことと、ここでならアベリアの足取りを確実に掴むことが出来るためだ。
「まだ前回の審問の結果については協議中です。その間に来られても、依頼を受けることは出来ませんよ?」
目ざとくリスティがアレウスたちを見つけ、声を掛けて来た。
「リスティさん、事態は急を要するので今すぐアベリアの居場所を教えて下さい」
「アベリアさんがピンチな時にアレウスさんはもっと鬼気迫っていると思いますので、嘘はやめて下さい。教えません」
「いやいや、こう見えて結構急いでいます」
「急いでいるのは分かりますけど、緊急事態という気配はまるでありませんから教えません」
「仲間の場所を教えてくれないんですか?」
「事態が急を要するのであれば教えるのは担当者として当たり前ですが、プライベートやプライバシーを守る観点から見てもアベリアさんの足跡については守秘させてもらいます」
言葉の入りが悪かったのか、それとも表情がもっと切羽詰まっていなければ駄目だったのか。どちらにせよ、最初に声を掛けられた時点でリスティに推し測られてしまった。もう嘘で丸め込めそうにはない。
だからといって、事実をそのまま伝えた場合、アベリアと同性のリスティが協力してくれるかどうかは未知である。
「ここ最近、アベリアと仲良くしている男は居ませんでしたか?」
「それは仲間であっても、先ほども言った通りプライベートやプライバシーに関わるのでお教えすることは出来ません。それに、アベリアさんは大体のことはアレウスさんに伝えているものじゃないんですか?」
「リスティさん? アレウスとアベリアさんは二人で一人なんですよ? この二人の関係に亀裂が入れば、俺たちのパーティは内側から瓦解してしまいます。となれば、アベリアさんにとって秘密であってもアレウスは知っておくべき事柄かも知れません。アレウスは口が堅いので、アベリアさんの秘密を知ったところで決して本人を前にして口を滑らすこともないでしょう」
普段から冷静なヴェインが説得に入って来たためか、リスティは思わず面を喰らったような表情をする。
「ですが、あなたの言い方はどこか私情が垣間見えます。故郷で許嫁となにかあったんですか? 喧嘩でもしましたか?」
「俺のことはどうだって良いんですよ」
どうだって良くはないのだが、ヴェインは「訊かないでくれ」という雰囲気を発していたのでアレウスもリスティも追及を避ける。
「……まぁ、アレウスさんがアベリアさんの元に私の情報で辿り着いたとしても、彼女の場合は『気にしてくれた』と喜びそうではありますけど」
深い溜め息をリスティはつく。
「あんまりどうでも良いことでギルドを、そして担当者を利用しないで下さいよ? 私も労働者ですから、遊びで仕事をしているわけじゃないんですから」




