プロローグ
――死は平等に訪れるが、その時期は不平等である。ならば、真の平等は誰も知ることの出来ない、死の先の『輪廻転生』に有るのかも知れない。
誰にだって終わりがある。誰にだって死は訪れる。平等か不平等かの違いはあれど、それは確実に待っている終わりである。
早いか遅いかの違いであり、そこに含まれるのは環境、産まれ持った体質、そして運。
特にこの運――ツキがあるかないかは死の瞬間に顕著に現れる。家を出た時間、バスに乗った時間、或いは道路を歩いている時の歩幅、そして“そこ”をいつ、どのくらいの秒数で通り抜けることになるか。
そればかりは誰にも分からない。こればかりは誰にだって、起こり得ることであり、しかし誰だって予想することの出来ないことである。
運命と呼ぶには残酷で、間が悪かったと言い切れるほどに、少年に非があったわけでもない。
だが、少年は死んだ。望まずして死んだ。誰に言われるでもなく、危険な行動を取っていたわけでもなく、ただ平凡に、いつもと変わらず歩いていただけなのだ。
それでも死が取り消されるわけではない。キャンセルされるわけでもない。命とは尊い物だが、同時に容易く消え去るほどに儚い代物でもある。
死んだ少年を前にすれば誰でも死に震え上がり、しかし生きていることに安堵する。そこでようやく人は生死を実感するのかも知れない。
だが、死んだ少年にそれを感じる余地は無い。何故ならば、生きていないのだから。死んでいるのだから。
では、意識はどこに飛ぶのだろうか。輪廻転生がこの世にあるのであれば、少なくとも再び命の巡りはやって来るのだろう。
ただし、“同一の世界”とは限らない。“異なる世界”であるかも知れない。
こればかりは、誰にも分からない。運命でもなんでもない。世界の輪廻に混ざれるか、それとも外れるかの違いでしかない。
そこに少年の意思は介在しない。
だからこそ、時折、起こるのだ。
前世の記憶を持ったままに産まれ落ちる、新たな命というものが。