§1 イマ(002)
◇◇◇
深夜から早朝へ空気が変わる頃、この街の灯はやっと消える。
「お疲れ様でーす」
「後はよろしくね、ホールくん」
「お先に失礼しまーす」
仕事を終えた女の子たちを最敬礼で送り出すと、店内は俄かに静かになった。
無人となったロッカールームの床を軽く掃くと、使用済みのコットンや綿棒が転がり出て来た。
ゴミくらい、ちゃんと捨てなよね。まったく。
塵取りで集め、ゴミ箱のゴミとひとまとめにする。
帰り際に、集積場へ持っていけばいい。
「テンちゃん、アンタも後お皿だけ洗ってくれたら、もういいわよ」
ホールへ戻ると、ボックステーブルで伝票の確認をしているママが、酒焼けた声で言った。
ボクは笑顔で頷いた。
しかしまあ、お皿だけとはいっても、シンクに入りきらない量が、カウンターまで侵食している。
洗って、拭いて、片付けて…けっこうかかるな。
ボクは、気合い付けに、ズボンのポケットに忍ばせておいたチョコレートを口に放り込んだ。
真冬の水道水は、身を切るように冷たい。
お湯が出るようレバーを回しても、半世紀、つまり平成どころか昭和時代の遺跡たる給湯設備では、中々温まるものではない。
肉の薄いボクの手は、見る間に赤く凍えていった。
冷たい水と格闘すること、およそ一時間。
ようやく仕事を終え、ロッカールームで帰り支度をしていると
「テンちゃん」
まだ仕事中だったママがわざわざやってきて、小さな紙袋を差し出した。
営業中は艶っぽい存在感を振りまくママだが、閉店後、老眼鏡をちょこんと鼻に載せた姿は、いかにも普通の五十代で、安心する。
「これ、きょうお客様から頂いたチョコレートなんだけど、ほらアタシ甘いもの食べないじゃない?アンタ持って帰ってくれない」
ママは時々、こうして頂きもののお菓子をボクに回してくれる。
キャストの女の子たちではなくボクにくれるというのは、ボクがしょっちゅうチョコレートをつまんでいるせいか、そうでなければボクが瘦せぎすなせいだろう。
168センチ、42キロ。
ボクの体型はけして貧乏からの栄養不足などではなくて、単なる遺伝なのだけど、あえてそれを説明したことはない。
ボクは紙袋を受け取ると、普段は半月型の目を三日月型にし、最大限の嬉しそうな笑顔を返して店を出た。
白み始めた空の元、冷たいベンチに腰掛けて始発電車を待つ間、ボクは空腹に耐え兼ね、もらった紙袋を開いた。
リボンを解き、真っ赤な箱の蓋を開け、波型の緩衝紙を剥がすと、金箔のかかった豪奢なチョコレートが行儀よく並んでいた。
1つを手にとって、口の中に放り込む。
滑らかな口溶けとともに口いっぱいに広がる、上品な味。
ナッツの香ばしさと、カカオの風味を引き立てるミルクの丸み。
その豊かな味わいとは裏腹に、ボクの隅にいる一番可愛げの無いボクが、頭の中で囁いた。
ゲロ甘。
ボクは箱をしまい、代わりに、ズボンのポケットにもう1つ残っていた安物のチョコレートの包みを剥いた。
ボクは、甘いものはどちらかというと苦手だ。
だから本当は、チョコレートは好きじゃない。
にも関わらずこうして持ち歩いて、時折つまむのは、ただ落ち着くからだ。
イチゴ味のチロルチョコ。
それは、ボクの安定剤だ。