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エボリューション9(≒125)  作者: 雨宮吾子
新世界へ至る道
8/15

08

 私がこの病院で迎えた初めての冬について、特に語るところはない。それ以上の出来事が、私の身に起こった。

 60番が亡くなったのだ。






 その報せを持ってきたのは、ミス・ホワイトだった。

 私は心の中に渦巻く感情――驚きや恐れや納得や寂寞、そして最も深い部分にある悲しみ――に、しばらく放心状態のようになって身を沈めた。彼女はいつの間にか私の隣に座っていて、私が現実に起こった事態を受け止めるまで、そのまま見守ってくれた。それから、私は彼女の胸に顔を埋めた。そのような彼女の親しみのある行動は、あるいは背後に何か意図を隠していたのかもしれないと、後になってみればそう考えられたのだが、このときは素直に彼女の好意に甘えた。私はこの病院に来てから初めて温かい身体に触れ、そうすることで涙を流すことができた。彼女が私を受け入れてくれなければ、きっと涙を流すこともできずに悲しみだけが胸の中に残り続けたことだろう。私は、彼女に感謝を伝えた。


「ありがとう」


 それは、魔法の言葉だと思えた。

 私は院長に詳しい説明をしてもらえるよう彼女に求め、そして60番の部屋に入れてもらえるよう頼んだ。


「分かりました。院長先生との面会は私にお任せ下さい。あの患者さんの部屋に立ち入る許可については、直接お訊きになられるのが良いかと思います」


 彼女が発した言葉は相変わらず堅苦しかったが、その眼差しには暖かな感情が込められていた。

 私は彼女に握手を求めた。それは私なりの、彼女に対する感謝の表明の仕方だった。

 彼女が去り、私は無機質な部屋に独り残った。小さく積み上げた文庫本のタワーが、60番が座っていたイスが、彼のことを思い起こさせた。私にはまだ、彼が去ったという実感はなかった。彼と再び会うことはできるだろうか? 彼がどのような形で葬られるにしても、もう一度、彼に会いたいと思った。






 夢を見た。

 夢を見ていたと気付いたときには、私はすっかり目を覚まして、そしてその内容など忘れてしまっていた。ただ、60番ともう一度会えたことだけは覚えている。

 いつの間にやら眠っていた私を現実の世界に引き上げたのは、部屋のドアをノックする音と、それから入ってきたミス・ホワイトの言葉だった。


「院長室へご案内します」


 私はミス・ホワイトに先導されて、本館に向かう回廊の中を歩いた。この回廊は、60番と少なからぬ時間を過ごした場所だったから、私の胸には様々な思いが去来した。

 その中でも最も思い出深かったのは、秋の頃に葬列を見たときのことだ。あれが彼の死を暗示していたなどとは全く思えないが、彼もまたあのようにして地下の墓地へ運ばれていくのだろうと思うと、何とも言えない気分に陥った。

 彼はこの地に眠ることを望んでいただろうか?

 彼が生前に言っていた、会いたい人がいるという言葉を思い出す。この世界のどこかにいるその人の、その人々の元に帰っていくのが本当なのではないだろうか。私はそのことを、強く院長に求めようと決意した。

 ミス・ホワイトは、私たちがいつもは立ち入らないような通路を通って、院長室の前に案内してくれた。私は西棟に戻って行く彼女に礼を言い、そこにあったソファに座った。院長室の扉には「president」の文字が、そして扉の上には0号室という掲示がされていて、それらが真の意味で何を表しているのか、しばらく考え込んだ。そうして考え続けて、答えが出る前に院長室の扉が内側から開かれた。


「どうぞ、お入り下さい」


 その内側から私を招いたのは、意外にも副院長だった。


「院長先生はどちらに?」

「少し、体調を崩しておりましてね。不満ではありましょうが、私が説明をさせて頂きます。よろしいですね?」


 眼鏡の奥の眼光に射抜かれて、私は頷いた。尤も、予期せぬ事態であったから、不満を抱く間もなかった。

 院長室の中は難しそうな医学書が並んでいたり、肖像画が壁に掛かっていたり、国旗が掲げられていたりして、特別変わったところはないように思えた。私たちは来客用に使われていると思われる応接スペースに座り、そこで話を始めることになった。「Louis」の名が記されている院長の机には、書類が山積みになっていた。


「院長先生は風邪か何かを?」

「医者というものは因果なもので、自分自身の病と向き合うことは簡単ではないのです。院長も大変立派な方ではありますが、医者の宿命からは逃れられなかったのでしょうな」

「やはり、ご高齢ということもあって?」

「ふむ。実は私と院長とは二つしか違わないのですよ」


 私の表情には素直に驚きの色が出たらしい。彼は私の表情を認めて、冷静に話を続けた。


「これを聞いて驚かない方はいません。それくらい、院長という職には大変な重みがあるということですよ」


 話の導入として何気なく聞いたことから意外な事実を知り、私はすっかりそちらに心を奪われそうになったのだが、さすがにここに来た目的は忘れなかった。


「私がここに来た理由は、西棟の60号室にいた男のことを知りたかったからなんです」

「……ああ、亡くなられたあの方ですな。看護婦からの報告によれば、あの方とは大変親しかったとか」

「ええ。それで、どうして急にこんなことになったのだろうと疑問に思ったんです」

「なるほど、貴方はご存知ではなかったのですか。少し、お待ち下さい」


 そう言うと彼は手元にあったファイルを手に取り、その中身を吟味し始めた。しばらくしてから、彼は視線を上げて私の顔に焦点を合わせた。


「どうもあの方にはご存命の血縁者はないようです」

「家族はいないのですか」

「ええ、そのようです。……そうですな、もしよろしければ60号室へ行かれませんか」

「問題はないのですか?」

「もちろんです。それに、貴方に判断してもらうことが好ましい事案があるようですから」


 私は先程ミス・ホワイトと一緒に歩いた回廊の中を、今度は副院長と共に遡ることになった。私はここで目覚めた頃に感じた疑問――どうしてこの病院はこのような構造になっているのか――をぶつけてみたくなったが、それは強い衝動にはなり得ず、すぐに霧散していった。

 西棟のナースステーションに立ち入ったとき、看護婦たちの雰囲気が一気に緊張するのが感じられた。私にはまだよく感じられない威厳が、この副院長には備わっているらしかった。

 通路を通って60号室の手前まで行くと、看護婦たちが慌ただしく立ち働いているのが目に付いた。それも副院長が一声かけると、看護婦たちが立ち去って、嘘のような静寂が生まれた。


「では、入りましょう」


 私の中に何となく存在していたためらいを、彼の進めた歩みが綺麗に消し去った。私は彼に続いて60号室に入った。

 そこはこれまた嘘のように清浄な空間だった。私は60番がどのようにして亡くなったのか知らなかったから、ひょっとすると血の一滴でも染み込んでいるのではないかと思ったが、どうやらそのようなことはなかったようで、病的な白さは相変わらずのままだった。ベッドの脇に積み上げられていた文庫本は既に無く、その一方で壁にはあの絵画、「希望」が掛かっているままだった。視覚的に気付いたそれらのことに加えて、私はこの部屋に染み付いていた生活の臭いというものが取り払われていることにも気付かされた。60番は、本当に去ってしまったのだ。


「何故、彼は亡くなったのですか」


 私の疑問は当たり前のものだったし、副院長もまた当たり前の質問として受け止めた。しかし、返ってきた言葉は少し意外なものだった。


「あの方は自ら死を選んだのです」

「……自殺、ですか?」

「そうではありません。安楽死です」


 60番らしい、何となく私にはそう思えた。しかし、壁に掛かったままの「希望」が何かを訴えかけてきているようにも思えた。


「あの方は、眠りに就くときにこれを握りしめていました」


 そうして彼が白衣のポケットから取り出したのは、51番の少年が私に貸してくれた携帯ラジオだった。

 私は不意に重い衝撃を頭に受けたような気がした。恐怖、戦慄。冷たい衝撃が身体中を駆け巡っていくその一瞬が、極度に拡大されて感じられた。


「これが、あの方が記した安楽死に同意するサインです」


 その衝撃の冷めやらぬままに彼が示した同意書には、その言葉通り、60番の本名が記されていた。


「どうです、彼の筆跡に違いありませんね?」

「さ、さあ、どうでしょうね。彼の書いた文字を見たことがありませんから……」

「では、問題ないということで。葬儀は近いうちに執り行うことになっておりますので、そのときはよろしくどうぞ……」


 彼はそう言って、静かに60号室を後にした。一方、部屋の中に残された私の胸中では得体の知れない喧騒が走り回っていた。

 どのくらいそこにいたのだろう、私はいつからか握りしめていたラジオの存在に気付いた。そうして彼の文庫本が置いてあった場所にラジオを置き、スイッチを入れた。

 流れてくるのはいつものチャイム、それに続く異国語の宣言、そして盛大な行進曲だった。私はしばらくその繰り返しを聞きながら、60番との別れを、心の中で済ませておこうと思った。

 そこへ、小さな足音が近付いてくるのが聞こえた。足音は部屋の前で止まり、そしてノックの後にドアが開かれた。姿を現したのは、51番の少年だった。


「どうして、ここに?」

「僕のところに連絡がきて、ここへ来るように言われたんだ。お兄さんこそ、どうして?」

「私の友人が、この部屋で生活をしていたんだ……」


 聡い少年はその言葉で一つの生命の終焉を感じ取ったらしかった。が、その顔にまたすぐ疑念の表情が浮かんだ。


「どうしてそんな放送を聞いているの?」

「ああ、これはその友人が好んで聞いていた放送なんだ。君には、この放送の意味が分かるのかい?」

「うん」

「本当かい? 何を言っているのか、教えてくれないか」


 彼はしばらく戸惑っていたが、やがて頷いた。

 曰く、


『……臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、十二月八日午前六時発表。帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋において……』

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