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エボリューション9(≒125)  作者: 雨宮吾子
新世界へ至る道
5/15

05

 それから秋がやって来て、私たちは自然と言葉を内側に留めるようになった。熱狂の時代(ジャズ・エイジ)は過ぎ、やがて来る冷えた世界に向けて、一歩ずつ足を踏み出していかなければならない。その心構えを、これからしていくのだ。

 私が口をつぐむようになったのは、それに加えて、彼方からの声が聞こえるようになったせいでもある。その直前に60番がかけてくれた言葉を想起すれば、ここに暮らす人々が等しくその声を聞いているということが分かった。その声は毎晩のように私の就寝を襲うようになった。

 そんな私の生活を支えてくれたのは60番でもギリシャ悲劇でもなく、あの看護婦、ミス・ホワイトだった。それが看護婦としての当然の責務とはいえ、傍にいる人間が暖かい眼差しを向けてくれるようになるというのは、とても心を潤わせてくれるような満たされた気分にさせてくれるのだった。

 そのようにして、私は西の人間になったのだった。






 私が彼方からの声に少しずつ慣れていき、次第に元通りの平常な生活を取り戻すに連れて、60番は少しずつ踏み込んだ話をしてくれるようになった。好みの食事の話から始まり、一度行ってみたい場所としてアカプルコを挙げ、キューバ産の葉巻を吸いながら家族が浜辺で戯れるのをビーチパラソルの下で眺めていたいのだと、そんな夢も語ってくれた。


「しかし、夢は夢だよ」


 彼は心底、残念そうに言った。私としては彼にはどこか超越したようなところがあるように感じていたから、案外世俗的な夢を持っているのだと驚きもした。しかしそれは、悪印象を持ったという意味では決してない。他人の皮膚の下に流れる血の色を、はっきりと「赤」と認めることができたときの喜びだ。

 家族。

 私はそれまで家族というものを意識したことはほとんどなかった。自分がどのようにして生まれ、どのような家庭の中で育ってきたのか、そんなことを考える余裕はなかったのだ。何しろ、私の記憶はごっそりと抜け落ちているから。しかし、考えようによっては不幸なことではないのかもしれないと思えた。ここで60番やミス・ホワイト、図書室で出会った用務員や裏庭にいた少年、そんな様々な人々と接しながら生活していけるのなら、彼らは後天的な家族になり得るだろうから。

 前向きになった私の心を秋雨が撫でる。この時期に私は、ある忘れられない光景を目の当たりにした。






 その日は朝から空が重苦しく感じられて、回廊の中で読書をしていた私と60番はどこか荒涼とした気分に晒されていた。果たして、細々とした雨が列を成して降り注ぎ始め、回廊の中にいた私たちには何らの影響もなかったけれども、やはりどこか息苦しい気分にさせられた。雨足が弱かったこともあって視界ははっきりとしていたし、その雨音に紛れた異質な音も聞き逃すことはなかった。

 それは重い扉を開ける、ゆっくりとした速度の音だった。どこから聞こえてくるものか、それはすぐには分からなかったが、やがて中庭の中心にある丸太小屋の大きな扉が開いていくのが目に映った。そこには普段は濃い紺色の作業服を着ている用務員――私は心の中でネイビー氏と呼んでいた――の姿が確認できた。彼はいつもとは違って、黒いコートを身につけていた。何かが始まる予感がした。


「何が起こっているんだ?」


 私は傍の60番に尋ねた。彼はどう答えるべきか、迷っているように見えた。


「君はもう正真正銘、西の人間だろうね?


 彼から返ってきたのは妙な言葉だった。私は半ばおかしく感じながらも頷いた。


「じゃあ、ここに座っていよう。答えはすぐに分かるさ」


 私は彼のことを信頼していたから、その提案に従うことにした。すぐに、本館の扉が開いて人の現れる気配がした。

 先触れとして現れたのは黒衣を纏った熟年の男性だった。すらりとした背の高さが目に付いたが、異様なのは傘も差さずに堂々とした様子で丸太小屋へ歩いていくことだった。


「あれはこの病院の副院長だ」


 私は初めて見る副院長の姿に目を凝らした。雨粒に濡れた眼鏡の奥にある瞳を窺うことはできなかったが、実直さと生真面目さが身体の仕草一つ一つから読み取ることができた。

 副院長に続いて同じく黒衣の人々が次々に現れた。いずれもが彼と同じように傘を差さず、彼と違って俯きがちに丸太小屋へ歩いていく。私は列を成した人々の本質を、その核を目にする前に気付いた。

 それは、葬列だった。

 葬列の中程と思われるところに屈強な男たちが、やはり黒い衣装を身に纏って姿を現した。彼らは小さな棺を担いでいた。


「あれは……?」

「院長だな」


 そして葬列の最後尾に、いつもと変わらぬ白衣の院長の姿があった。葬列を成すいずれもが黒衣であったために、また誰もが壮健であったために、年齢を重ねた院長の姿はまさに異色だった。

 最前列を行く副院長とネイビー氏が視線を交わし、それに続く人々が左右に分かれて棺が丸太小屋の中へ運ばれていくのを見守った。院長と副院長が揃ったところで二人が黙祷を始めた。人々もそれに倣い、しばらく静と動の興味深い構図が生まれた。一定した雨音の中で、共通の瞬間に院長と副院長は顔を上げた。その気配を悟った人々も顔を上げた。院長は小さな声で何かの言葉を口にしたが、私たちのところまでは聞こえてこなかった。彼らが葬列の主とどのような関係であるのかは分からなかった。人々が頻りに顔を拭うのも、雨のためなのか涙のためなのか、はっきりとは分からなかった。

 やがて院長と副院長とネイビー氏、それから葬列の中の限られた人々が丸太小屋の中へ姿を消し、残された人々は三々五々本館へ戻っていった。


「僕はギリシャ悲劇を超えるものはないと思っているが、人の死に限っては例外だ。死の前に人は平等である――誰かがそんなことを言っていたな」


 60番は静かに、そう呟いた。

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