04
漂流者という存在は、私の冷めた心に再び火を点けるのに充分な力を持っていた。
あの人がこの島にいるかもしれない。その可能性はもちろん私を喜ばせたが、そこに何か薄暗い感情が混ざっているのは否定できなかった。信仰と呼ぶに相応しいところまで膨れ上がった私の憧れは、もしあの人と再会できたならどうなってしまうか、それが分からなかったのだ。
だが、とにかく私は前に進まなければならない。そうしたなら、きっとあの人も喜んでくれるだろうから。
「はあ、漂流者ですか。いやいや、これはどうも……」
物好きですな、と彼が口の中で呟くのが分かった。
傷だらけのくすんだ窓ガラスの手前、姿勢を変えるごとに軋む椅子に座っているのは、私が探り当てた一人の男だった。と言っても彼は漂流者ではなく、いわゆる探偵と呼ばれる存在だった。
彼は長らくその仕事で生活をしてきたが、特に借金もなく財を成すわけでもなく、その日その日を懸命に生きているといった種類の人間だった。ただ、その長い年月の積み重ねということもあって、どこか達観したような、ある意味で何らかの諦めがついているようにも見えた。決して広くはない私の交友関係を伝って辿り着いたのが、この僻地に事務所を構える彼だったのだ。おそらくは面白味のない仕事や物好きな人間の依頼ばかりを聞いてきたのだろうが、その中でもきっと私はかなりの変わり者に映ったことだろう。
しかし、彼の瞳に浮かんだ好奇心を私は見逃さなかった。
「ええ、まあ興味はありますよ。それに断る理由もない。どうぞ任せて下さい」
その好奇心だけが、諦観を抱きつつある彼にとっての唯一の推進力であったかもしれない。
とにかく私はあの人の特徴を伝え、漂流者の中に彼が含まれているかどうかを確かめ、もしそうであるなら所在地を調べてほしいと言った。公の新聞に載るくらいの情報だから重要な機密ではないはずで、調べようと思えば個人でどうにかならないことはないだろうが、それでもどこで何を手がかりにすれば良いのか分からない私のような人間のために、目の前の彼は存在しているのだった。
「分かりました。では、一週間以内に途中経過をお報せしますよ」
「お願いします」
「しかしまあ、新聞に漂流者の有無を示す欄があるとは、私も知らなかった。どこにあるんです」
彼が引っ張り出してきた九月の新聞を開き、原子力電池を用いたペースメーカー手術の記事が載った頁の隅を私は指し示した。
「ほう」
とだけ、彼は言った。
探偵事務所からの帰り道、私はあの娼婦と出会った角を通った。あの日に起こった出来事は、もう遠い時空の彼方に去ってしまったのだ。
私は彼女のことを思い出すとき、やはりあのオニオンスープの温かさがまず浮かんでくる。彼女の手の温もりは、その次だ。
もう一度、会いたいなと思った。
物理的には不可能ではない。彼女の家への道は覚えているつもりだから、彼女がそこに住んでいれば会うこともできるかもしれない。が、それはもう過ぎ去ってしまったことなのだ。今になって追いかけてみても、感情の交流を再び行なうことはできない。そういうものなのだと私は思えたし、そう思えることは一種の進歩かもしれない。
ふと、足を止める。私が9番と呼ばれていたあの人に会いたいと願うことは、それとどう違うのだろう?
一週間もしないうちに連絡があり、私は再び例の探偵事務所に足を運んだ。
「三日で片付けるつもりが少し難儀しましてね、しかし約束の期間までには何とか足取りを掴めましたよ」
彼はそう言うと暑くもないのに額を拭う仕草をしてみせた。
「ありがとうございます。それにしても、何か問題でもあったんですか?」
「はあ、そちらから頂いた情報を元に調査したんですがね、どうも最後の部分で確信が持てんのです」
「というと?」
「状況は限りなく彼がその人であることを告げています。しかし、外見や年齢などがどうも食い違っているんですよ」
当然だ。
私は、何故かそのように思えた。この世界で起きている不思議な出来事の数々を知っているから、そういうふうに感じられたのかもしれない。
「その人とは会えますか」
「漂流者の社会参画を推進すべし、というのがこの島の方針のようでしてね。法的に問題はありませんし、もちろん住居も分かっています。しかし……、いや、その先はそちらの決めることです」
「迅速な対応、感謝します」
「それが仕事ですから」
彼が尋ねようとしたことは何となく分かった。
その人物に会ったところでどうするのか、ということだろう。しかしその答えは、残念ながら私も持っていなかった。
17番目の漂流者である彼が生活しているのは、島が提供した公営住宅ではなく、より港に近いアパートだった。それが意味することを私は理解した。
私はどのような口実で彼の家を尋ねるべきか迷ったが、嘘を吐くのではなく、本心を明かして会うべきだと思った。
その日、私は散歩を兼ねて港まで歩いた。そこで海鳥たちが空を泳ぐのを見て、それからよく利用する小売店に入った。お土産にできるような立派な品というのも特に置いていなかったから、私は小分けされたお菓子とチョコレートバーを選び、その足で彼の家に向かった。
彼の家があるのは五階建てアパートの三階で、階段を上るときにはあれこれと考えが巡った。ここに来て、やはり何かしらの口実が必要かもしれないと思えたが、ドアの前に立ってチャイムを鳴らす頃には、もう迷いは消え去っていた。
チャイムに応答する女性の声を聞いて、自分の推測が正しかったのが分かった。彼にはもう愛すべき人がいる。
「どちら様ですか?」
ドアの向こうから尋ねる声がした。
私は名乗るべき名を持たなかったから、咄嗟に答えた。
「51番です」




