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03

 再び灰色の日々がやってきた。

 私の心に巣食ったあの日の出来事は、風の吹き込んでくる寒い部屋であったはずなのに、あのオニオンスープの温かさのおかげか煙草の火のおかげか、それとも彼女の肉体の温もりのおかげかは分からないが、どうしてだけ暖色の思い出として胸に刻まれた。しかし私はその思い出を追いかけることはせず、再び灰色の生活の中に戻っていくことにした。

 一日の仕事の中で、丸太小屋の地下にある墓地を管理しているときは最も気が滅入る。かつて人として生きた肉体に想いを馳せるようなことは想像力の弱い私にはできないし、そうしようとも思わない。それに心霊現象というものを信じもしない。だというのに、地下の墓地にいるときは重苦しい気分にさせられるのだ。そのとき、私の意識は自然と神の存在へと向かう。十字架の下に眠る人々は間違いなくそれを信じていたのだろう。しかし私たちは、私はその存在を信じることができない。あるいは今の時代のこの島に住む人々もそれを信じないかもしれない。特に私が温もりを知った、彼女のような人は。

 私がそれを信じることのできない一つの理由は、彼らの信仰世界が垂直方向に拡がっているせいなのかもしれない。天国と地獄。私はそのようなものを信じなかった。一方で私は海の彼方を見つめるのが好きだ。東の人々は皆がそうだった。謂わば私たちの信仰世界は、水平方向に拡がっているのだろう。

 だからあの人が海に消えて行ったとき、その行為のためにあの人がかけがえのない存在であったと知り、その行為のために私たちは隔絶された。私にとってあの人は、そのような存在なのだ。

 人には人の神が。犬には犬の神が。そして、私には私の神がいた。






 私の生活で唯一の楽しみと言えるのが、新聞を読むことだった。心の躍るような出来事もあれば、胸の締め付けられるような出来事もあるが、それらは私に生きている実感を強く与えてくれるのだった。世界が廻り、日々様々な出来事が起こり、時代は流れていく。結局は私という存在が歴史という地層の中に埋もれてしまうのだとしても、その運動の中に私も含まれているのだという実感が、心に強く響くのだ。

 ところで、あの日からしばらく地域のニュースを注意深く見ていたが、例の騒動については特に報道はされなかった。元々、新聞を広げてみても海の向こうから入ってくるニュースが多く、この島で起こったことにはあまり紙幅が割かれていない。それはいつものことだった。郊外で起こったことはなおさら記事になりにくい。あの地域は、僻地たるこの島の中の、更なる僻地だった。

 しかし、そのように地域のニュースを眺めるという新しい習慣のおかげで、今までは気付かなかったことにも注意が向くようになった。それはこの地域で亡くなった人々の名前が記された欄の隣に、漂流者と書かれた箇所があることだった。


「漂流者ハナシ」


 漂流者とは何だろうか。

 それ自体の定義は難しくはないし、何らかの海難事故で流されてくる人もいるのかもしれない。ただ、そうした漂流者の有無をわざわざ記載する必要があるのか、それは誰に向けて書かれているのか、ということが気になった。まずその必要があるのだとすれば、漂流者という存在はこの島にとっては珍しくないのかもしれない。しかし、漂流してきた人々がいるのだとすれば、まず運ばれてくるのはこの病院だろう、そして私もそうした存在がいることを知っているはずだろう。それなのに漂流者の存在を私は初めて知った。だとすれば、実際は漂流者なる人々は存在せず、何らかの符号なのではないだろうか。

 そこまで考えが至ったところで、次の疑問が再浮上する。これは誰に向けて書かれているのかということだが、残念ながら私にはまるで想像もつかなかった。新聞社による意図のない記載なのか、それとももっと上の大きな意思が働いているのか。


「馬鹿馬鹿しい」


 私は新聞をベッドの上に放り投げた。海の向こうの思想戦争も終わり、きな臭い陰謀の時代は去ったはずではないか。そうした時代に見えざる大きな存在のことを考えるのはあまりにも馬鹿げたことだった。

 しかし。

 私は自分の中の衝動が抑えきれず、椅子から立ち上がった。午後に回すつもりでいた仕事をさっさと終わらせて、それから街へ出よう。そして真実を、この手に掴み取るのだ。







 この街で唯一の図書館には、私の予想していた通りに過去の新聞が保存されていた。私はその日の閉館時間まで粘って過去の漂流者について調べていった。


「漂流者ハナシ」


 同じ記載がしばらく続いた。日が傾き、新聞を捲る指先がすり減っていった。


「そろそろ閉館時間ですので……」


 三度目にその言葉を聞かされたまさにそのとき、私は遂に辿り着いた。


「漂流者アリ、22人目」


 それは約半年前の新聞に記されていた。私は司書の女性に礼を言うと、その足で病院に舞い戻った。

 病院内の資料を用務員の私が勝手に読むわけにはいかない。が、私が個人的に付けている日記がある。その日記を読めば、その日のことを少しでも思い出すことはできるだろうし、上手くいけば病院に運ばれてきた者がいたかどうかも分かるかもしれない。




 某月某日。天気晴朗ナレドモ風強シ。

 風が強いこんな日にはあの日のことを思い出す。過ぎていったことを悔いても詮ないが、それが人の性というものだ。

 私はいつまでもこのようにして歳を重ねていかなければならないのだろうか?




 昔の私が綴った日記には、今の私も共有している感情が記されていた。しかしそこには見えざる断絶があって、今の私が読んだときにはどうしても複雑に絡み合う感情をも意識させられる。

 とにかく、そこには漂流者の手がかりとなるようなものはなかった。半年前のことを鮮明に思い出すことも不可能だったし、こうなれば新聞社に直接問い合わせてみるしかないだろう。

 ふと、一つの区切りが訪れた。私は丸太小屋の壁に掛けている絵画に目をやった。それはあの人の友人が遺していった「希望」という名の絵画だった。外面的に実在するその絵は、私を内面世界へと導いていった。旧き日の希望にすがって生きていくのは、果たして正しいことなのだろうか? そのようにしてこのまま朽ち果てていくのが嫌ならば、未来に目を向けなければならないのではないか?

 私は自信を失いつつある。自分の行動について、自分の思考について、自分の感情について。しかしそれを自分で信じなければ、誰がそれを信じるというのだろう?

 私は考えが堂々巡りをするよりも早く、ベッドに身を委ねた。眠りは浅く、やがて深く。そして次なる朝を迎えたときには、また新たな自分と向き合わなければならないのだった。






「どうも、お電話代わりました。たしか、漂流者についてお尋ねでしたね?」

「ええ、そうです。漂流者とは何かの符丁ですか、それとも文字通りの漂流者ですか?」

「正真正銘、文字通りの漂流者ですよ。不思議なものですがね、この島には漂流してくる人が多いんです。どこで生まれどこで育ち、どこからどのように流れてきたのか、そんなことはお構いなしに彼らは保護されます」

「保護された人々はどうなるんですか?」

「まずは丘の上の病院に運ばれて、健康状態を確かめます。問題があれば入院、問題がなければ手続きを経て島の公営住宅が与えられます。仕事の斡旋などの支援を受けながら、この島で新しい生活を始めるというわけです」

「漂流者のその後の生活について、そちらはどの程度まで知っていますか?」

「その後のことについてはノータッチですよ。調べようと思えば調べられますが、そのあたりはデリケートな問題ですからね」

「何だか濁しますね」

「最近は色々とややこしくなっていましてね、個人の生活に立ち入ることは余程の理由がなければ許されません。そうしたことに過剰な好奇心を持つ人々を相手に商売をする輩もいますが、それはうちのような新聞社のする仕事ではありませんよ」

「事情があるのは分かりました。それから気になるのは、どうして漂流者について報道する必要があるんですか?」

「世界で起きている事柄は全てが報道の対象です。報道すべきことはどうかは上の人間が決めることで、私のような末端の人間がそのベールを剥がすことはできません」

「ご自身の見解を聞きたいですね」

「貴方も物好きですね。……私も興味を持ってこれまでの漂流者についてリストアップしていましてね、データを見比べて色々と考えたんです。その結果、彼らには何の共通点もないことが分かりました。今は思想戦争の頃とは違って、こんな僻地で陰謀が行われるということはないんですよ。それから、漂流者について報道する理由は、単に知る権利を尊重しているという我が社の姿勢を示す手段でしかないと、私はそう思いますよ。これくらいで勘弁して下さい」

「分かりました。お忙しいところ、ありがとうございました」

「いえ。……あっ、そうだ」

「はい?」

「貴方はどうして漂流者のことにそこまでこだわるんですか?」

「信仰の問題です。貴方も意外に物好きな人ですね」

「よく分かりませんが、たしかに無粋な質問でした。じゃあ、失礼します」

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