表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/15

02

 路面電車を降りた頃には、周囲はすっかり暗がりに沈んでいた。私は病院の守衛のことを思い出しながら、早く帰らねばならないと早足になった。私の仕事は本当に自由なもので、縛られているルールのようなものは特別ないものの、勝手に外泊することはやはり好ましくないように思われた。そんなことをすれば、きっと守衛のおじさんから上の方に話が伝わって、何かしらの叱責はされるだろう。まだ若いうちに入るものの、幾つになっても叱られることには慣れなかった。

 そしてもう一つ、私が早足になった理由がある。島の北側の区画は先にも言ったように半ば見捨てられた場所である。そのために街灯の数は必要最小限に抑えられていて、その上に見回りの警官も少なく、そうした事情もあって犯罪の件数は多い。そして一つの悪習とも言えるが、仮に街路の真ん中で暴漢に襲われたとしても、周辺の住民はだんまりを決め込んで警察に通報するようなことはしない。面倒事に巻き込まれたくないのだろうし、もしかすると彼らも警察と関わりたくない何らかの事情があるのかもしれない。とにかく、物騒な地域なのだった。

 そうした理由で早足で歩いていた私は、不意に背後で物音がしたように思えた。振り向くことはできない。額に汗が浮かぶ。自分の歩く音を最小限に抑えて、勘違いではないかと探ってみるが、やはり距離を保って付いて来る者がいる。少し、速度を上げる。すると相手も同じように速度を上げる。どうしたものか。

 と思っていたその矢先に身体に衝撃が走った。冷たい街路に倒れて、何やら暖かいものの上に覆い被さっていることに気付いた。女の匂いがした。果たして、私は門からやって来たのであろう女とぶつかり、彼女を下敷きにして倒れたのだ。事態を把握して起き上がろうとしたそのとき、女が私を大きく突き飛ばした。えぐっ、と女が声を漏らす。尻餅をついた私は、腹に鈍器を叩きつけられた女の姿を見た。黒い服装に白いマスクの男が、ぬめりとした動作でこちらを見ていた。


「人殺しだ! おい、人殺しがいるぞ! 誰か警察を呼んでくれ!」


 私は今までに出したことのないような大声を腹の底から出した。男は明らかに動揺していた。人殺しという言葉を聞いて、さすがに息を潜めていた周辺の住民が、住宅の二階に姿を現してこちらを見ていた。警察に電話をするよう叫んでいる声もした。私は隙を突いて男に体当たりをかました。私よりも体格の大きい男はそれで倒れたわけではなかったが、よろよろとした動作で逃げ去って行った。


「大丈夫か?」


 腹をやられた女に手を差し伸べたが、それを握る力の弱々しさに私は申し訳無さを感じた。女は私を助けるために私の身体を突き飛ばしたのだ。女に肩を貸して立ち上がらせたときには、周囲はちょっとした騒ぎになっていた。


「病院へ行くならこのまま行こう。しかし、警察に事情を話さないといけな――」


 彼女が私の手を自らの太ももに当てた。その素肌の露出の大きさに、彼女がどのようにして生計を立てているかが一瞬にして理解できた。


「私の家へ」

「しかし」

「お互いのためよ」

「どうして」

「娼婦と同道していたなんて寝覚めの悪い話、新聞に載せたくはないでしょう? あなた、私を助けるために騒ぎを起こしたんでしょうけど、ちょっとやり過ぎたわね」


 それはたしかにそうだった。どのみち、彼女に借りがあることに変わりはない。私は彼女を背負って、案内を受けながら彼女の家へと足早に去って行った。






 彼女の自宅は密集した住宅の二階にあった。元々は一つの世帯が暮らすべきものとして建てられたのが、今は一階と二階とで別々の世帯に貸し出されていて、彼女に案内された裏口の非常階段から二階へと上って行った。尤も、別の世帯とは言ってもこの辺りは同業者が多く暮らしていて、ここの場合も例に漏れずというわけらしい。彼女たちを仕切っている女性、体格が良い割にきびきびと口の動く、そんな女性の存在を想像した。しかし、それは想像の中の存在である。


「こんなところを見られたとしても大丈夫なのか?」

「えっ?」

「男を勝手に連れ込んだりして」

「あんな大胆なことをする割には心配性なのね。大丈夫、何も無ければそれで終わるだけの話よ」


 私はふと寂寥感のようなものを覚えたが、それは風に乗って運ばれて来て、そしてまた風に吹かれて運ばれていく類の感情だった。

 彼女の取り出した鍵を鍵穴に差し込み、回す。威勢の良い音がして鍵が開いた。電気を点け、ベッドまで運ぶのが私の成すべきことだった。ベッドに彼女の姿を横たえたとき、私はその身体の線に得も言われぬ感情を抱いた。次の瞬間に彼女が腹を剥き出しにしたとき、咄嗟に反応ができなかった程に。


「ねえ、どうかしら」

「……どうって?」

「痣になってないかしら」


 私はごく自然に、もちろんそれ以上の感情を持たずに彼女の腹に触れた。私の冷たい手が触れた瞬間に彼女の身体が少しばかり震えたが、私は丁寧に彼女の腹を撫でた。


「くすぐったいわ」

「ああ、ごめん。思ったよりは酷くないみたいだ」

「そう、良かった。実はね、あのとき咄嗟にバッグをお腹の上に乗せたの。本当に咄嗟の判断よ。でも、上手い具合に緩衝材になってくれたのね」


 それならそうと言ってほしかった、と私は思った。それでも彼女の機転と、あの男の鈍器を叩きつけた場所が偶然に腹であったことなどを考えると、とても奇跡的なことのように思えた。


「じゃあ、もう良いかな」

「あら、もう帰っちゃうの。少しだけ腰を下ろしなさいよ。スープの一つぐらいはご馳走させて」

「しかしね」

「私はあなたを助けた。そしてあなたも私を助けた。だからお互いに責任を感じることはないけれど、せっかく出会ったんだから感情の交流ぐらいしないと、罰が当たるわ」

「感情の交流?」


 妙な表現をするものだと思った。そして笑ってしまった後には、すぐに帰ってしまうことが切ないことのように感じられた。

 おそらく、鋭敏な彼女なら気付いていたことだろうが、後になってみればほとぼりの冷めやらぬ中を帰るのはあまり良くないことでもあったのだ。

 彼女は立ち上がって鍋に入ったスープを温め始めると、小さな食卓に私を誘った。彼女がその準備をする間、私は手持ち無沙汰になった。


「煙草、良いかい?」

「ええ、私も一本吸わせてもらうわ」


 私はポケットの中に煙草が無いのを思い出すと、紙袋を――紙袋を、さっきの騒ぎで落としてきたことに気付いた。


「しまった」

「どうしたの?」

「紙袋を落としたんだ。あの中に買ったばかりの煙草が……」

「他に大事なものは入っていたの?」

「酒と食料、それくらいだ」


 じゃあ構わないわね、と彼女は微笑んだ。買ったばかりの品々を紛失したのは残念だったが、その微笑みのおかげで大したことではないようにも思えてきた。


「私のなら一本あげるけど、どうかしら」

「嫌じゃなければ」

「はい、どうぞ」


 彼女の差し出してきた煙草を、一本つまんで口に咥える。火を求めたところに、彼女の顔が近付いてきた。


「ど、どうした?」

「火、あげるわ。私の煙草からで良いでしょ」


 私は咥えた煙草を指で挟んで支え、そのまま彼女の口から伸びた煙草に近付けていった。火はなかなか点かなかった。

 私たちは煙草の方ばかり見ていたが、ほぼ同じ瞬間に私たちは見つめ合った。火が、ようやく点いた。


「ふう。慣れないことをするものじゃないわね」


 私は額の汗を拭って、気のない返事をした。私は窓外に目をやり、遅れてやって来た秋の季節に想いを馳せた。少し強めの寂しい風が当たる度に窓ガラスが音を立てる。その振動で家の中に置かれた細々としたものが振動する。安普請なのだ。


「お待たせしました」


 彼女は二人分のスープを食卓に乗せ、向かい側に座った。匙ですくったスープをふうふうと冷ますと、口元に運んだ。私は匙の中のスープをまず匂うと、そこに玉ねぎの予感を覚え、そのまま口に運んだ。果たしてちょうど良い温かさのオニオンスープが、私の心の中の何かを満たしていくのだった。


「美味しいな」

「そう? 少し温め過ぎたわ」

「これくらいがちょうど良いと思うよ」

「そうかしら。まあ、少しは自分の腕に自信が持てたわ」


 彼女はそこで笑った。私も笑った。その暖かさがまた私の心を満たしていって、一口ごとに運んでいくスープの旨味が増していくように感じられた。

 私はスープを飲み干すと、直截にこう言った。


「ありがとう、美味かったよ」

「そう、こちらこそありがとう」


 私は洗い物をする彼女の後ろ姿を眺めながら、窓の方へ近寄って行った。外の様子は平穏なもので、しかし静かな調子ではなかった。どこかで弦楽器を弾いている男が――演奏に合わせて何かを歌っているのでそうと分かった――いて、それに合わせて騒いでいる大人たちの声が聞こえた。風の音、水の音、弦楽器の音。それらが三位一体となって私の中を駆け巡っている。風は強まり、弦楽器の演奏は白熱し、蛇口から溢れ出る水の量は増加していった。そしてその先に待つものは――蛇口の音だった。きつく蛇口を閉める音が聞こえたかと思うと、風の音も弦楽器の音もどこか彼方へと去ってしまったかのような静寂が訪れていた。ふと振り向くと、私に寄り添う形で女が立っていた。


「それで、どうする?」


 私はためらうことなく、彼女の手を取ったのだった。






 安普請だ。

 私は昨日の夜に感じたことを、その朝にも感じた。窓は相変わらずガタガタと震えていたし、ちょうどベッドの上に朝日が射し込む形になっていて、ゆっくりと目覚めるゆとりもなかった。私はベッドの内側を向いたが、そこに彼女の姿はなかった。身だしなみを整えてから室内を見て回ったが、やはり彼女はいない。ようやく食卓の上のメッセージに気付いたのは、しばらく経ってからのことだった。


「ありがとう。そして、さようなら」


 さようなら。

 私は心の中でそう呟くと、昨夜のように裏口の非常階段を下りていくのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ