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01

 人の背丈を大きく越えたコンクリートの黒い壁に身体を預けて、私はあの頃のことを思い返していた。この地で生まれ、そのまま外の世界を知らずに育った私は、幼い頃に幾人かの大人たちと交わった。それは私と同じ東の人間――古い呼び方だが――が多かったが、西の人間であった彼や、その友人や用務員のおじさん、そんな人々との思い出もある。しかし、今ではもうその全てがここから去ってしまった。

 ふう、とため息をつく。環境は昔よりもずっと良くなったはずなのだ。海の向こうで起こった思想戦争も終わり、ルドヴィコ治療院は解体された。元々の院長だったハリス院長が続投しているものの、今はフライハイト・ヒル病院と呼ばれている。東と西の区別はなくなり、私たち敵性民間人とされた人々は各々の日常生活に戻っていった。しかし私は、戻る場所のない私は、今もここで生活をしている。前任者の用務員のおじさんが亡くなった後を引き継ぐ形で。

 ごそごそと紺色の作業服の中を探る。が、煙草は切らしていた。ストックもそろそろ消化してしまいそうだったから、また買い出しに行かなければならない。私は面倒な気持ちを感じながら、それでも生活を続けていくためには補給を受けなければならないのだと自分に言い聞かせ、身体を自立させた。振り向いて黒い壁に手を触れてみたが、私が身体を預けていたところは他と変わらずひんやりとしていた。

 鉄条網は、もうとっくに無くなっている。あの人が鉄条網を突破して海に飛び降りて行ったとき、それに続く者が出るのではないかという予測はあったが、結局は海に飛び降りて逃げるほどの覚悟を持った者もなければ、そうするだけの理由がある者もなく、そのまま鉄条網は放置された。それが前の思想戦争の後の冷ややかな緊張感の中で、前触れもなくこの黒い壁が作り上げられていた。どうしてそんなものが必要なのか、私たちは知らぬままに新たな不安を感じたが、今のところは世界も静かなものだ。そうした情報を知ることができるようになったのも、あの戦争の後になってからのことだ。やはり、環境は良くなっている。

 それでも、私の心に沈殿している何かが、私を晴れやかな気分にさせてくれないのだ。生きる張り合いもなく、このままこの場所で生活を続け、いずれ朽ちてゆく。私はそのことが無性に悲しく思えるのだ。煙草を知り、酒を知り、女を知った。そうしたものと戯れるときには私の心は澄んだものになるのだが、それだけに却って普段の虚しさは募るのだった。

 私は、それ以上考えるのをやめた。そうして北館の中へ戻る道を歩んで行こうとした。


「――」


 何かが、聞こえた気がした。人の声のような何かが。

 しかしそれは、海から運ばれてくる風の音だった。その風が途切れたとき、私の心に残っていたのは荒漠とした乾いた感情だった。






 十字路の上の丸太小屋に戻った私は、既に一日の仕事を終えていた。用務員とは言っても、まだ若い私にとっては随分と楽な仕事だ。やるべきことは少なくはないが、それでも一日の半分もかからずに全てを終えてしまう。この後の黄昏時までここで過ごしても良いのだが、幸いなことに街の方へ下りていく自由は与えられていたから、買い出しに行くことにした。やるべきことがあるから退屈はしのげるが、それでも心が躍るほどのことではない。

 病院の正門を通るとき、守衛さんに挨拶をする。ここがまだルドヴィコ治療院だったときは、病院から出ることなどは許されていなかったから、こうして大っぴらに正門を通って街へ下りていくのは何となく不思議な気分にさせられる。それは何度同じことを繰り返しても変わらぬ感情だった。過ぎ去って行った人々には与えられなかった自由だ。私は時の流れを残酷に思った。

 緩やかな勾配の坂を下り、この島唯一の街、キャピタル・プロヴィデンスの外れに足を踏み入れる。この辺りは古い時代の街並みが残っていて、それは中心部の近代化された区画と比べると、どこか私の心に優しい。それは視覚的な理由でもあり、聴覚的な理由でもある。この辺りは実に静かなもので、道の左右の住宅から時折聞こえてくる子供の泣き声がアクセントとなるくらいなのだ。それに比べると、街の中心部は人や車や路面電車、音という名のあらゆる情報が行き交っていて、自然と神経を消耗させられる。だから、私はこの街の外れの区画が嫌いではない。

 そう、嫌いではない。好きとは言えないのだ。この島の北側の区画は、島の顔でもある港のある南側の区画と比べると、謂わば裏側なのだ。ここは勃興する中央部から追いやられた人々の、貧困に喘ぐ人々の暮らす区画なのだ。それが、私を好きとは感じさせない理由なのだった。子供たちの上げる泣き声は、悲しいことに幸福なものではない。僅かばかりの菓子をお互いに奪い合って泣き、余裕をなくした大人たちの感情の捌け口とされて泣き、そしてその境遇に悲しんで泣く。私はそんな光景を何度も目の当たりにして悲しみ、そしてそれを自分とは隔絶された世界のこととして感じることにまた悲しんだ。ここは、私にとっては中央部への通り道であり、それ以上でもそれ以下でもないのだった。そして中央部で何をするかといえば、煙草を買い、酒を買い、束の間の娯楽を楽しむのだ。

 私は、自分を薄情な人間と感じた。






 路面電車の駅のホームで、私は最後の煙草を吸うことにした。ここは終点でもあるのだが、路面電車の駅ということもあって造りは簡素なもので、辛うじて風雨が凌げるようになっている程度だ。私は窮屈なベンチに座るのではなく、立ったままで紫煙を吹かした。半分ほど吸い終えたところで親子連れが同じホーム上にやって来た。近くのベンチに座ったので私は火をもみ消して、吸殻入れに捨てた。子供の見ている前では煙草を吸わないこと、それから横断歩道の信号を守ること、それが私の信条なのだった。煙草も酒も毒だと分かっていながら続けてしまう弱さを自覚しているから、そうした強がりをしてみたかったのかもしれない。あるいは立派な大人というものを演じてみたかっただけなのかもしれない。

 私がどこか浮ついた気分になったそのとき、駅のホームに路面電車が流れ込んできた。

 電車に乗ると、当然のように座席はいくらでも空いていた。しかし私は、どうも身体を落ち着かせる気になれず、吊革を握ってドアの近くに立った。まだ煙草の臭いが後をつけて来ているようだった。私は軽く咳き込むと、動き出した電車の窓ガラスの向こう側に目を凝らした。

 子供の頃は病院の中が世界の全てだった。今こうして寂れた郊外から近代化した都市部へ向かうとき、心地良い気分をもたらしてくれるのだった。何故かというと、私の世界認識が進んでいったのと同じ道を、この電車が辿っているように思えるからだ。今はこの島が私の世界の全てだ。狭くはないが、決して広くもない世界。私はそれで良い、それで良いのだと思った。

 電車が都市部へ向かうに連れて乗客は増えていく。途中、学校に程近い駅まで来たとき、電車は少し長めに停車する。一日の授業を終えた学生たちが山ほど乗り込んでくるのだ。窮屈でない程度に乗り込み、乗り切れなかった学生たちは次の電車を待つ。私はその小さな配慮が好きだった。そして晴れやかな気持ちに一点の雲が現れる。正規の教育を受けていない私の小さな引け目だった。私にも別の生き方があったのだろうか、と。私は軽く咳き込み、思考をそこまでで押し留めた。






 港に程近い駅で路面電車を降り、行きつけの小売店に向かった。わざわざそこへ行かなくともスーパーマーケットがあるのだが、そうした都市部の人間が集うような場所へ行くのは、どうも好きではない。かと言って小売店で何かしらの交流があるわけでもなく、煙草や酒、それからちょっとした食料を買うだけだ。もちろん店主とは顔なじみになっていて、たまに天気のことなど当たり障りのない話をすることもあるが、私の心が開いてはいないことを敏感に悟ってそれ以上のことは語りかけてこない。

 生活というものは、理性ではなく惰性で進むものなのだろう。

 私は紙袋を抱えて港へ向かった。病院を出る時間が少し遅かったせいもあって、いつの間にやら日が傾きかけている。太陽はあまりにも眩し過ぎるから、その光が陰り始めると空に浮かぶ雲の様子や海面を走る波の様子などがはっきりと見える。まさにこのとき、そのような光景が港から一望することができた。海の向こうには何も見えない。航跡で賑わっているわけでもなければ、陸地の気配がするわけでもない。それでいながら私がその光景を寂しいものと認識しなかったのは、単に空を飛び交うカモメたちのおかげだったのだろう。彼らはいかにも自由に見えた。私はもう純粋な子供ではなかったから、彼らには彼らなりの苦労なり葛藤なりがあるのだということは分かるが、やはり空を飛ぶということの晴れやかさは心を動かすものがある。彼らは今、さながら時計回りになって空を舞っている。いつまでも、いつまでもそれを見ていたかった。

 しかし、私は立ち上がる。いつまでも見ていたいからこそ、見てはならないものもあるのだから。

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