彼女が眠りにつく日まで
何の模様もない、白く細い綺麗な首元に顔を近づけ思わず話かけた。
「どうしてお前は良い匂いがするんだ?」
石鹸は同じ物を使っているはずなのに、何故こんなに甘い匂いがするのだろう。
『はあうっ! いきなり何、何?!』
ノラは喚きながら暴れ出した。
『ちょっ、ちょっと待って! その、心の、準備が――』
悲鳴に似た声でちらりと見上げると、顔を真っ赤にして怯えるように固く目を瞑っていた。
そんな露骨に嫌がるなよ。傷つくだろ?
名残惜しいが仕方なく首元に埋めていた顔を戻した。
身体が離れた事を感じ取ったのか、ノラは恐る恐るといった雰囲気で目を開けた。綺麗な黒い瞳で俺の顔をまっすぐ見上げている。
「驚かせて悪かった」
食べようとした訳じゃない。
そう言ったところでノラには通じないし、声に出したら本当に言い訳になってしまいそうだったから最後の言葉は飲み込んだ。
お詫びと親愛の情をこめて頭を撫でる。ノラの艶やかな黒髪は触り心地が良い。
『食べないの? あ、もしかして動揺しなければもう少し堪能出来たんじゃない? あーあ、失敗したなぁ』
ノラは顔を顰めてぶつぶつ唸っていたが、しばらくすると穏やかな表情になって再び目を閉じた。
いつも頭を撫でるとノラは少し俯いて気持ちよさそうに大人しくなる。出会った当初より警戒感は大分薄らいでいるようだ。
少しは信頼されているのだろうか?
そう思うと無性にノラを可愛がりたくなった。
「怪我はどうだ? もう痛くないか?」
傷の具合を確認するためにノラの小さな頤を指で軽く押し上げた。白い頬にはまだ一筋の傷痕がうっすら残っている。自然と掌で小さく柔らかい頬を包み込んでいた。
掌が、ノラの顔が、熱を帯びている事に気付く。見るとノラは顔や耳をまた真っ赤にしていた。
「具合でも悪いのか?」
心配で顔を近づけると、ノラは弾かれたように叫びだした。
『ほわぁああぁ! それはダメ! 違う意味で死んじゃうからっ!』
ノラは小さな両手で真っ赤な顔を覆って首を横に振り続けている。
信頼関係を築くにはまだ時間が必要らしい。
******
森でノラを拾ったのは偶然だった。でも澄んだ空気に微かに混ざる血の匂いに誘われたのかもしれない。
木の根元の蹲るように丸まっていた姿に最初は山猿か何かだと思った。
ぼろぼろの服を着ていたそれは俺を見て驚いた。怪我をしているのか傷だらけの素足を引きずりながらも慌ててこの場から逃げようとする。
反射的に背後から腕を掴んだ。強く握ったら折れるのではないかと思うほど柔らかく細く、冷たかった。
驚いたのか痛かったのか、生き物は動きを止め小さく鳴いた。子供の悲鳴に似た声につい手を離してしまった。
その隙に不思議な二足歩行の生き物は背中を向けて再び逃げだそうと走り出したが、やはりその動作は素早くない。
捕まえようとして伸ばした指先に先ほどの柔らかさを思い出し一瞬躊躇した。今度は出来るだけ優しく掴んで声をかけた。
「こら、暴れるな。傷が開くぞ」
不思議な生き物は突然急に動きを止めゆっくりと振り返った。顔や服は泥で汚れており、長い黒髪には小枝や木の葉が絡みついている。
小刻みに震えながらも大きな黒目で不思議そうに見上げてくる。
「言葉は分かるか?」
瞳には知性が感じられるが、言葉が通じないのか首を傾げている。逃げられたり暴れられたりすると面倒なのでなるべく怖がらせないようにゆっくりと動き、元の場所へ座らせた。
逃げ出した時の様子が気にかかり調べようと手を伸ばしたら、首を竦ませて身体を強ばらせた。首を守るように細い両腕で覆い小さく丸まる。
必死な姿に胸が痛んだ。
「落ち着け。痛くはしない」
通じていないと分かりつつも話しかけた。でもそれが良かったのか、ヒトは恐る恐ると腕を解いた。
また怖がらせないように下手でゆっくりと腕を伸ばす。今度は大丈夫だった。
全身擦り傷や打ち身でぼろぼろだが、特に片方のももに何かが刺さったような深い傷があった。
間近で観察してようやくその生き物が、昔爺さんから散々聞かされていたヒトの姿に似ていると気が付いた。
角も牙も爪も、腕力も魔力もない弱い生き物。もしこれがヒトならばこの世界には存在しない生物だ。
デモニエラという種族が奴隷や食料として異世界から調達してくるヒトは高額で売買される。魔力が飛び抜けて高い彼らだからできる唯一の魔術だ。
デモニエラは召喚したヒトに魔術で烙印を付ける。それによりヒトはこの世界で言葉が通じるようになるが、同時に商品としての登録完了を意味する。例え逃げ出しても烙印の魔力を辿って連れ戻すことが出来るようになる。反対に烙印が無ければ五感が退化している彼らは諦めるしかない。逃げたヒトを無闇に捜すよりしばらくしてまた別のヒトを召喚した方が効率は良いからだろう。ただ召喚は負担が大きいため年に1、2回しか出来ないと聞いたことがある。
このヒトの首の後ろの付け根には烙印が無い。この世界に来てすぐに逃げてきたのかもしれない。
運の良いヒトがデモニエラや奴隷商、飼い主から逃げ出せたとしても、この世界の環境に馴染めず衰弱したり、獣や蟲や誰か餌や食事になったりするだろう。
ヒトは旨い。一度でも食べた奴は皆口を揃えてそう言う。
俺は食べたことが無いのでどんな味がするのか分からない。
運が良い。
思いがけずタダで手に入った高級食材に口元が緩む。
試しに自分の指に付いていたヒトの血を舐めてみた。その旨さは驚きだった。他の動物のように臭みも苦みも無く、ほのかな甘みを求めるように喉が鳴る。
柔らかい肌に牙を食い込ませたくなる欲求を何とか理性で押し留めた。ここではちゃんと味わえないし、これ以上血の匂いをまき散らせば獣や蟲が寄ってくるかもしれない。
止血のため上着の裾を紐状に切り裂き、傷口を縛った。
処置している事が分かるのかそれとも諦めたのか、ヒトは大人しくなった。
衰弱して動けないヒトを両腕に大切に抱きかかえ、家に帰った。最初氷のように冷たかった身体は段々と温かくなった。家に着く頃には顔が真っ赤になっていた。
傷のせいで熱が出たかも知れない。
傷から雑菌が入ると肉が腐ったり病気になったりして食べられなくなる。すぐに風呂の支度をした。
最初は俺が洗ってやるつもりだった。けれど服を脱がそうとしたらギャーギャーと喚きえらく抵抗した。今度ばかりは声を掛けても静かにならない。
それでも無理やり服を脱がそうとして、その理由がようやく分かった。
――どうやら雌だったらしい。
見た目では雌雄の区別は付けられないし、細すぎて身体に凹凸はないし、いや、それ以前にヒトを見たことがない。
ヒトの奴隷には夜伽もさせると聞いていたが――。
「こんな平原みたい身体では間違いすら起こらないだろ?」
溜息交じりの弁解が通じる訳もなく、涙を潤ませた瞳で必死に抵抗する姿に仕方なく洗うのを諦め、簡単に風呂場の使い方を教えた。
しばらくして洗い終わったのか、ヒトのメスは扉を開けて顔を覗かせた。綺麗になった肌は白く、顔は思いのほか可愛らしく、濡れた黒髪は艶を帯びている。
でも痩せぎすの身体は美味しそうだとは思わなかった。
どうせ食べるならもう少し太らせてからにしよう。食物は愛情を込めて育てるとそれに応えるように成長する、と聞いた事がある。食べ頃になるまでは大切に扱おうと決めた俺の中で、彼女を奴隷にする選択肢は綺麗に消えた。
少し怯えたような瞳でまっすぐ俺を見上げるヒトの姿を見てそう思った。
丁度良い大きさの服がない。元の服はぼろぼろで汚れているので着せるには躊躇する。
体毛が薄そうなので裸では病気になるかも知れない。
とりあえず俺の服を渡した。嫌がるかと思ったが本人も裸でいるよりは良いと思ったのか素直に羽織る。小さな膝頭が上着の裾から覗く。長すぎる袖を一生懸命まくっている姿が何とも健気だ。
俺の肩までしかない小さい彼女のために、食卓の椅子に厚手の座布団を用意した。座り心地が良かったのか彼女は少し表情を緩めた。初めて見る嬉しそうな雰囲気に思わず俺の頬も緩んでいた。
食べ物は何を与えて良いか分からなかったため、俺と同じ食事から火の通った野菜と肉を分けた。
警戒して最初は口を付けなかったが、俺が同じものを食べていると知って安心したのかすぐに平らげた。
もう一杯与えようと洗ったように綺麗にした食器を手に取ろうとしたら彼女は慌てたように小さい手で俺の指を掴んだ。
向こうから俺に触ってくるとは思わなかったので正直驚いた。爪の短い彼女の手は柔らかく優しかった。
彼女は動きの止まった俺から手を離し、一言二言ゆっくりと話かけてきたが、やはり彼女の発する言葉は分からない。
俺が理解していないと理解したのか、彼女は一瞬悲しそうな顔になったが、すぐに首を横に振って自分のお腹が膨れていることを身振り手振りで示した。
そして自分の顔の前で両方の掌を合わせると何かを呟いて少し前屈みになった。
腹でも痛くなったのか?
俺の心配を余所に彼女はすぐに顔を上げると逃げもせず、俺が食べ終わるまで大人しく座っていた。
食事を終えた俺が立ち上がると、彼女も自分の食器を手にとり軽快に椅子から降りた。
「どうしたんだ?」
何を言っても彼女には通じない。だからこの言葉が独り言になってしまうと分かっているのに、つい声を掛けてしまった。
彼女は俺をじっと見上げ、しばらくした後に口を開いた。
視線から察するに俺に喋りかけている。彼女も言葉が通じていないのは分かっているはずだ。互いに言葉は通じていない。でも表情や声音で彼女が怯えたり怒ったりしていない事は分かるようになった。
どうやら食器の片付けを手伝ってくれるらしい。大きくて重い食器を洗い場まで運んでやると彼女はすでに捲られている袖を更に捲り、肘まで剥き出しになった細い腕で皿を洗い出した。
所作は手慣れていて無駄がない。見た目で勝手に子供だと思っていたが、大人なのかも知れない。時折視線を上げて一生懸命に話しかけてくる律儀さと健気さに、何とも言えない感情がわき上がっていた。
ふと彼女の名前を聞いていなかった事に気付く。
「名前はあるのか?」
彼女が不思議そうに見上げてくる。当然通じてはいないだろう。
「俺はタキ」
自分の胸を指で指し示し、大きくゆっくり口を開いた。
「タ、キ」
もう一度自分を指し示すと、どうやらそれが名前だと認識してくれたらしい。
『――タキ?』
彼女の口から発せられた初めて理解できる言葉が俺の名前という事に、沸き上がる嬉しさと喜びを抑えきれず無意識に彼女を抱きしめていた。気が付いた時には、小さな彼女は俺の腕の中にすっぽりと埋まっており、苦しいのかくぐもった必死に俺の背中を叩いていた。
慌てて腕を緩めると、彼女は水面から顔を出したように大きく口を開けた。
「大丈夫か?」
ぼさぼさになってしまった髪を撫で付けようと手を上げた。彼女は怯えた表情で目を固く瞑り、首を竦ませた。
何とも言えない罪悪感に押し潰されそうになる。
角も牙も爪もない小さなヒトとは姿形は元より顔の造作も似ているようで違う。口も耳も小さく、目は白い強膜と対照的な黒色の瞳の彼女は、大きな口に長く尖った耳に、真っ赤な強膜に銀の瞳を持つ、出会って間もない俺をどう思っているのだろう。
「――悪かった。ごめんな」
ゆっくりと優しく頭を撫でたが彼女は頑なに目を瞑ったままだ。
怖がる彼女を見たくなくて視線を落とした。
どのくらい経っただろう。
俺の肩をぽんぽんと何かが軽く叩く。
『タキ』
顔を上げて目が合うと彼女はぎこちなく微笑み、俺がしたように小さな指で自分の胸を指し示した。
『野田香』
彼女が名前を教えてくれたのだと気が付いた。
彼女の名前を呼びたい。
「ノドゥワカゥオシ――ノラァキャロリィ」
長い上に普段発音しない音が含まれているせいか、何度言い直しても正しく発音出来ない。苛立つだけが募っていく。
「ノラクゥワォイリ――ノラク」『ノラ』
軽やかな声が必死な俺を止める。
固まる俺に彼女は微笑んだ。
『ノラでいいよ』
「ノラ?」
彼女はその呼びかけに破顔して大きく頷いた。
『それなら聞き取れるし、タキも上手に言えるみたいだから』
褒めるように俺の頭を撫でた。
初めて見た笑顔に俺は釘付けになった。
彼女に触れてもらっている銀の髪が嬉しそうにゆらゆらと揺れていた。
******
それから一月。ノラは俺の胃袋ではなくまだ隣にいる。
名前を呼ばれたからか、名前を付けてしまったからか。それともあの笑顔を見てしまったからだろうか。
今では食べてしまうよりずっと触れていたいという思いが強い。
でもふとした瞬間に、あの芳しい血の香りを思い出す。
『ふひゃっ!?』
短い叫び声で気が付けば、頬の傷痕を舌でなぞっていた。傷はもう塞がっているので、当然血の味はしない。けれど口の中には澄んだ甘さが広がっていた。
ノラは驚いたのか目を丸くして見上げたまま固まっていた。この反応が可愛くてつい構いたくなる。
「今は食べないし、誰にもやらないから」
『今のは何? 味見なの? それとも――うーん』
ノラは頬を小さな掌で覆いながらぶつぶつと唸っていた。
俺以外の奴に食べられるくらいなら今すぐにでも食べてしまうが、この反応や仕草が見られなくなるのは惜しい。
とりあえず顔を近づけても怖がられないよう信頼関係を築こう。その後は誰にも盗られないように傍にいよう。
彼女が永遠の眠りにつく日まで、食べるのはお預けだ。