第08話 似て非なるもの
日の出と共に起きたレネは、さっそく朝食を食べに食堂に来ていた。もちろん食べるものはいつものまかない料理である。
本日はいつものスープにパンの耳が浮かんだものと、野菜くずを使った少しだけ肉入り野菜炒めである。余りの端材を使っているので見た目はいつも通りだが、味はもちろん良い。おまけで朝食にはゆで卵がひとつ付く。
『ここの料理人は良い腕をしているな』
「そうだね。おかげでいつも助かっているよ。確か、料理長は以前王宮で働いていたとか噂で聞いたことがあるよ」
レネは幸せそうにスープを飲んでいる。杜人が周囲を見た限りでは、このまかない料理を頼んでいる者はあまり居ない。そのため、おいしいのになぜだろうと疑問が浮かんだ。
『レネ、どうして安くておいしいのにこの料理を食べる者が少ないんだ? もっと食べられていても良いと思うのだが』
レネは少しだけ眉を寄せたが、すぐに戻して普通に答えた。
「基本的に魔法使いは気位が高い人が多いから。自分が特別と思っているうちは食べないと思うし、そう思っていなくても、お金があるなら普通の料理の方がもっとおいしいから普通はそっちを食べるよ。だからこれを食べている人は貧乏人と自分から宣伝していることになるの。私は昔からだからもう気にしていないけれど、そういう風に見られたくない人は居ると思うよ」
『うん? そうなのか?』
杜人が周囲を再度気を付けて観察すると、確かにまかないを食べている者を蔑んだ目で見る者が居た。レネに向けられる分には気が付いていたが、てっきり有名人だからだと思っていたので料理が原因であることに気が付かなかったのだ。
『……意外に面倒くさいな』
「そんなことを気にするなんて思わなかった」
レネは小さく笑って杜人を見る。レネには杜人はかなり傍若無人に振る舞っているように感じられていた。他人の評価を気にするようには見えないのだ。
杜人はその問いに胸を張って答える。
『気にしないことと気が付かないことは別問題だ。俺はきちんと分かったうえで自分の行動を選択し、やるときは他人の評価を気にせずに行動を起こしている。だからそれによって引き起こされたことは、何であれきちんと自分の責任として受け止めることができる。俺のせいじゃないとは言わんぞ』
ごまかしはするがな、と心の中で追加するが、もちろんレネには聞こえるはずが無い。
「……そっか、そうだよね。だから信じられるんだ……」
最後は小さく呟かれたため杜人には聞こえなかった。レネはいくら契約した魔導書の意思とはいえ、短期間で心の中に入ってきた杜人のことを不思議に思っていたのだ。だがこれで納得できた。
杜人の言葉には、責任は取らないけれど意見は言う場合に滲み出てくる軽さやいいかげんさをまったく感じない。それに気が付いたため、レネは完全に杜人を受け入れることができるようになった。
杜人にとっては短時間のなにげない会話だったが、レネにとっては忘れられない重要な出来事となった。
今日の午前中は図書館にて蔵書管理の仕事である。いくら試験が大切とはいえ今までの仕事をほったらかしにすれば、今度は合格してから干上がってしまう。そのためその辺りはきちんとすることにしていた。
レネは長い間この図書館に常駐しているので、蔵書のほとんどを読んでしまっていた。そして聞けばどこに何があるか瞬時に答えが返ってくる。そのため図書館を利用する本好きの間で、畏怖と敬意を込めて密かに『図書館の主』と呼ばれていた。もちろんレネはそのことを知らない。
現在は臨時司書の証である腕章を付けて本の入れ替えの最中だ。このときに話しかけられてもレネは自分に話しかけているとは認識せずに、司書に話しかけていると認識している。そして本を読んでいるときは区切られた個室で読む。そのため隠れた敬意にまったく気が付かないのだ。
レネは練習を兼ねて拡大した灯明を頭上に発動させて作業している。図書館では使用できる魔法に制限があるが、灯明は問題無く使える。使ってみると結構広く照射されることと、本を傷めない程度の淡い光だったため、これは良いと内心で喜んでいた。図書館が薄暗いから分かる意外な利点だった。
維持にはまだ集中が必要なので最初は頻繁に消えていたが、ある程度繰り返した結果、不安定ながらようやくそれなりに継続できるようになった。
『結構あるな』
「一応国一番の学び舎だからね。閑散としていたら駄目だと思う。私はここが大好きなんだ。静かで、たくさんの知識が眠っている場所。ここには世界が詰まっているんだ。けれど、もうほとんど読んじゃったから早く新しい本が入らないかなって思う」
その言葉に杜人は図書館を見渡す。男でも踏み台がなければ届かない高い書架が立ち並び、空いている棚はひとつも無い。少し見ただけで杜人なら一生かかっても読みきれないと断言できる量があることが分かる。
『それは凄いな。少なくとも俺には読みきれないぞ』
「そう? 楽しむならともかく、読むだけならそんなにかからないでしょ?」
レネは一冊本を手に取ると、パラパラとめくっていく。杜人にはただ次から次へとめくっているようにしか見えないが、レネにとってはこれでも遅い方である。そして瞬く間に最後までめくり、本棚に戻した。
「私はこんな感じだよ。後は寝ているときに思い出して読んだりしてる。情報収集の場合はその都度文字を読むより、一度記憶して読んだ方がずっと速いからこうしているんだ。もちろん物語なんかはゆっくり読んだ方が味があって好きだよ。私は他の人より実技が駄目だから、せめて知識くらいはと思って頑張ったんだから」
レネは当たり前のように言うが、普通の人はそもそも知識を得るために読むのだから、記憶して後で読むレネとは前提がまったく違う。
もちろん杜人がいくら変人だからといってもレネのようにできるはずも無い。変人は覚悟さえあれば誰でもなれるが、天才は生まれ持った才能がものをいう。似ていてもまったく違うものなのだ。
杜人はレネがあっさりと言ったため一瞬これが普通のことなのかと思いかけたが、それなら筆記試験があるわけがないと気が付き、レネの隠れた才能に小さくため息をついた。
『レネ、そんなことができるのは極一部だけだ。間違っても他の人に言うなよ。馬鹿にしていると誤解されるからな。少なくとも俺にはできない』
「え? ……そうなの?」
意外そうに聞いてくるレネに、杜人は深く頷いて肯定する。
レネは才能が完全に開花する前に他人との交流が止まり図書館にずっと閉じこもっていた。そして他者への不信感もあったため、成長して理解力が増加してからの自分と他者との比較を積極的に行おうとは思わなかった。
落ちこぼれと言われ続けていたが故に、レネにとって『この程度』のことは誰でもできると思い込んでいたこともある。歩ける人は歩く姿勢を気にするかもしれないが、歩けること自体は気にしない。呼吸するのと同じ感覚で使えるため、疑問を持って他人を観察したりしなかったのだ。
『そうだ。いらぬ軋轢を自ら作る必要も無い。分かる人だけ分かっていれば十分だ。……一応補足するが、学んだことを聞いてきた者に教えるなと言っているわけでは無いからな。レネの勉強方法は特殊だから、他人が同じようにできるとは思うなということだ。これは大切なことだからな』
勘違いされても困るので補足しておく。そのまま話して『え、何でできないの?』では敵を量産することになるし、知っているのに断っても恨みを買う。
杜人自身は他人に聞いて教えてもらえなくても、教えてもらえないことを前提として聞いているのでなんとも思わないが、大多数の人は『その人が知っていることを聞いても教えてもらえない』場合、負の感情を持つことを知っている。
杜人はそれを分かって行動を決めているので問題無いが、なんだかんだ言ってまっすぐな性格をしているレネには耐えられないと推測した。そしてその場合、思い込みの激しいレネは質問してくる他人を敵対者として認識し、他者に対して心を完全に閉ざすかもしれない。
今まで大丈夫だからといって、これからも大丈夫とは限らない。さすがにそうなる可能性を放置するわけにはいかないため、いつもはしないおせっかいを杜人は行った。
「えっと……、質問にはいつも通り答えて、読み方は教えなければ良いの?」
『教えないと言うより、聞かれたら今まで暇がたくさんあったからずっと本を読んで憶えたと言っておけば良い。それなら嘘では無いから後ろめたくならないだろう』
よく分かっていないレネに解答例を示す。嘘をついた場合は確実に慌てて何かやらかすと思っているので、嘘ではないが相手が勝手に勘違いする言い回しにしておいた。
「分かった。そうする」
杜人は素直に頷くレネを見て、おそらく他にもあるだろうなと、試験以外にもあった隠れた罠にこっそりため息をついたのだった。
レネの本日の仕事は返却された本を定められた書架に収納したり、入れ替えのために抜き出して閉架書庫に持っていったりなど、意外と疲れる作業であった。しかし、レネは疲れた様子はまったく見せず、たまに聞かれたことに答えながら変わらぬ速度で仕事をしていた。
『疲れないか?』
「え? この程度なら疲れないよ。本を持って歩いているだけだもの」
たまにトイレに行く程度で休憩らしいものをまったく挟まず動き続けているので聞いたわけだが、本当に疲れていない様子なので杜人はこれが標準なのかと首を傾げる。動作自体は小さいが、少なくとも杜人ならへばる自信がある運動量だった。
さすがにこれは情報が少なすぎて判断がつかなかったので保留にし、杜人は灯明について聞いてみる。
『だいぶ維持が上手になったと思うが、感触はどうだ?』
「朝よりは良いけど……、まだいきなり話しかけられたりして驚くと維持できないよ」
杜人との会話は静かに行われているので、集中の妨げにはなっていない。問題は、他の誰かに話しかけられたり、いきなり書架の間から現れたりしたときに維持できないことだ。
「試験のときは大きな音がしたり急に衝撃が来たりするときがあるから、まだ駄目だよね……」
『練習し始めだから仕方が無い……が、時間も無いからな。続けて慣れるしかないだろう。俺の予想ではこの時点でここまではできないと思っていたから、良い方だと思うぞ』
落ち込みかけたレネに対して、気落ちし続けないように少しだけ褒めておく。そのおかげで気持ちが上向いたレネが小さく笑みを浮かべたとき、後ろから冷たい印象を与える硬質な声がかけられた。
「こんにちは、レネ」
驚いたレネは身体を小さくびくつかせる。その影響で集中が途切れ、頭上の灯明が消滅した。維持できなかったことに小さくため息をついて、レネは硬い笑みを浮かべると後ろを向いた。
声をかけてきたエルセリアは、なにやら緊張した笑みを浮かべていた。杜人にはそう見えたのだが、感情が悪い方向に振り切れているレネには小馬鹿にした笑みに見えている。しかし、今のレネは臨時司書のため感情だけでその職務を放棄するわけにもいかない。そのため事務的に笑みを向けていた。
エルセリアからすれば、司書をしているときのレネは他のときより機嫌が良いので見かけたときは話しかけているのだが、まさか職業の義務感から事務的に行っているとは思っていなかった。本が好きだから機嫌が良いのだろう程度の認識だ。
「はい、こんにちは。なにか?」
『ううむ、逃げたい……』
普通の返答のはずなのに、感情が乗らないレネの声に針のむしろに座ったような気分になった杜人は思わず頭を抱えた。エルセリアには後で手伝うから、せめて試験が終わるまで待てと言いたいところだ。そんな緊迫した雰囲気の中、笑みを浮かべているレネに喜んだエルセリアは気が付かないまま突き進む。
「特に用事は無かったのですが、変な光があったのでなにかと思って……」
『まだ、まだ大丈夫……なはず』
同じようなことは他の人からも聞かれていたので、質問自体は許容範囲だ。だが、せめて自然な声で言ってくれと杜人は思う。緊張した硬い笑みと同じく柔らかさに欠けた声音では、レネは確実に悪い方に受け取ると分かっている。嫌いな人からの発言は、余程良いものでなければ悪い方に受け止めるものだ。
予想通り変で悪かったねと思ったレネだったが、変なことは確かなので自分では落ち着いていると思いながら返事をした。
「ごめんなさい。今度の試験の練習をしていたので。気になるようなら消しますけど」
『駄目かもしれん。退却を勧めるぞ……』
レネは笑顔のままだが、その声には邪魔するなという感情が潜んでいた。要するに聞きようによっては喧嘩を売っているように聞こえる言い方だ。つまり、まったく冷静では無い。
早々に諦めた杜人は首を振ってエルセリアを見る。エルセリアはというと、緊張のあまりレネの声音に潜むものを認識していなかったため、そのまま予定していた話題に突き進もうとしていた。それを見てとった杜人は、小さくため息をついてから惨劇の発生を未然に防ぐために動いた。
『レネ、時間だ。切り上げろ。昼食が遅くなる』
「……仕事の時間が終了しましたので、これで失礼します」
エルセリアが致命的な何かを言う前に、杜人はレネに働きかけて強引に会話を中断させた。話題的には一度終わっていたので、会話自体を終わらせても不自然では無かったことが救いだった。
レネは表情を消してエルセリアに一礼すると、顔も見ずに踵を返して足早に立ち去った。いきなり表情が切り替わったレネに驚いたエルセリアは、何も言えずにその場に立ち尽くしていた。
「……」
『さて、今回は何が出てくるかな。スープは基本として、軽めにパンか?』
不機嫌な気配を漂わせながら無言で歩くレネに、杜人は構わず明るい声で話しかける。既に事態はこじれまくっているため、ここでたしなめるのは逆効果となるのであえて触れない。
もし、『あの態度は良くないぞ』と言った場合、『どうして』とか、『どっちの味方なの』とか感情で反論されるのは目に見えている。そして最終的には『私のことを分かってくれない』となり、せっかく築いた信頼がこれひとつで崩壊しかねない。
レネが必ずそうなるわけではないが、わざわざ危険を冒すほどのことでもない。杜人はその手の失敗は結構してきていて、その場合は最初から触れないか全肯定する以外回避不能と学習済みだ。
全肯定はレネのためにならないので、杜人ができることは別の話題で忘れさせる程度だ。だが今回のレネは乗ってこなかった。
「いつまで続くんだろう。もう放っておいて欲しいのに……」
レネにとって、エルセリアは初めての友達であり、現状唯一の友達だった人だ。嫌いたくて嫌っているわけではない。レネには、なぜエルセリアが会う度に皮肉や嫌味を言うのかがまったく分からない。そしてレネも聖人君子ではないので、皮肉や嫌味を言われ続けてその相手を嫌いにならないなんてことはありえない。最初の一撃が致命傷だったため、後は負の方向に行くだけであった。
もしエルセリアが決別後にレネに話しかけなかった場合は、時間の経過によって傷が癒やされて、もしかしたら今なら普通に話せる程度の関係になっていたかもしれない。残念ながら、癒える前に傷口を抉り続けているのが現状であった。
無事退却できたと思っていた場所が実は敵陣の真っ只中だったと悟った杜人は、仕方が無いので切り札を切ることにした。
『さてな。詳しい事情を知らない俺にはまだ何も分からん。だが試験が終わったら必ず力になると約束する。だからレネ、今はそのことを忘れろ。まずは目先の試験に全力を傾ける。全てはそれからだ』
「うん……、分かった」
杜人が真剣な表情で力強く断言したため、レネは言われたとおり試験が終わるまで忘れることにした。感情はまだ収まっていないが、杜人が約束したことによってだいぶ落ち着いてきた。そして最後に深呼吸を行って、完全に心を切り替える。
「……良し、もう大丈夫。さ、お昼はなにかな?」
『もう食い尽くされたかもな。急いだ方が良くないか?』
明るい声で話し始めたレネに、杜人は同じく明るく答える。簡単に忘れられるはずがないので、双方が分かって行う演技のようなものだ。それでも続ければそのうち本当になる。
「そうだね。早く済ませて練習に行こう」
『廊下は静かに、だぞ』
レネはおどけて廊下を走り出し、杜人はわざとそれをたしなめる。こうして火種は燻ったまま、奥にしまわれることになった。
杜人が切った切り札、それは『先延ばし』と言われるものである。おかげでしばらくの間、頭を悩ませなければならないことが決定し、杜人は密かにどうしてこうなったと深くため息をついたのだった。