昔話 古の大賢者
注意:最終話の余韻が吹き飛ぶ可能性があります。十分余韻を堪能してから読み進めてください。
「ふぅ、何とか元気付けることができたようだな」
魔法具の明かりのみの薄暗い部屋で、エスレイムは無意識に顔をほころばせた。今はまだ子供の居ないエスレイムにとって最も可能性の高い未来でしかないが、子孫と話せて警告と情報を与えることができたことは、先を悲観する心を吹き飛ばすのには十分な出来事であった。
そして何より、子孫はエスレイムの話を戸惑いはしても一度で理解した。つまり、エスレイムと同等の資質を持っている可能性が高いということだ。それならば手段さえあれば何とかしてしまうかもしれない。その未来を閉ざさぬために、やらなければならないことを考え始めた。
「……まずは血を繋げることが先決か。こればかりはひとりではできないからな。となると、聞くのはあいつが適任か」
触媒に使った森羅万象の書の残骸を鞄にしまうと、明かりを持って部屋を出る。そして独り言を呟きながら順番を割り振り、考えた中で一番実現する可能性が低いものから始めることにした。
出向いた先は王城の一室である。そこでエスレイムは前置き抜きで用件を告げる。
「子作りをするから女を紹介してくれ。できれば黒髪で胸の小さな者を希望する。見目麗しければ尚良いが、居なければ性格が性悪でなければ誰でも良い」
「お前な……。それではい分かりましたと言う馬鹿が居ると思うか?」
「ここに居るだろう?」
「……」
真顔のエスレイムに『何を言っているのだ』という視線を向けられ、国内貴族筆頭のリベルク・リストレル公爵は額に手を当てて深々とため息をついた。エスレイムの言動は傍系とはいえ王位継承権を持つ者に対するものではないが、幼い頃に学院で出会ってからの腐れ縁のため、態度については気にしていない。
「数々の浮名を流してきたお前を見込んだからなのだが。だが、駄目なら自分で何とかしよう」
「いや、大丈夫だ。考えを纏めるから少し待て」
リベルクも紫瞳であるので外見は若々しい。それでも既に成人した息子を持つ年齢だ。そして長年エスレイムに付き合ってきたため、ここで突き放すと本当に自分で動き、何とかしてしまうと理解できてしまった。そしてそのときに起きる騒動もだ。当然リベルクも巻き込まれるため、惨劇を回避するために真剣に考えた。
「お前はもう貴族になったのだから、誰でもとは行かない。そうだな……、師弟関係でもあるし、今後も長く連れ添うと考えれば、お前のことを理解しているアトレーネ様なら適任だろうな。条件にも合致する」
「ふむ、姫か」
アトレーネは直系王族の姫であり、エスレイムの弟子である。そのため人となりもそれなりに知っていて、その他の条件となる黒髪、紫瞳、大平原と全て揃っていたので、エスレイムも前向きに考え始める。
現在のエスレイムの役職は王家お抱えの魔法顧問である。災厄前から頭角を現していたエスレイムをリベルクが隔離する形で押し込んだのだ。エスレイムは平民出身故に貴族の機微がよく分からない。そして気にもしていない。そのため貴族からの受けがあまりよろしくないのである。
エスレイムは他者から向けられる感情に対してかなり鈍いが、普段の言動から好意を向けられることのほうが少ないとしっかり自覚している。それでも態度を変えないのである。そして実害を感じれば無言でこっそり物理的に排除してしまうため、放置すると大惨事になるのだ。
そのため普段から王宮の一部に隔離しているのである。ちなみに普通の者なら厭うような生活であるが、エスレイムは煩わしいことが無くなったと喜び、嬉々として引きこもり生活を続けている。
エスレイムはアトレーネについて考察し、新しく関係を作るよりは楽と身も蓋もない判断を下した。もちろんそこには師弟愛はあっても恋愛感情は皆無である。
「確かに良さそうだ」
「まあ、人気があるから大変だろうがな。出遅れたのだから仕方がない」
美しく聡明な直系王族の降嫁先である。誰もが我が元へと立候補している。そこにねじ込まなくてはならないので、リベルクはかなり苦労することになる。だが、それでも無関係と放置するより楽なのだ。それに元々候補として考えて送り込んでいたのだから、その点についての問題はない。
「忙しいところを悪かった。ではな」
「そう思うなら最初から考慮してくれ」
リベルクは出て行くエスレイムを見送り、扉が閉まってから深々とため息をついた。
「さて、アトレーネ様自身はどう見ても恋する乙女のようだから大丈夫だろう。手土産は何が良いか……」
これからの調整に頭が痛くなりそうだが、今まで女に一片の興味すら抱かなかったエスレイムがその気になったため、この機会を逃すわけには行かない。そのためリベルクは親友のために一肌脱ぐことにしたのであった。
話を終えたエスレイムは急ぐことなく予定通り行動し、いつも通りに王宮にある訓練場にてアトレーネに魔法教練を行った。
「これで今日は終わりです」
「はい。ありがとうございました。……あの、珍しいお菓子が手に入りましたので、休憩も兼ねて試してみませんか?」
アトレーネは腰まである黒髪を無意識に触りながら、休憩というところを強調してエスレイムを誘う。ちなみに今まで行った気を引くための涙ぐましい努力、香水や仕草、はたまたわざと腕に抱きついたりもしたこともあったのだが、全て気付かれず流されていた。それでも諦めず、今は別方向から攻略を行っているのである。
好きになった理由は意外と簡単で、『血筋を見る目』で見ず、媚もしなかったからである。会う男性のほとんどがアトレーネ個人ではなく王家の血を取り込むための道具として見るため結構不愉快であり、エスレイムの態度が逆に新鮮だったのだ。そしてエスレイム自身は傍若無人というわけではなく、それなりに敬意を持てる師匠だったため、いつの間にか好きになっていたのである。
そうして好きになってから、エスレイムが誰にでも同じ態度であると気が付いた。つまり、アトレーネも有象無象と同じであると気が付いた。違うのはリベルクに対して砕けた態度をみせる程度で、後は全て変わらなかった。
普通ならここで冷めるのだが、他が悪すぎたため逆に燃えてしまった。そのため今まで努力を重ねてきたのだ。
しかし、相変わらず鈍いエスレイムはアトレーネの気持ちにいつも通り気付かず、首を横に振った。
「私は結構。お付の者とでも楽しんでください」
「そう、ですか。残念です」
アトレーネはまた駄目だったと肩を落として下を向く。そんなアトレーネを、エスレイムは真剣に観察している。
(声が似ているな。それに、よく見れば顔立ちも体形も似ている。偶然ここまで似ることがあるだろうか。……いや、ないな。言動が王家縁の者とは思えないから、どこかで血が混ざった可能性が高いか。……ふむ)
アトレーネの容姿が出会った子孫に酷似していることに気が付いたエスレイムは、確かめるためにアトレーネの目の前に立つと、おもむろに手を伸ばして腰まである長い黒髪の中に差し込んだ。そしてそのまま持ち上げると後頭部で束ね、顔を覗き込んで本当にそっくりであることを確認し、予想通りだったため心から喜び笑みをこぼす。
突然髪を触られたため驚いたアトレーネであったが、エスレイムの行動が唐突なのは既に理解しているので、頬を赤らめながらも抗うことなく成すがままになっていた。
「あ、あの……、この髪型がどうかしましたか」
理由は分からないがエスレイムが喜んでいることは理解したため、次からはこれにしようかなとアトレーネは考えた。そして初めてエスレイムから触れられて、体温が感じられると思えるほど近くにいるため、心臓が口から飛び出そうなほど高鳴っていた。
そこにエスレイムが、いつになく真面目な声で問いかける。
「姫、お願いがあるのですが」
「は、はい」
アトレーネは『まさか告白!?』と、混乱しながらも期待を込めて見つめ返す。王族のため、直接告白されて受けても結婚できるとは限らないが、偉業を成し遂げたエスレイムなら問題ない。後はアトレーネから父である国王に言えば良いのだ。
そんなことを考えているとは露知らず、エスレイムは目的を達成するため、実にあっさりと用件を告げた。
「私と子作りしませんか?」
「……」
アトレーネはエスレイムを見つめたまま笑みを固まらせ、エスレイムは気にせず上から下まで舐めるように観察していった。
……厚い曇に覆われていたその日。広大なレーンの王城に、小気味良い、軽く澄んだ音が響き渡った。
「姫は駄目だった。次を見繕ってくれ」
「お前というやつは……」
執務室にてリベルクは頭痛を堪えるように片手を額に当ててため息をついた。既にエスレイムがアトレーネに無体を働いたという噂が流れていて、リベルクは嫌な予感がしていたのである。
「王族に直接婚姻を願い出て承諾されたとしても、それだけで婚姻が成立するわけがないだろうが」
「む? そうなのか?」
「平民ですら親の了承を得に行くだろう? 貴族や王族は本人の意思よりも家長の意思が優先される。この場合は様々な手順を踏んだ上で、陛下から許可されなければ成立しない。要するに、将来の伴侶と認められてから愛を育むことになるんだ」
「なるほど。それは楽だな」
普通ではない感性を持つエスレイムは、意志に関係なく伴侶を決められてしまうことを本気で歓迎していた。それが理解できたリベルクは『駄目だこいつ』という生ぬるい視線を向けている。
「ということは、陛下に姫をくださいと言えば良いのか?」
「その辺りの複雑怪奇な部分は、こちらで対処するから大丈夫だ。お前がしなければならないことは、もっと別のことだ」
「む?」
間違いではないが、少しでも認めれば目的のために実行しかねないので、リベルクは先回りして悲劇を回避する。もしエスレイムが直接国王に申し出た場合、救国の英雄を蔑ろにはできないので成立はする。しかし、多くの貴族を敵に回すことにもなるので、頭を抱える程度では済まない事態に発展しかねないのである。
「今回、お前は姫に無礼を働いて怒らせた。このままではせっかく苦労して結婚しても、将来嫌われてしまう可能性が高い。長く連れ添うのだから、仲が良いに越したことはないだろう? だから、せめて女性がされて喜ぶことを憶えろ。お前だって、寝所で拒絶されるより求められたほうが嬉しいだろう?」
「確かに。そのほうが面倒くさくないな」
エスレイムは納得して頷いているが、リベルクは更なる頭痛に襲われていた。そして本当に『子孫を残す』ためだけに伴侶を求めているのだと確信した。ある意味、実に模範的な貴族思考である。
リベルクにとってアトレーネは可愛い姪のような存在である。その相手が『これ』では可哀想すぎると嘆きたいところであるが、その他も上辺を取り繕っているだけで大差ない。そして少なくともエスレイムであれば、理由はどうであれ大切にすることだけは確かである。
そのため将来起きるであろう悲しみを回避するために、リベルクはうっすらと笑みを浮かべてエスレイムを見た。
「分かったなら早速練習開始だ。習得するまでアトレーネ様と会うことを禁ずる。連絡はしておくから安心しろ」
「了解だ」
こうして数々の浮名を流したリベルクによるエスレイム改造計画は、本人の了承を得て始まった。
「いくらなんでも酷すぎると思いませんか!? いきなり子作りしませんか、ですよ!? 甘く愛を囁いてほしいとは言いませんが、私にどうしろと言うのですか!!」
アトレーネの私室を訪れたリベルクは、そこで盛大な愚痴を聞くはめになった。訪れた理由は心に変化があったか確認するためである。もし酷すぎる言動に幻滅し嫌いになっていたら、話を白紙にしなければならないのだ。
しかし、その心配は杞憂であった。未だに好きであることはよく分かったため、愚痴を聞きながら快く婚姻の了承を得るための方法を模索していた。
アトレーネは話しているうちに興奮してきていて、白いリボンを用いて後頭部の高い位置で纏めた髪を左右に揺らしながら、何度もテーブルを叩いている。乗ってるカップからお茶がこぼれそうになっているが、絶妙な力加減で惨事を回避していた。
リベルクは笑顔で相槌を打ちながら愚痴を聞き流し、興奮が収まってきたところで話題を切り出した。
「エスレイムは元からああですから、今更どうにもなりません。それより、これからアトレーネ様の伴侶として正式に推薦しようと思っているのです。私が推薦すれば間違いなく決まるでしょうから、お嫌であれば止めますが」
「え? ……間違いなく決まる?」
意外な言葉にアトレーネは瞬き、リベルクはお茶を飲んでから頷いた。
「はい。エスレイムはこの国に必要な人材ですから、手元に置くために間違いなく決まります。元々魔法顧問として引き合わせたのも、顔合わせと相性確認のためです。エスレイムはあの通りの性格です。ごく普通の令嬢では下手をすると心を病みますから、事前の確認は必須なのです」
「……確かにその通りですね」
アトレーネは自分をごく普通の令嬢とは欠片も考えていない。そのため聞きようによっては失礼な物言いも、素直に受け止める。実際、普通の令嬢では特別に見られていないと分かった時点で冷めてしまうか、はたまた努力しても向けられない心に疲弊し折れてしまうのだ。
「その点で言えば、アトレーネ様はエスレイムの伴侶として満点です。なんと言っても、エスレイムが自ら求めた初めての女性なのですから」
「そう、なのですか? ……えへへ」
リベルクの褒め言葉にアトレーネは真っ赤になりながら俯くと、頬に手を当てて身体を嬉しそうに揺らしている。『アトレーネはエスレイムにとって特別な女性である』ことを強調し、しっかりと認識させた。互いに理解している特別の意味が異なっているが、嘘は言っていない。
こうした下準備をしてから、リベルクは最後の仕上げに取りかかった。
「ですが、無理強いしたいわけではないので、嫌とおっしゃられるのでしたら止めておきます。推薦してもよろしいでしょうか?」
よろしいですよねという言葉を込めて、微笑みながら確認を行う。茶番ではあるが、自ら選ばせるという形式が大切なのである。王族であるアトレーネは、自ら下した判断を他者のせいにすることはないのだ。
「はい。よろしくお願いいたします」
そして予想通り、アトレーネは笑顔で迷わず了承した。これまで見てきた欠点も含めての返事であるので、これからエスレイムが奇天烈なことを行っても、余程のことでない限りアトレーネが見限ることはないという返事でもあった。
「分かりました。詳細は後日報告いたします」
「はい……」
多少浮かれ気味になっていたアトレーネに挨拶をし、リベルクは部屋を退出する。そして扉越しに何やら浮かれた声と控えていた侍女の嗜める声が聞こえたが、賢明なリベルクは何も聞こえなかったことにして歩いていく。
「こちらはこれで良し。後は根回しか」
現実は物語のようには進まない。そのためリベルクは生まれるであろう軋轢を最小限にするために動くのだった。
広い王城には、緑の草花に覆われた庭園がある。王族の憩いの場でもあるそこを、エスレイムとアトレーネが二人っきりで散策していた。もちろんエスレイムがそんな気の利いたことを思いつくはずも無く、リベルクからの指示であった。
『お前のことだから、婚約が決まったから今更求婚しなくて良いと考えているのだろうが、それは大きな間違いだ。だからといって、どこでも良いわけでもない。場所は指示するから、必ず実行するように』
他、エスレイムには無駄と思える数々の事柄を教わったが、良好な関係を維持するために珍しく頑張った。成果はそれなりで、隣に居るアトレーネは恥ずかしそうにしながらも微笑みながらエスレイムと腕を組んでいた。正式に婚約が決まったので、密着して歩いても問題ないのである。
(歩く速度を合わせ、普段の会話は決して否定せずに同意する。さりげなく護る位置に立ち、求められていることを予想し行動する。……果てしなく面倒だが、効果があるのは確かなようだ。これも目的達成のためだから仕方がない)
結果として到達する場所が同じ下心でも、普通の男が抱く理由からは盛大にずれている。それでも大切にしようと思っていることは本当である。
『良いか? もし嫌われたら次を探さなければならない。しかし、アトレーネ様ほど寛大な女性は存在しないし、他の者なら確実にお前を束縛し研究の邪魔をするだろう。つまり、次からは劣る女性しか紹介できない。お前にとっては最良な方なのだから、絶対に嫌われるようなことをするな。他とは異なり、アトレーネ様だけはお前のほうが選ばれる立場なのだからな』
リベルクは実際他の令嬢が劣っていると思っているわけではないが、こう言っておけば研究馬鹿で面倒を厭うエスレイムが確実に努力すると分かっているのだ。結果として好かれるように努力しているので、目論見通りであった。
やがて二人は小さな噴水があるところまで到着し、立ち止まった。ここが指定された目的地である。そんなに知られていないが、ここで誓い合った男女は幸せになるという言い伝えがあるのだ。
(噴水の横で軽く手を取って見つめ合い、微笑みながら真摯な気持ちで申し出る……)
「あっ……」
手を取られたアトレーネは、期待に胸を膨らませているためなすがままである。そして十分に見つめ合ってから、エスレイムは言葉を紡ぎ始めた。
「姫、私はご存知の通りの男です。これからも多大な迷惑をおかけすることでしょう。それでも、私は姫と共に在りたいと願っています。私の力の及ぶ限り大切にすると誓います。どうか、私の妻になって頂けませんか」
「は、はい。……喜んで」
エスレイムらしくない求婚に驚きながらも、アトレーネは真っ赤になりながら頷く。予想では『結婚しましょう』程度だと思っていたため、今までのことも含めて喜びが倍増していた。
もちろんその予想は正しく、今回の求婚はリベルクの指導の賜物であった。
『求婚の言葉は、本来一度しか言えない。お前は既に盛大に失敗しているのだから、やり直すために苦労するのは当たり前だ。かといって嘘が大嫌いなお前が、思ってもいない浮ついたことを言えるとは思わない。だから、全部本当のことを言え。真実なのだから、取捨選択すれば必ず心に届く言葉になる。良いか、面倒だからと短縮したり、思ったことをそのまま垂れ流したりするなよ』
こうした指導の結果である。もちろん今回の求婚もしっかり添削されている。そんな呆れる真実を知らないアトレーネは、嬉しそうにエスレイムに微笑んだ。
「あの、私のどのようなところを好きになられたのですか?」
「え? ああ、はい。可憐でやさしく……」
「そんな……。えへへ」
この問いも予想の範囲内である。そのため予行演習もしっかりと行っている。鈍いエスレイムではあるが、言って良いことと悪いことの区別はそれなりにつく。そのため嘘にはならない範囲で正直に答えた。おかげで心に染み入る真実の言葉となり、とても良い雰囲気となったためほっと胸をなで下ろす。
そして、アトレーネへ抱いている無意識の信頼がこれまでの修練で微妙に良い方向へ変化していたことと、一応緊張していてここまで間違えることなく順調に来たことが重なり、慣れないことをやり遂げ達成感に包まれていた正直者なエスレイムは、とても重要な事柄ではあるがあえて伝える必要はないと思っていたことを、最後に思わず付け足してしまった。
「あと、胸が全くないところです」
「……」
アトレーネはエスレイムを見つめたまま笑みを深め、エスレイムも失言に気付かぬまま優しく微笑みを返した。
……どこまでも青く晴れ渡っていたその日。レーンの広い王城に、臓腑を抉るような、重く鈍い音が轟いた。
アトレーネの名は大賢者エスレイムの妻として知られている。一度も喧嘩したことがなく、とても仲睦まじい夫婦であったと、レーンの歴史書には記されている。
事実であり真実でもある。少なくともエスレイムは妻となったアトレーネのために心を砕いて大切にし、アトレーネも夫であるエスレイムに尽くした。
婚姻前はともかくとして、婚姻後に関しては一片の偽りもないのだから。