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斬 -ZAN-   作者: 鷹玖沙 眞
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第4章 祖母も成り行きで

 祖母の話は思ったよりも長引いてしまった。

 夜もだいぶ更けてきている。祖母は四神に家に泊まっていくよう勧めたものの、四神自身は家に帰る事を決めたようだ。

 何でも本人曰く、やるべき修練があるらしい。

 僕と祖母、母が玄関先で見送ると、四神は深々と頭を下げて家を走って出ていった。まさか祖母に家まで連れてこられ、夕飯をごちそうになり、そのお礼に僕の身辺警護を約束させられた上で、襲名の立会いまでさせれる…本人は想定外の連続だったに違いない。


 僕は位自分の部屋に篭ってベッドに倒れ込みたかった。

 僕の人生で初めて男子の来客で精神的に疲れたばかりでなく、そして祖母の気紛れにつき合わされた結果、ヘロヘロになったからである。


 何一つ気が休まらなかった。


 入浴を済ませ、自室のベッドで寝ようかと二階に上がろうとした矢先に、僕はまた祖母に声を掛けられる。

 「四神君に話せなかった事や、香には伝えておきたい事があるの。今夜は私と一緒に寝ましょ」

 祖母に逆らえる訳もない。渋々ながら僕はまた祖母の部屋へと戻っていくと、部屋には祖母の布団と僕が眠る為の布団が並べて敷いてあった。

 祖母と枕を並べて寝るなんて…何年振りの事なんだろう。

 小さい頃は、“怖い夢を見たから”とか“昔話をして”と理由を作っては、祖母の布団に潜り込んだ記憶があるのだが、布団を並べてと言うのは記憶が無かった。


 成長するにつれ、段々と一人で眠りに就く事が当たり前になってきた、というべきだろう。このように誘われるのは初めてなのである。


 そこで祖母の口から紡ぎ出された物語は、祖母の”月読”襲名の話だった。

 布団に入るなり、祖母は語りだす。

「香、“今日からお前が月読です”なんて言われても、“はい、わかりました”なんて答える性格じゃない事ぐらい、私は良く知っているわよ。

 知っているからこそ、私の話を聞いて欲しいの…」

 そんな前振りで切り出されても、僕は正直な話として戸惑うしかない。

 

「私が四神様…あ、四神君のおじいさんね。初めてお会いしたのは女学校に入った頃だから、貴女と同じ16才の時だったわ。」

「僕と同い年の頃に?」

 そうよ、四神君と貴女が偶然に出会ったように、私達も偶然に出会ったのよ。」

「桜の木の下で?」

「そうねぇ…確かに桜の木の下だったわ。」

 祖母の記憶は一気に乙女の時代へと向かっている。


「四神様はね、軍関係者の中でもかなりの有望株だったのよ。故にあの人は“カミソリ”と呼ばれていたわね。日本人離れした容姿だったし、頭も良いから年頃の乙女なんてみんなイチコロだったわよ。」

「お祖母ちゃんもそんな夢中になった人の一人だったの?」

「いいえ、初めて声を掛けて頂くまで、四神様なんて存在すら知らなかったわよ。

 寧ろその頃の私と言えば本の虫、身近にある書物から父親の日記を盗み読みし、学校の図書に関しては片っ端から乱読していったわね。“物事を知らない”って事は自分にとって許せない事だったし、“新しい知識を得る”という事が楽しい事だったの。だから周囲の男性なんて私の眼中に無かったわ。」

 女性が学問に打ち込む事など許されなかった時代だ。そんな時代、風潮に物怖じせずに己の好奇心で突き進むのが祖母という人間なのだろう。


「お祖母ちゃんに好意を持つ人は居なかったの?」

「そりゃ“下町の桜小町”と呼ばれたこの私に、声を掛ける男は数知れず、けど私の興味についてこれる人は誰一人おらず。」

 本好きな乙女につけられた渾名が“葉山の才女”であり、そんな祖母と対等に語り合えたのは四神少尉である四神少尉だけだったのだという。

 たまたま桜の下で祖母が読んでいた詩集を、通りかかった四神少尉が本のタイトルを見ただけで、中身を諳んじたからである。


 祖母は面白がって物理学や、史学、海外の文献を思い返し問い掛けてみたが、四神少尉らりと全て問いに対し返答したのだ。侘び本までお題に出したのはやりすぎかと思ったが、逆にあっさりと返されたのである。むしろ恥ずかしい思いをしたのは祖母だった。

「君は面白い!」

 四神少尉も祖母との問答を楽しみにしていたらしく、何時の間にか町のカフェで論争を繰り返すような間柄になっていた。週に一度、顔を合わせれば論争のお題をどちらかが繰り出す事が二人の楽しみだったのである。


 四神少尉を目当てに祖母と同席するものも居たが、話が難解すぎて二人についていけず、二週と相席する女生徒は居なかった。

 殆どの場合、祖母が出したテーマに四神少尉が論破する事が多かった。しかし逆に四神少尉が出すテーマは祖母には論破できなかった覚えがあるという。


「あの方は私にとって兄のような存在だったわ。だから恋愛感情とは…ちょっと違うのかしらね。」

 そんな論争を繰り返していく内に、祖母は四神少尉について少しずつ違和感を覚え始めた。

“何でこの人は刀を持っているの?”

 青年将校の場合、統一され決められた刀を腰に下るものだが、常にという訳ではない。しかしこの男は非番だろうが、日本刀を常に左手で持ち歩いている。

 初めて出会った時には刀を持っていなかったのに…

 近頃はおぼろげながら四神少尉の手に日本刀がボンヤリと浮かんできたのだ。昨日なんてはっきりと見ている。


 その刀を意識し始めると同時に、祖母の周囲で”この世に在らざる者”が見えるようになってきたのだという。最初はその存在を怖がっていたものの、こちらも向こうも何をするでもない。それが判ると祖母も慣れてきたせいか“ああ、またそこに居るんだ”ぐらいの感覚で見るようになったという。

 だから祖母は素直に”この世に在らざる者”の事を四神少尉に話したのだが、祖母の話を聞いた彼はバツの悪そうな、申し訳ないという顔をした。その表情を今でも覚えているという。


「僕と深く関わる者は…幽霊が見えるようになってしまうんだ。」

 その祖母の告発以来、四神少尉は祖母を怖がらせないように”この世に在らざる者”から身を護るよう接してくれるようになったのだという。

「四神様、貴方はどうして日本刀をお持ちになっているの?」

 祖母は改めて四神少尉が手にしている刀を指差して尋ねたのである。

「君には幽霊ばかりか…この刀がはっきりと見えているんだね?」

 この質問に祖母は素直に頷いた。きょとんとしている祖母の顔に、四神少尉はどこか哀しげに微笑んでいたのである。いつもは陽気で爽やかな笑顔を浮かべる男だが、時折見せる悲壮な表情に祖母は心を鷲掴みにされたのだ。


「四神様、私は幽霊を見れるからとて、別に怖いとは思った事がないんですよ?」

「今はそうかもしれない。だがいずれは君にも実害を及ぶようになるだろうね…そうなったらそれは僕のせいだ。」

「仕方ありませんよ、私は見えたからとて幸せなんですよ?みんなが憧れる貴方様を、独り占め出来るのですから…。」

 ふふっと意味深に笑う祖母を見て、四神も釣られて笑っている。いつもの笑顔に戻った、祖母の持つ不安を打ち消すかのような温かい微笑みだった、と祖母は布団の中で微笑んだ。


 だがその微笑みも一瞬だけ、物凄く鋭い眼光を祖母に投げかけたのである。

「ちょっと動かないでくれよ…」

 四神少尉は瞬時にくるりと祖母に背を向け、一気に抜刀した。それどころか納刀までの速度は祖母の目では追えない。カチンと金属音がしたと理解した時に、四神少尉が何かを斬り捨てたという事をやっと判断したのである。断末魔のような不気味な叫び声が祖母の耳に響いた。体を分断された黒い影が砂ぼこりのように風に吹かれ霧散している。

「こんな奴らを切り捨てるのが俺の仕事さ。そして…さっきのように俺は君に背中を任せるようになる。…それがこの世で無い者を斬り捨てる刀、斬鬼丸を持つ我が一族の宿命。

 俺がこの刀を受け継いだからには、君を護る為に鬼を切るのさ。」

 四神少尉は祖母に向き直ると納刀した刀を見せ、その場で片膝をついて頭を垂れた。


「君にはこれからある人に有って貰いたい。僕を信じてついてきてくれないか?」

「四神様、そんな…跪かないでください。私の方が断られてもついていきますわ。」

 すっと立ち上がると、四神少尉が祖母の手を引く。

「君には辛い思いをさせるだろう…でもそれは君に資質があるからにすぎない。その君が持つ資質が良い事なのか悪い事かも判らない。…ただ今は信じてくれ。」

 まっすぐな四神少尉の眼差しには抗えない。そんな経緯で四神少尉に手を引かれ、連れて来られたのは、街外れの竹林にひっそりと佇む古惚けた神社だった。


 道中、幾人かの人々とすれ違ったが男女が手を繋いで歩く、と言った行為は当時では珍しかった。だが四神少尉はそんな事すら気にしていない。

「ここは…?」

 目的地に到着した時、思わず祖母が四神少尉に尋ねた。この街で生まれ育った祖母なのだが、ここは祖母が初めてくる神社だったからである。

「あら礼一さん、ここに来るなんて珍しいわね?」

 鳥居の陰からひょっこりと巫女が現れた。竹箒を持っていた所を見ると、参道を掃除していたのだろう。だが四神少尉を”礼一さん”と名前で呼ぶのだから親しい間柄なのだろうか。


「やぁ千津さん。…“思兼神”様に用事が有ってね。今日はいらっしゃるかな?」

 四神少尉もこの女性の名前で呼び返す。やけに親しげに話をする姿に少し妬けて来る。私でさえ名前で呼んだ事はないのに…と、祖母は思ったからだ。

「ああ、紹介するよ。この人は僕の従姉妹でこちらの神社の巫女、氷室千津さんさ。こちらは…」

「月見野華です。」

 祖母は紹介される前に自分で名乗り頭を下げたのである。四神少尉の恋人と思っていたのが従姉妹だったという勘違いに赤面し誤魔化すように頭を下げたのだ。


「はじめまして、氷室千津です。いつも礼一がお世話になっております。」

 とてもおっとりとした感じの女性である。私や四神少尉より年上なのだろうか、”お姉さん”と呼ぶ方がしっくりきた。

「千津さん…そんなに僕を子ども扱いしないでくれないかな?」

 礼一は苦笑いを浮かべる。昔からこんな関係なんだろう、容易に想像がついた。

「仕方がないでしょ?貴方の小さい頃からお姉さんは知っているんだから。」

 手にした箒の柄で礼一の胸を小突く。そんな千津の行動に「参ったなあ…」と頭を掻きながらデレっとした顔の四神少尉の顔は見たくない。祖母はこの時の締まりのない四神少尉の顔にイラっときたのである。


「あら、私は興味あるわよ?」

 少し意地悪に祖母は返答したのだが、その急な横槍に対して返答に困った表情を浮かべる四神少尉を見て、氷室はクスクスと笑っていた。

「礼一さん、こちらの方なんでしょ?貴方がお気に入りの才女は。私と会う度にこちらの方のお話はしてくれたけど…答えに窮するとは見事なまでに貴方の負けね。」

「千津さん!そう僕のイメージを壊さないでくれたまえよ。」

 照れ隠しなのかふいっと踵を返すと、被っていた帽子を目深に被りさっさと大股で社殿を目指し歩き出す。そんな様子を氷室はクスクスと笑い続けている。


「何だかんだ言っても、まだまだ子供ね…あら、ごめんなさいね?」

「い、いえ良いんです!気にしてないですから!」

 祖母は氷室にペコリと頭を下げ、礼一の後をパタパタと追い掛けていった。

 社殿前で追いつき、四神少尉に建屋の中に入るよう促される。思っていた以上に社殿の中は広いものだった。座布団も何も無い、四神少尉はズカズカと板の間を進んでいく。四神少尉と祖母は社殿の中心部で正座をすると、面談を求める人物の登場を待つ。待つのは良いのだが…これがなかなか現れない。祖母は正座のせいか足が痺れてきた。


 それなのに四神少尉本人は平然と涼しい顔をしている。

 シャン…

 微かに鈴の音が聞こえた。その音に併せつつ四神少尉はすっと頭を下げたのである。釣られて祖母も頭を下げた。

 社殿に誰かが入り、対峙するために静々と歩み寄ってくる誰かの気配がする。

 その者は二人の前ですっと座った。そして祖母達を優しくも威厳のある声で語り掛けた。

   

「面を上げなさい。」

 その声の主に従い祖母が顔をすっと上げた時、とそこに対峙していたのは氷室だった。巫女の衣装のままではあったが、風格といい威厳といい、鳥居で出会った時とは別人の雰囲気を醸し出している。

「えっ?」

 思わず祖母はその場で、「氷室さん!」と声を上げそうになったのだが…それを四神少尉が手で制す。

「思兼神様、お久し振りでございます。」

 四神少尉は何を言ってるの?ほんの数分前にこの人と会ったばかりなのに…

「その者が月読の候補者なのですか?」


 先程までホンワカと参道を掃除していた人なのだろうか、人を見下すその眼差しは鋭く、嫌な汗を背中に感じる。別人ではないか?とさえ思わせた。

「思兼神様、資質は充分に兼ね備えていると考えております。」

「黄泉の者が見える程度でか?」

 ふん、と高圧的な態度で人を小馬鹿にするような氷室に対し、華は心底ムッとする。

「ですが…」

 四神少尉が異論を唱えようにも、それすら許さぬ威圧感を氷室は生み出していた。それでもと氷室に喰らいつくように口を挟もうと、四神少尉は必死だった。

 あれだけ聡明で口の達者な男が、何一つ言葉を返す事ができないでいる。


 祖母は二人の遣り取りの中で、“思兼神”だとか“月読”という言葉を思い返してみた。この張り詰めた緊張感が漂う中、己の頭脳を目一杯動かす事は容易でない。

 だがその名前は神代の時代に現れた古の神々の名前だ。“思兼神”は知恵の神であり、“月読”は月を象徴する神、それが何で氷室や祖母を差すのかがわからない。

「あの…千津さん?」

 祖母は意を決して二人の会話に割り込んでみようとしたのである。迂闊な呼びかけに四神少尉に向けられていた鋭い眼光が祖母に向けられ、思わず小さい声で「ひっ!」と声を上げたのだ。


「我は思兼神じゃ!覚えとけ、小娘!それより主はこんな小娘で良いのか?礼一!」

 答えよ!強く四神少尉を叱責をする氷室の顔は鬼よりも怖い。平身低頭の四神少尉を睨みつける。

「はい、思兼神様が何と思われようとも、この者の資質は類稀なるものがございます!…そればかりか能力の開花速度は速いもの、今以上の能力が備わったら“月読”の名前に相応しい者となるでしょう。この斬鬼丸をはっきりと見れる者など一人も降りませんでしたので…」

「それだけの理由か?」

「はい。実際に黄泉の者に狙われ始めておりますので…能力を一気に花開かす為にも思兼神様にご指導を賜ればと。」

 

「馬鹿者か己は!そんな悠長な事を言っている余裕など有るのか?」

 ははぁ、っと四神少尉は床に額を擦りつけるように頭を下げる。

「時間がない事は承知の上、しかし私と出会ったが故にこの世界に引き込んでしまったのなら…」

「捨て置けぬと言うのか?黄泉の者に襲われ、死なれれば寝覚めが悪いと申すのか?大概にせよ!貴様がこの娘から離れれば鬼もやって来ぬわ!」

 吐き捨てるように言い放つ。こんな気性の荒くなった氷室いや、思兼神の顔を見て祖母は初対面時の印象に感じた温厚さを疑いたくなった。


「ならば試練を与えてみては如何でしょうか?」

 死んだのならそれまでの話、との四神少尉の提案に対し思兼神はふんと鼻を鳴らすだけだった。祖母をまじまじと見るなり、吐き捨てるように四神少尉に言い放つ。

「ならばこの娘の命は我に預けよ!」

 さもなくばこの娘は死ぬぞ?という思兼神の脅しの一言に、祖母は恐怖心を植えつけられている。あまりにも簡潔かつ冷淡な一言だった。

「ならば私もこの者に…」

「ならん!礼一よ、お主がこの娘の手助けをしたいのだろうが、それは罷りならぬわ!」


 怒号するように四神少尉に待機を命じると、思兼神は祖母について来い!と命じる。長時間に渡り正座をさせられたせいか、痺れてしまった足で何とか立ち上がると祖母はヨタヨタと思兼神の後を追い掛けた。チラリと礼一の顔を見ると、物凄く不安そうな申し訳なさそうな顔をしていた。

 社殿の境内を歩き奥に続く渡り廊下を進むと、思兼神は祖母を連れて神社の裏手にある岩窟に向かう。岩窟の入り口には格子戸があり、施錠されている。思兼神は鍵を開け、祖母を洞窟に誘った。暗く、ジメっと湿気て気持ち悪い。外はまだ陽が高いのに、この中は夜よりも暗い闇が広がっている。


「時に小娘よ、この世に存在しない者を怖いと思うか?」

 思兼神の声が洞穴の中で反響した。「いいえ…」と答える祖母の答えに満足したのか「くくく…」と不気味に笑う。その声が響き渡ると、恐怖心が増す。

「強がって居られるのも今の内よ。主は礼一にこの社へ連れて来られた事を後悔するが良い。」

 こうして祖母が思兼神に案内されたその場所は、岩窟牢だった。その奥で不気味な声が響いている。何処となく獣が発するような咆哮だった。

「中に入るぞ?」

 思兼神は牢屋の木戸を開け、暗闇へと潜り抜ける。祖母が後に続いて中に入るなり、思兼神は何やらを唱えていた。その手には小さな炎が掌で浮かんでいる。


「別に驚く事もなかろう…この世界ではこの程度の事は児戯に等しいぞ?」

 祖母には自分が置かれている立場も判らず、胸の奥から不安だけが押し寄せてきた。それでも頷くだけしかできない。

「見えるか?」

 思兼神は手に浮かべた小さな炎を、牢屋の奥に向かってポンと投げ入れた。小さな炎の塊はフワフワと漂うと、空中で留まり一気に炎の玉は大きくると周囲を照らした。炎の真下に何かが居る事が判る。


 それは手足を鎖に繋がれ、頭を項垂れてじっと足元を見遣るだけの半裸の男だった。

 うぅ…だか、あぁ…という声が漏れてくる。人の姿をしているけど人ではないような…

「こやつはな、黄泉にも旅立てなかった哀れな男の末路よ…。御霊として奉られる事もなく、穢れとして祓われる事もない。ここで永久に繋がれるだけの存在でな、死んでも霊魂が悪霊とならんよう、ここで肉体は繋がれたまま体内に魂を閉じ込められる。そんな呪を掛けねばならんのだ。」

 最近は人としての理性すら失いかけているがな…と思兼神は哀れみの声をこの者に掛けた。


「思兼神様の力でも、礼一様の刀でも駄目なのでしょうか?」

 祖母はやっとの思いでだが、恐る恐る声を掛けてみる。

「出来れば苦労は要らんわ…」

 よく見ればこの男の体には無数に刀傷が有った。そればかりではない、腐臭が漂い始めて居る。祖母は男の肉体が何も出来ないまま腐敗へと誘われているのだと思った。


「この者はな、既に死を迎えている。だが…何者かがこの者に呪を掛けたのだ。しかも強力な物でな、我の解呪の力でも礼一の斬鬼丸でも、この者の御霊を黄泉へと導く事が出来ぬ。…せめて月読の力が有れば。」

 その力を試す事こそが祖母に対する試練だと言いたいのだろう。

「この者の魂を黄泉に送れば宜しいのですね?」

「簡単に言うがな…小娘、命の保障は出来ぬぞ?取って食われる事も考えねばならぬ。食われて荒魂にでもなってみろ、それこそ取り返しがつかぬ。現にこの者は人を食って命を永らえてきた。そればかりか食われた者は魂が荒魂となりこの世に留まることとなる。」

 荒魂なら礼一の斬鬼丸で斬れるのだがなぁ…と思兼神はそれをしれっと語るのである。


「判りました…」

 祖母の記憶は思兼神に返事をした時点で途切れたのだという。


「どうなったの?」

 僕は祖母が月読になれるかどうかのテストを聞きたかったのではない。月読というものが何なのかが重要なのだ。理解が出来たのは四神の持つ刀が悪霊を斬る事が出来る代物であるという事。それを持つ四神が自分の身を護る理由…。

「そうねぇ…あの日の事はどうやっても思い出せないのよ。無理に思い出そうにも駄目なものは駄目。だから話す事は出来ないわ。それでも伝えないと駄目ね…残された時間は少ないもの。」


「それって!」

「貴女の子供を見るまで死にません。」

 布団の中で祖母はきっぱりと言った。でも、それは何時になるか…

「私が受けた試験はね、どうやら合格をしたらしいのよ。気が付いたら神社の社殿に寝かされていて、四神少尉と氷室さんが私を覗き込んでいたもの…。」


「良かった、目を覚ましたのね。」

 思兼神の時の様な強い口調ではなく、四神少尉の姉のような氷室が目を覚ました祖母をゆっくりと抱き起したのだと言う。

「まさかとは思ったが、ここまでとはな…これで君が”月読”を名乗るべき存在になった。否、なってしまったと言うべきかな。」

「それって…大変な事なんですか?」

 祖母の質問に対し、四神少尉と氷室は顔を見合わせつつ返答に戸惑っていた。祖母自身には何ら変化はない。ただ、試験の時に人非ざる者と対峙させられ気を失っただけである。目を覚ましたからとて己の体に変調が見られる訳でもなく、許されるのならこのまま家路に就きたかった。


「この事は他言しないで貰いたい…とは言えど、話した所で相手をされないか、憑き物筋に遭ったと家から追い出されかねない。

 君は今日から“月読”として生きていかないといけないんだよ。さっきの岩窟牢にいたような彷徨う魂を解放するのが君の仕事さ。とは言え、すべての魂の救済はできない。荒魂となり人に害成す者だっている。それを斬り倒すのが僕の…“素戔嗚”の仕事だ。」

「そして私は二人の仕事の裏方、状況の把握や戦略を練るのが“思兼神”の仕事よ。」

 それと…と説明を進めながら氷室は袖口から何かをゴソゴソと探り始めた。


「貴女にはこれを身に着けていて欲しいの。」

 氷室が祖母に手渡したのは深い緑色をした翡翠だったのである。小振りな勾玉だった。小さな穴が開いており、そこに紐を通せば首飾りとして活用できる。

「絶対、肌身離さずこれを持っていて。持つ事で貴女は荒魂から身を護る事が出来るの。でもそれ以上に強力な荒魂には礼一さんが切り倒すわ。

 貴女をこの世界に引き入れたのは私達。私達には貴女が持つ力が必要なのよ。魔を倒せる人間が少なくなった今だからこそ…貴女に協力して欲しいの。」

 そう言って氷室は手にした勾玉を祖母に握らせ、その手を優しく包んだ。


「でも私…断る事なんて出来ないんですよね?」

 祖母は恐る恐る尋ねてみたのだが、二人の気配は有無を言わせない。四神少尉は直ぐに抜刀できるよう自然体ながら身構えている。

「…解りました。そのお役目ですがお引き受けいたします。」

 その瞬間に社殿に広がっていた緊張が一気に解かれた。


「で、私と四神少尉の活躍が続き今に至る、という訳なのよ。」

「嘘くさいなぁ…本当にそんな化け物みたいなが居るの?」

 僕は祖母の話が嘘だと思わないが、非現実的すぎて素直に受け入れられないでいる。

「本当よ。人は脆く儚い生き物なのよ?道を踏み外せばその魂は汚れていくわ。だからそれを救うのが私達の役目なの。」

 香、と祖母は布団から腕をすっと抜き出した。手に何かを持っているのが判る。僕は祖母からそれを受け取った。さっき祖母が話していた勾玉である。


「貴女にあげるわ。月読として、私の後継者として、それを受け継いで欲しいの。それは貴方を護ってくれる物よ。どんな時も肌身離さず持っていて頂戴。お風呂の時も放しちゃ駄目よ。」

「うん、判った。」

 窓辺に布団を敷いていた僕は、そっと障子を開けて祖母から手渡された翡翠を翳してみた。勾玉は月明かりに照らされて、深くも物悲しい碧色をしている。なのに優しい光を携えていた。

 祖母は安心したのだろうか、「おやすみ」と小声で言うとすぅすぅと寝息を立て始める。

 僕は…不安だった。この先どんな敵が現れるのだろうか、僕が祖母の言う”月読”と言う職務を全うできるのか。大丈夫だよね、と呟くと勾玉をぎゅっと握り胸に押し当てて眠りに就いたのである。

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