影追いの月
※5月3日、修正を入れました。
※6月2日、少し修正しました。後日、再度推敲予定。
もはやこれまでか、と彼は笑った。
「見ろ、柘榴。まばゆい程の灯火だぞ」
「やあ、本当ですね。森が赤く染まっている。これだけの数を揃えるとは、やはり風津の大公殿はやり手でいらっしゃいますね」
何十もの松明の灯りを眺めても、彼らの口調に焦りは見えない。あの数から察するに、彼らを追う者達はゆうに百を超える。それを承知の上で、彼らは軽口を叩いていた。
さて、と青年は笑みを浮かべて尋ねる。
「いよいよ追い詰められましたが、いかがなさいますか。七夜の旦那」
二人が今居る場所は、起伏激しい高山の中腹。
七夜と呼ばれた男は、眼下に広がる山裾の森に視線を留めて、そうさなあ、と呟いた。
「捕まって、この首さらされるのは困るしな。……この向こうの崖は、底なしだったか」
「ええ。確か、七日七晩かけて降りてみても、ちいとも底が見えなかったと聞いてますよ」
行きますか、と尋ねるのは、七夜についてきた青年、柘榴だ。
七夜はまだ年若い青年である柘榴を眺め、何度めかになる言葉を発した。
「なあ、柘榴。おまえは山を降りろ。俺を見限ったとでも言えば、命まではとられんだろ」
「ご冗談を。私は従者ですよ? お供しますよ」
「いや、駄目だ。おまえが俺に恩義を感じてるのはわかってるが、流石にこれ以上はいらんぞ。俺にとっては、おまえは弟子というか身内だからな」
厳しい顔つきで首を横に振る七夜に、柘榴は一度口を閉じると静かに言葉を紡いだ。
「……道端で死にかけてたガキを、旦那はなんの見返りもなく拾ってくれました。腕を鍛えてくれて、家族だと言ってくれました。私にとっては、命をかけても返せない恩なんですよ」
死出の旅路でさえもと笑う青年に、呆れ交じりの溜め息を付いて、七夜は立ち上がった。
「……おまえが言いだしたらてこでも動かんのは知ってるからなあ。……もう言わん、勝手にしろ」
「はい、勝手にさせてもらいます」
満足げに頷く柘榴を一瞥した七夜は、どこか優しい苦笑を浮かべ、あちこち欠けた身体で歩きだした。
血と脂に塗れ刃零れしている刀を杖として、もはやぴくりとも動かせぬ片足を、引き摺る様にして歩く。 傍らに立つ柘榴は、痛みを堪えるかのように眉をひそめていたが、主の心情をはばかって手を貸す素振りも見せずにいた。
炎が夜を赤く染め上げる。
歴史の上では、些細な出来事だ。皇帝の覚えめでたき剣豪が、前々から諍いのあった大臣の謀略にはまり、反逆者へと追い落とされたというだけのこと。
庶民には、男の罪状云々よりも多額の懸賞金の方が身近でわかりやすく、魅力的だった。男は身の潔白を晴らすべく駆け巡ったが、金に目が眩んだ旧友の裏切りに遭い、追われた末にこの山を己が墓標と定めた。
ただそれだけのことだ。 谷から吹き上げる風は悲鳴じみた音をたてて荒れ狂い、通りかかる全ての者を、月明かりの届かぬ深遠へと誘い込まんとしていた。
「やあ、聞きしに勝る大渓谷ですねえ、旦那。これなら、いくら風津の大公殿が執念を燃やしても、首を取ってこさせるのは無理ってもんでしょうね」
「あいつもなあ。なんだってああも俺を過大評価するんだか。禁軍三つ出すなんて、普通の奴ならとうにくたばってるぞ」
「とうにくたばってる筈なのに生きてらっしゃるんですし、むしろ的確だったんじゃ無いですかね」
「成程。あいつ、実は俺が好きなんだな。理解が深い」
「あー、愛し過ぎてって奴ですね。そうやって茶化すからとことん嫌われたんですよ」
「度量の狭い男だな。だから女に逃げられるんだ」
「それを正面から言っちゃったのも不味かったですよね。しかも、その逃げた先が旦那の弟君のところでしたし」
「あいつと違っていい奴だからな、当然の結果だ。しかし、なんだ。俺は八つ当たりで追われたのか?」
「さて、八つ当たりなのか逆恨みなのか単に目障りだったのかは知りませんがね。――そろそろ、近いですよ」
軽口をやめて耳を傾ければ、すぐそこまで追っ手が迫っていることを近付く喧騒が教えてくれる。
風にざんばらの髪を煽られながら、七夜は口の端をあげて小さく笑う。
「いままで、すまんかったな」
面倒事ばかりで師匠らしくなかったと、七夜は詫びた。
「いえいえ、楽しかったですよ」
命の恩人に少しでも何かを返せたんなら、私の人生も捨てたもんじゃなかったですね、と柘榴。
いつも通りの調子で笑って、それからさらりと身を投げた。
捕まるわけにはいかない。捕まって、謀反人として晒されるのは、彼の一族に多大な影響を及ぼす。
一族は彼を悼み、長として命じた我慢を振り払い、決起するだろう。
だが駄目だ。今反乱の糸口を与えるわけにはいかないのだ。
せめて、後十数年。幼い甥が成人し、一族を統べる長として立つまでは。
鬼神と呼ばれた男は、一族の為に、家族の為に、戦って死ぬことを放棄して、深い深い谷底へと身を投げた。
そして、大きくて小さな政変は呆気なく幕を閉じ、並ぶ者無しと恐れられた剣豪は、歴史の闇に葬られたのだった。「ふーむ」
腕を組み、闇の底で七夜は唸った。辺りはがらんどうの気配で風の揺らぎすら感じない。これが死の国かと拍子抜けする思いで七夜は不満を口にした。
「話しに聞く、赤ら顔のでかぶつとやらはいないのか、つまらん」
「なに物騒なことを呟いているんですか」
ふいに空気が揺らめき、何処からか声が響く。
呆れた口調でかけられたその声に、七夜は顰めっ面を止めて相好を崩した。
「おお、柘榴か。姿が見えんが居るのか」
「はい、ここに。どうも形がとりづらくて……これが魂魄とやらなのですかね」
言葉と共にうっすらと闇に浮かび上がった影は、端正な顔立ちであった生前の面影を留めてはいるが、実体と変わり無い七夜と違い、幽鬼(幽霊)に近い有様だった。
「ほう、透けてるぞ。面白いな。どれ、魂だというなら、俺もそうなのか?」
試しにと身体を捻った七夜は、足が二つとも動くことに気付いた。欠けていた指などももとに戻り、痛みも無い。やはり死んだのだと確信に至ったが、展開が開けたわけではない。
二人はあてもなく歩きながら、さてこれからどうしたらいいのかと、頭を悩ませた。
行けども行けども果てしない闇が続く。ここが死の国ならば、迎えの一つもあればよいものを、人の気配どころか怪しげな影すらとんと見掛けず、二人の幽鬼は暇を持て余していた。
「なあ、柘榴」
「なんですか、旦那」
「飽きた」
「……そうですね。ですが、何も無いようですし……。――おや」
揺らめく柘榴の影は、何かを感じたのか視線をある一点に定める。
「旦那。そこ、突いてみて下さいよ」
「ここか? ……おお」
柘榴の指し示す場所を七夜が触れると、ぐにょりと闇が歪み、景色が変わった。闇以外何もなかった場所から、夜の闇に包まれた森へと変化した。
「なんだ? 何が起こったのだ」
「ふぅむ。どうやら、現世に出たみたいですねえ。戻った方が良いですかね」
「流石に、魂魄のまま現世に留まるわけにはいかんだろ。――む?」
今度は七夜が何かを感じて眉をひそめた。
「なにやら妙な気配がする。いくぞ、柘榴」
「はいはい、お供いたします」
限界まで欠けた月が照らす薄明かりの森を、音も無く二体の幽鬼は駆けた。
影は影を呼ぶのか。着いた先で目にしたのは、人ならざる者。
「妖の類か」
若い女に取りついて、その生気を啜るそれに、七夜は躊躇うことなく近付いてゆく。
女の生気に夢中になっていたそれが、七夜の接近に気付いて牙を剥く。七夜は足を止めると、気を発した。
「はっ!」
七夜の発した気にあたり、妖は魂切るような悲鳴をあげて何処かへと消え失せた。形の小さな妖であったゆえ、七夜の強い気迫に吹き飛ばされたのであろう。「ふん。やはり小妖程度では暇潰しにもならん」
「旦那、それよりも、あれ」
柘榴が示したのは、地面に横たわる女、その傍らでしくしくと泣き伏す女の魂魄だった。横たわる女そっくりの魂魄。見れば倒れた女の顔は月明かりの下というだけでなく青白く、命の灯火が消えかけていることが一目瞭然であった。
「遅かったか」
苦い口調で七夜は呟いた。女の身体はまだ若く、体力がある為か死に至ってはいない。しかし、もはやその魂はぼんやりと薄れていて、生気の欠片も無い。
身体から魂が離れ、消えかけつつある。
「――死ねないのです」
ほろほろと涙を流しながら、女は言う。
「わたくしには、務めねばならぬお役目があるのです。天子様より授けられたこの宝冠を、霊山へと奉じなければ、我が一族は……」「霊山……、お主、巫女か。しかし天子とはなんだ」「この地をあまねく統べる、偉大なる大三神の天子様です」
「ふうむ。柘榴、知っておるか?」
七夜の問いかけに、先程から難しい顔で唸っていた柘榴は答えた。
「恐らく、ですがね。どうもここは、私達が居た時代より随分と前のようですよ」
柘榴は女に幾つかの質問をし、それと自身の考えを加えて七夜に説明した。
「つまり、なにか。ここは俺達の居た時代より千は前の時代で、天子とやらは我らが皇帝陛下よりも前に、この大陸を支配していたと」
「ええ。聞いてみた限り、歴史と同じですからそうなりますね」
「しかし、なんでそんな昔に来てしまったんだ?」
「さて、私如きの乏しい知識じゃさっぱりですけど――やはり、あの場所が原因でしょうね」
「あの真っ暗な所か。ふうむ」
七夜はひとしきり眉をよせて考え込んだが、ややして頭を振りながら言った。「ああ、やめだやめだ。考えたところでどうにもならん。――それより、お前さんだ」
七夜はまだ泣いている女の魂魄を見た。こうしてる間にも女はどんどんと薄れていき、今にも消えてしまいそうだ。
「どうしたい。俺が出来ることなら手を貸すぞ」
女は顔を覆っていた手を外し、涙に濡れた眼差しを七夜に向けた。七夜をつくづくと眺めた女は、己の肉体と、その身に抱える物を示した。
「貴方様から強い魂の力を感じます。わたくしの身体を使い、どうか、この宝冠を霊山の社へと届けて頂けないでしょうか」
地面に指をつき、深々と頭を下げての懇願に、七夜はしっかりと頷いた。
「あいわかった。ここでこうして出会ったのも縁だろう。我が一族の誇りにかけて、その願いを叶えよう」「有難うございます……」
安堵の思いが最後の力を失わせたのか、女は月明かりに溶けるかのように消え去った。
残された女の肉体に、七夜はするりと入り込む。初めてのことだが、女の想いが宿っているのか、存外簡単に馴染んだ。
「ううむ、なんという重量感だ」
「……なにをやってるんですか」
呆れた声が随分と低い位置から聞こえ、豊かな双房を両手で持ち上げていた七夜――否、七夜の魂魄が入っている女は首を傾げた。
「柘榴か?その躰はどうした」
柘榴の声で喋ったのは、白い毛並みの大きな犬だった。
「あのままじゃあ、私も消えてしまいそうでしたからね。この犬に宿らせてもらいました」
「どこから見つけてきたんだ?」
「この犬、旦那の身体の人に飼われてたみたいですよ。そこで倒れてました。その人の頼みなら、ってすんなり宿らせてくれましたからね」
「そうか……。お前も、それでいいのか?」
「私は旦那の従者ですよ。旦那が行くと決めたんなら、お供しますよ」
言って尻尾を振る犬の姿に、七夜は微笑みを浮かべた。
「そうか。なら、これからもよろしく頼む」
「ええ、任せといて下さい」
お互い真面目くさって頭を下げて、顔を見合せて吹き出した。
「その躰、よく似合うぞ。なんというか、笑いたくなる」
「旦那もお似合いですよ。姉君よりもお美しくなられて。冥土の土産にいい話が出来ました」
「言うなよ」
「さあて」
軽口というには少しばかり殺気の籠もったやりとりを交わして、七夜はさてと立ち上がった。「これから、霊山か。どこかで剣を手に入れんとな」「その身体で、剣が振れますか?」
「さてな。無理なら、また一から鍛えれば良いだけだ」
七夜は女が大事に抱えていた包みを背に括りつけ、転がっていた杖を拾い上げた。
「無茶は止して下さいよ。いくら旦那でも、元の身体じゃないんですから」
「ああ、借り物の身体だからな、気をつける。――そうだ」
杖をついて歩き出しながら、七夜はふと呟いた。
「この身体で七夜とは呼ばれたくないな。名を変えるか」
「どんな名にするんですか?」
「そうだなあ……」
七夜は顔を上げて夜空を眺めた。鋭い程に細い月に視線を留める。
「七夜の先の月だからな。……八月とでも名乗るとするか」
「その身体の人の名は?」「聞きそびれたからな。なに、何か言われたら、旅の間の字とでも言えばよいさ」
軽く肩をすくめる七夜、いや八月に、柘榴も納得がいったのか異論は唱えない。
こうして、一人と一匹の長くて短い、珍道中は始まったのだった。
時々、むしょうに短編が書きたくなります。突発的に思い付くまま勢いで書く為説明不足で、後から読み直し、修正を行う為に下げたりするのが多いです。
でも書きたい時は止まれないんです……。
ともあれ、短編だというのに長々としたお話で、本当にすみません。読んで下さった方には心からの感謝を。