あ、怒ってたんだ
イダテン丸に振舞われたのは缶ビールだった。文句? ある訳ないじゃん。
今日の彼女は私服だった。野暮ったい格好である。眼鏡分厚いし。流石に、スーツを着た奴と一緒に酒を飲むのは嫌である。
「…………ご不満ですか」
「まさか。酒ってのはおごりで飲めりゃそれだけで美味い」
コンビニの前で、俺は缶を開けた。ああ、この音だ。良い。
「いただきます」一気に飲む。
「では、私も」
イダテン丸も、案外良い飲みっぷりだった。
「相性が悪いんじゃなかったのか?」
「…………軒猿を抜けてからは断っておりました。酔い潰れて、そこを追っ手に襲われるのが恐ろしかったのです」
「じゃ、今は大丈夫なんだな」
「そう、ですね」
イダテン丸は周囲に目を遣った後、缶ビールを飲み干す。俺も続いた。
「ごちそうさん。……頼みたい事があるんだけど」
空き缶をゴミ箱に入れて、俺は頭をかく。今更だが、おごってもらった上で物を頼むのはどうなんだ。いや、頼むけどね。
「百鬼草助って奴を調べて欲しいんだ。そうだな、出来れば、そいつの住所、とか」
「…………理由を聞いてもよろしいですか」
どこまで話して良いものか。杖持ちについて、イダテン丸だってある程度は知っているだろうが。
「……杖を持った女の子、知ってるか?」
イダテン丸は首肯する。
「無差別な破壊、襲撃を繰り返す者ですね。聞き及んでおります」
「そいつらと関係があるかもしんないんだ」あるかも、じゃなくて、ある。俺はそう睨んでいる。
「…………カラーズの仕事ですか?」
「いや、違うけど」
俺がそう言うと、イダテン丸は黙り込んでしまった。
「あ、断ってくれて良いぞ。その、申し訳ないが、大したお礼も出来ないと思う。いや、間違いなく出来ない」
「いえ、百鬼草助の調査、引き受けます。ただ、青井殿は本当にヒーローなのだと、そう思って」
「俺が?」 俺がヒーロー? 馬鹿な。どの口で言うんだ。
「よせよ。俺なんかがヒーローだと、その辺の悪党だってヒーローになっちまうぜ」
「…………私を救ってくださったのは、あなたです。だから、少なく、とも、私にとって、青井殿はヒーローなんです」
う。ううっ。何か、照れ臭い? いや、気持ち悪いっつーか、こう、ぞわっとした。俺は別に、イダテン丸が想像してるような理由で動いてる訳じゃない。ただ、杖持ちが邪魔なだけなんだ。そんでもってムカつくだけだ。それだけだ。それだけなんだぞ。
翌朝、俺はいつもよりも遅い時間に目が覚めた。レンが起こさなかったからである。ついでに言うと、彼がご飯を作ってくれなかったからである。
目覚めた時、レンは不貞寝を決め込んでいた。実に分かりやすい。ガキは単純だから、一晩経てば機嫌だってそっくり回復してるだろうと思ったのに。難しいものだ。そして困った。
「朝だぞ」
「そうだね」一応、返事はやってくる。交渉の余地はあった。レンとの溝が断絶している訳ではないのだ。めちゃくちゃ広がってる感じはするけど。
何か作ろう。ジャムが残ってたし、めんどいから食パンを焼くだけで良いや。
「腹減らないか?」
「……減ってない」あ、今、嘘吐いたな。そこを突いたら暴れそうだから何も言わないけど。
イダテン丸は、上手くやっているだろうか。いや、俺が心配するような事でもないか。俺に心配されるような彼女ではない。
トースターに食パンを突っ込んでいるとケータイが鳴った。けっ、警戒! 社長からの『仕事しろ』メールかもしれん。無視しよう。何か、そういう気分じゃない。でも後で怒られるのは嫌だから、確認だけしてみる。と、イダテン丸からのメールで安心した。何々、用件は……『百鬼草助の住所を掴んだので、今からそちらに向かっても良いですか』、か。
早いな。すげえ早い。すげえ良い仕事。もしかして、昨夜、俺と別れてから調べたんだろうか。そこまで急がなくても大丈夫なのに。何だか、昨日からめちゃくちゃ申し訳ないな。
「何笑ってるの?」
「へ? や、笑ってたか?」
レンが布団から顔を覗かせている。
「つーか、別に笑っても良いだろ。悔しかったら感情抑制薬でも持ってこいってんだ」
「そんなの、あるの」
知らんわ。
「だって僕が怒ってるのに、楽しそうにしてるから」
「あ、怒ってたんだ。怒ったら腹減るだろ。ほら、ジャム塗ってやるから食べろよ」
「たっ、食べない。食べないもん」
レンは頭から布団を被った。強情な奴である。まあ、後で食うだろ。焼いとくだけ焼いといてやるか。
ぼけっとしながらパンを頬張っているとチャイムが鳴った。口の中のもんを飲み込んでから扉を開けると、イダテン丸が立っていた。昨夜と殆ど変わらない格好である。
「…………お待たせいたしました」
「いや、早過ぎるくらいだよ。つーか、もう分かったのか?」
「電話帳に載っていたものですから」
え、えー、そんな簡単に見つかっちゃうもんなの? それで良いの?
「住所は押さえてあります。これを」
イダテン丸は折り畳んだメモ帳を差し出す。そいつを受け取り、広げると、確かに住所が書かれていた。しかも、そんなに遠くない。記憶違いでなければ、あの商店街の近くだ。百鬼草助は、そこに住んでいるらしい。
「…………ご満足いただけましたか」
「期待以上だ。あー、そんで、お礼なんだが」どうしよう。どうしたら喜ぶかな、こいつ。
「と、とりあえず朝飯でもどうだ? パンだけど」質素だけど。
「よろしいのですか?」
勿論だ。
「上がってくれ。すぐに準備すっから」
「…………それでは、お言葉に甘えて」
俺はイダテン丸を部屋に上げて、食器棚から使ってないコップを出す。そこに牛乳を注ぎ、焼き上がった食パンにジャムを塗る。
「そこまでしてくださらなくとも……」
「いやいや、これぐらいは」
「おや、レン殿はまだお休みでしたか」
見ると、レンは完全に布団に包まっていた。もはやそこに誰がいるのかどうかすら怪しい。もしかしたら、中から猫が出てくるかもしれない。
「拗ねてんだよ。寝た振りしてる」
「…………珍しいですね。お二人はいつも仲が良いですから」
どこが! だけど、すぐには言い返せなかった。俺からすりゃあ、ライオンやグリズリーみたいな猛獣に殺される一歩手前までじゃれつかれている感じなんだが、傍目からだと兄弟喧嘩とかに見えるんだろうか。
イダテン丸が帰った後もレンは布団から顔を出さなかった。挨拶くらいはしろ。親の顔が見てみたい。
心配だったが、どうせ声を掛けたって何を言ったって無駄なのだ。俺はレンを置いて(戸締りはしたしガスの元栓は締めたしお金だって置いてきたし大丈夫だろう)、イダテン丸から受け取った百鬼草助の住所へと向かっていた。つっても、商店街の近くにある家、らしい。表札があるかどうか、そもそも、そこに本人が住んでいるのかどうかは行ってみなくちゃ分からないところだが。
小一時間ほど歩き、商店街でコロッケを買い、食いながらうろうろしていると、住宅街に差し掛かった。ベビーカーを押した若い女性。そこらの家からはガキどもの声が聞こえてくる。やかましいが、穏やかだ。本当に、こんなところにいるのか?
だが、立ち止まっていると怪しまれる。不審者として通報されないよう、注意深く、時には大胆に歩くと、目的地に近づいてきた。そこの角を曲がると、百鬼草助の家に辿り着く。……杖持ちがいないだろうな。良く考えりゃ、門番がいないとも限らん。それに、家の中からこっちの様子を窺っている可能性だってあるぞ。のこのこと近づいてきたところをずどんといかれるかもしんない。やっぱり帰ろうか。いや、でも角を曲がればすぐに分かる事なんだ。ここで逃げてちゃ意味はない! けど死にたくねえ。
「あら。誰かと思えば」ん?
エコバッグを下げた、黒髪の主婦が俺を見ていた。
「不審者かと思えば、ヒーロー君じゃない」
「あ、あれ、百鬼さん?」
百鬼牡丹。何故、彼女がここにいる。
「そこの家に用があるのかしら?」
百鬼さんは薄く微笑んだ。彼女が指す家は、角を曲がってすぐの……百鬼草助の家だった。庭付きの一戸建て。庭は、花でいっぱいだった。色とりどりのそれが訪問者を出迎えようとしている。何だろう。理想的、とでも言うのか?
俺はもう一度、メモに目を通す。間違いなさそうだった。と言うか、表札には『百鬼』と出ている。間違えようがなかった。
「ふうん、ここまで来たって事は、色々と調べがついているという事なのかしら」
百鬼さんは顎に指を添え、ほうっと息を吐く。
「……百鬼草助は、ここにいるんですか。そいつは、一体何を……」
「いないわよ。もう、ここにはね」
涼しげな顔が一瞬だけ、歪んだ。
「ここに住んでいるのは、私だけだから」
ああ、そうか。いや、やっぱり、か。
何故、彼女がここにいるのか。そんなの、分かってた。百鬼牡丹と、百鬼草助は、
「それで、夫に何か用かしら? ああ、元、だけどね」
夫婦だったのである。
何だか良く分からないまま、家に上げられ、リビングに通されてしまった。とんとん拍子。だが、正直、中に入った瞬間にぶん殴られたり、あの杖持ちが出てくるんじゃないかって想像してた。けど、どうやら無事に、何事もなく済みそうだ。
……何か、緊張する。そわそわする。殆ど初対面に近い相手の家にいるんだ。しかも相手は人妻である。……何だか背徳的。あ、いかん。馬鹿か俺は。
気持ちを落ち着かせる為、俺はリビングを見回す。家具や調度品を見るに、やっぱ、百鬼草助はここに住んでいたんだろうな。所々に男っぽい影がある。そもそも、一戸建てだし。一人で住むには広過ぎるような気もする。
テーブルに、椅子が三つ、か。ここには、痕跡があり過ぎる。そう、二人じゃない。多分、この家にはもう一人……。
「粗茶よ」
「は、はあ、どうも」カップとソーサーが目の前に置かれた。粗茶と断言されたものに口をつける。何か、鼻がすーっとしてきた。ハーブティー、とか、そういうオシャレなものなのだろうか。
百鬼さんは俺の対面の椅子を引く。きっと、そこが彼女の定位置なのだろう。
「それで、何が聞きたいのかしら」
「……話してくれるんですか?」
「ここまで来たんだもの。それに、見つかっちゃったし。引き下がるつもり、ある?」
あんまりない。そもそも、声を掛けたのはそっちが先なのだ。
「最初に聞いときたいんですけど。百鬼さんは、あの杖持ちの敵、なんですよね」
「そうよ。あなたの味方とは限らないけどね」俺の意図を理解したのか、百鬼さんは小さく笑う。
「安心して。あなたを酷い目に遭わそうなんて考えていないから」
じゃあ、もう少し突っ込んだ事を聞くか。
「何故、あの杖持ちを追うんですか?」
「許せないから」
「あいつらが何か……」
「別に。アレはね、単に使われてるだけだから」
使われている?
「私が追っているのは、ヒーロー君の言う『杖持ち』じゃないの。百鬼草助。私が追っているのは、奴よ」
奴、か。元とは言え、伴侶を奴呼ばわり。一体、百鬼草助は何をしたってんだ。
「……ねえ、商店街で会った時、車椅子に乗った子がいたわね」
「ああ、ありゃ、ウチの社長ですよ」
「そうなの? ふうん、あんなに若いのに。若いって良いわよね。そう思わない? 思わないか。君も若いし」
何の話だ。
「そう。その社長さん、あの子を見てたら、ちょっと考えてしまったの」
「何を、ですか」
「生きてたら、あの子くらいの歳なんだなーって。……娘がね、百合って言うんだけど。娘がいたの」
百鬼さんは目を細める。ああ、何かを思い出してるんだと分かった。
「百鬼百合。二年前に殺された、私の娘よ」
彼女の声にぞくりとした。鳥肌があわ立つ。落ち着かなくて、俺は指をカップに這わせる。とっくに、その中身は冷め切っていた。