目に見えねえもんだってこの世にゃあるんだよ!
めんこを使え。グローブを使え。頭を使え。持っているもの全部を使え。そうでないと、
「う~ふ~ふ~、糸は~、一本じゃないんだよ~?」
こいつには届かねえ。
目の前の一本をぶっちぎったのはいいが、それだけだ。アラクニートの糸はまだ残っている。見えている場所に、見えない場所にも、恐らく。
触れれば切れる。裂ける。きっと血が出て痛いに決まってる。だけどビビるな。これで最後だって思えば力だって湧いてくる。勇気だって、いくらでも。
アラクニートはまだ寝転んでいる。俺は残っていためんこを投げつけた。やつは糸を使い、めんこを中空で爆発させる。そりゃそうだ。当たるとは思っていない。
ただ、煙が出た。立ち込める灰色の煙の中で、糸が光って見えている。見えた。見えたぞこの野郎。
「寝てろやクソアマがァ!」
糸の結界をすり抜けて突っ込む。だが、アラクニートは体を起こしてにやりと笑った。俺の拳は、先までそこになかった糸に阻まれる。押し返されるような感覚を受けて一度下がる。
「うおあっ!?」
背中に鋭い痛み。嘘だろ。今度は、そっちにも糸を仕掛けたってのか。
「逃げ場はないよ~。ここはシュピネンゲヴェ~ヴェ。蜘蛛の巣だって言ったじゃない」
糸だって自在に場所を張り替えられるってか! だけど!
「おおぉらぁ!」
床をぶん殴る。破片が舞い上がる。俺はその中のいくつかを掴み、アラクニートに向けて投げつけた。破片はその途中で糸に阻まれる。しかし、糸の位置はだいたい読めた。
「手を変え品を変えてさあ~!」
一歩。二歩。踏み込んでアラクニートに迫る。やつも流石にヤバいと思ったのか、立ち上がって後ろへ退く。
どうする。行くか。戻るか。……行くしかねえか!
俺は半身になって、どこかに仕掛けられているはずの、糸に当たる面積を少しでも小さくする。それでも糸が肩に掠めて肉を抉った。苦痛は叫びで誤魔化して、更に前へ。
「しつこいよっ!」
逃がすか逃がすか逃がすか! アラクニートのすぐ前、線が光っている。俺はそいつを掴み、地面を蹴った。
反動を使ってアラクニートの顔面を蹴り上げる。やつの動きは、まだ止まらねえ。
糸から手を放して拳を振り上げる。アラクニートは横へ転がり、俺のパンチは床を砕くにとどまった。
相手は死に体だ。ここでぶちのめす!
「……私に触るからさ~」
「お、何ィ!?」
体が、俺の体が動かねえ! 何かに絡め取られたかのように、ぎちぎちと締められている。
「あんまり動かない方がいいよ~。細切れになりたくなかったらさ~」
俺は自分の体に、糸が巻きついているのだと気づいた。
「てめえ、いつの間に……!」
「んん~? さっき蹴られた時だよ~?」
あんな、一瞬の間にかよ!?
「さ~てどうするかな? 大人しくスーツの在処を吐く? そ~れ~と~も~、私の部下にならないかな~?」
「ああ? ふざけんじゃねえぞ」
「ふざけてないよ~。だって私の部下はみぃんな使い物にならなくなったし~。その点、君の方がまだ使えそうだからさ~。どうかなどうかな、私と一緒に楽しくのんびりやらない? 君だってさ、ヒ~ロ~よりも悪の組織のが向いてるんじゃないかな~?」
うるせえよ。そんなもん俺だって分かってんだよ。
「素質の話じゃねえ。俺はヒーローでいたいんだ。てめえの仲間なんかに誰がなるか!」
「ふ。うふふふふふ。ヒ~ロ~なんて別にいいじゃない。正義なんて不確かで目に見えないものの何が大事なのかな?」
アラクニートは立ち上がり、自分の前に仕掛けてある糸にもたれかかった。
「やっぱり世の中、目に見えるものが大事でしょう? 自分の手で触れられるものが全てなんだよ~。だから私は蜘蛛になったの。脚も目も、いっぱいあるから。だから私は絶対見逃さないんだから」
「そんな簡単なもんばっかじゃねえんだよ!」
「簡単だよ! 私以外の人間はっ、簡単に動くよ!」
ガタガタと、ガキみてえなことを!
「……君、何を考えてるの……?」
「お、おおおおお、おおおおおおあああがああああああ……!」
邪魔だ。こんな糸、無理矢理ちぎりゃあいいんだろうが。
俺は全身に力を込めて、糸の切断を試みる。ぶつりぶつりと音がする。剥き出しの肌に冷えた糸が食い込み、皮を割いて肉を破り始めた。
痛みがどうした。
苦しいのがどうした。
「お、ぐ、うううううううあああああああああああああ!」
「うふっ、ふふふ! 本気!? 自殺だよ! それは!」
体の至る所から血が噴き上がる。構うかよ。右手だ。せめて、そこさえ残れば目の前のいけ好かねえのを殴れるんだ。じっとしてりゃあ死ぬんだろうが。手ぐすね引いて待ち構えてんだろうが。だったら自分からやらねえとどうにもならねえんだろうが!
「無駄無駄っ、無駄だって!」
「てめえは! 分かっちゃいねえんだよ!」
「分かってるさ! 私の方が賢いんだから!」
「目に見えねえもんだってこの世にゃあるんだよ! 肌で感じて! 心で信じる! 正義とか、親子の絆とか! てめえにゃ分からねえかよ!」
「分からないよ~、そんなの。ああ、おかしい。涙が出ちゃう」
「おお、そうかっ! 青い正義と笑いたきゃ笑え!」
「う、ふふふふふ! うふふふふふっ、やっぱり! 私は君を殺さなくちゃ! 殺さないと寝られない!」
ああ、ちくしょうボケが糸が切れねえ。アラクニートが指で何かを弾こうとする。俺はいよいよ自分の体が刻まれるのを覚悟した。
「笑うか――――」
だが、ぴたりと、アラクニートが動きを止めた。その視線の先には、怪我を押して立っているリュウさんが。
「……何~オジサン?」
リュウさんは深く、長く息を吸い、吐き出して、構えた。
「笑うな、外道」
「んん~?」
「彼の正義を笑うなと言ったんだ! 外道ッッ!」
びりびりとした、『気』のようなものが伝わって、俺は思わず目を瞑る。
リュウさんは足を引きずるようにして歩き、檻から出て、アラクニートを睨んだ。
「ふ。うふふふふ。一人出てきたところでどうにもならないよ~? 私はさ~、ここにいる君たち全員を、同時に細切れに出来ちゃうんだよ~?」
「青井君」
リュウさんはアラクニートを無視して、俺を見た。
「私は君の正義を確かに見たぞ。無鉄砲で向こう見ずだが、まっすぐな、それを!」
「うふあはははっ、どうするのさっ、死にかけで!」
「はあッッ! 勝機!」
どん、と、リュウさんが足で床を踏みつける。びりびりとした風圧と震動が、周囲一帯を駆け抜けた。アラクニートは声を上げて笑う。それだけか、と。
違うな。
違う。
それだけじゃねえんだ。
「主義でね。悪いが青井君、後は任せるよ」
「了解です」
俺は自分に巻きついていた糸を千切って、解いて、捨てた。
「……は? う、え? なんで、動ける、の……?」
俺は首の骨を鳴らして足を踏み出す。アラクニートは糸を使おうとしていたが、無駄だった。なぜなら、こいつが仕掛けていた糸は、リュウさんがさっき吹き飛ばしたからだ。
「どうしてっ!? なんで!? 私のっ、私の糸が!?」
リュウさんの『気』、というか振動は建物中に伝わった。糸は壁や天井、床に仕掛けられていたんだろうが、彼の放った衝撃が、蜘蛛の巣の糸を全て外したんだ。
アラクニートがもう一度糸を仕掛けるのには時間がかかる。終わりだ。
俺は、背を向けて逃げ出そうとするアラクニートの肩を掴んでこっちに向かせる。同時に、腹に一発をぶち込んだ。やつは口から何かを吐き出す。
「さっきは寝かしてやるとか言ったけどよ」
「がっ、う、あ……」
俺はある程度手加減して、アラクニートの腹を叩いた。やつはくの字に折れ曲がり、息をするのも辛いといった有様で蹲る。
「気ぃ変わった。楽にさせんのもアレだからよ」
「……あ、ああ……っ、う。ね、寝かせて、寝かせてよう」
アラクニートは俺の足首を掴んだ。もう、こいつには力が残っていないらしい。
「う、うううう……」
そんなに安心して眠りたいなら、田舎にでも引っ込めばよかったんだ。自分以外にはほとんど誰もいなくて、何もない世界に行けばよかったんだ。
俺はアラクニートのマスクを蹴り飛ばす。こいつの目の下には、深く、大きな隈があった。同情はしない。
「……終わった、みたいだね」
俺は小さく頷く。アラクニートは寝息を立てていた。
「ああ、この子も眠っているみたいだね」
「この子も?」
アイリスの姿を確認すると、壁にもたれかかって、ぐったりとしているのが分かった。
「青井君が出血したところで気を失ったみたいだ」
「ああ、はは、そうすか」
肝っ玉が小さいのか大きいのか、よく分からねえやつだ。
「私も、まだ死ねないらしい」
「マジで大丈夫なんすか」
「分厚い脂肪が盾になってくれたかな」
リュウさんも怪我をして血を流しているが、本当に平気そうにして立っている。タフな人だ。
「ありがとう。私だけでは、アラクニートに勝てなかった」
「主義っすか?」
リュウさんは女子供を殴らないという主義を持っている。
「いや、そんなことないっすよ。ヒーローとしてアラクニートを殴れなかったかもしれないっすけど。でも、俺がいなくても、アイリスの父親として、リュウさんはきっとアラクニートをぶっ飛ばしてた。俺はそう思います」
「そう、かな」
きっとそうだ。そうに違いない。
「それより、やっぱ、アイリスには言わないんですか?」
「ん? ああ、そのつもりだよ。……あの子の目を見た時ね、とてもではないが、言えないと、そう思わされたんだ」
「そう、ですか」
血を分けた家族なんだ。何も告げずにさよならするのは、あまりにも寂しいと思う。だけど、俺は他人でしかない。決めるのはリュウさんだ。俺は彼の意志を……ヒーローとしての信念を尊重したい。今は。
「上に戻りましょうか」
「ああ、そうしよう」
リュウさんはアイリスを背負い、俺は、仕方なくアラクニートを担いで地下から脱出した。
それから。
それから、『管理局』は街から撤退した。一定の効率を上げたとのことで、試験は終了だと。それ以外には何も言わずに『去っていった』。俺と、一部の人間だけが真実を知っていた。少なくとも、俺は管理局が偽物だったと誰にも言うつもりはない。ほとんどのやつは真実なんてものどうだっていいだろうし、誰も知らなくていいのだとも思う。
あの日、蜘蛛の巣退治に動いたヒーローや、管理局っつーか、大使館に押し入ったやつらにもお咎めはなかった。結局、大使館の連中もアラクニートに弱みを握られて、蜘蛛の巣を匿って、そこそこ美味い汁を吸っていたらしい。後で知ったことだが、職員の多くがすっかり入れ替わったそうだ。さて、蜘蛛の巣に関わっていた連中はどこに消えちまったのか。あるいは、消されちまったのか。
まあ、興味はない。俺たちはいつも通りの生活に戻れたのだから。だから、それで充分だ。
さて、俺以外のやつがどうなってるのかと言うと。
実はそんなに変わらない。レンは百鬼さんに家事を習っていて、いなせはまだハリマ一家や爺さんのところで世話になっている。が、週に一度くらいは帰ってくるようになった。……まあ、その、ちょっとだけ嬉しかったりする。
カラーズで言うと、百鬼さんはレンと社長に色々と教えているので、生き甲斐が出来たなんて大袈裟なことを言っていた。黒武者は相変わらずよく食うし、イダテン丸は相変わらずよく分からない。ただ、こないだ、ニヤケ顔をしたあいつに変な本を薦められた。怪しい。
赤丸は今回の騒動で思うところがあったのか、以前よりも大人しくなった。しかも婚活なんてもんに興味を持ち、知り合いを増やそうと努力しているらしい。合コン合コンとうるさいが、まずは酒癖の悪さをどうにかした方がいいんじゃないかと思う。
ちなみに、悪の組織の人たちは今日も今日とて暗躍しているんだろう。だってエスメラルド様がうちに来て、今はこんなことをしてるんだって楽しそうに話していくんだもん。
九重と俺なんかは一番変化がなさそうだ。
「……青井。あーおーいー」
「あ? ああ、何? 聞こえてなかった」
俺は読んでいた雑誌を事務所のテーブルの上に置き、こっちを睨んでいる社長を見た。
「春だからって気が緩んでいるんじゃない?」
「悪かったって。で、何?」
「え? いや、別に。特に用はなかったんだけど」
社長も、特に変わらない。だけど、御剣のスーツがなくなったからか、丸くなったような気がする。悩みごとの種が一つ減って、俺への文句も減ったような。そんな気がする。
「……あー、なんか、退屈だなあ」
「馬鹿じゃないの。あなた、また怪我して戻ってくるんだから。当分は現場で仕事させないわよ」
俺がアラクニートとの戦いで負った傷は、まだ癒えていない。デスクワークをすることはないだろうが、現場復帰はもう少しだけ先のことになりそうだった。
「それじゃあ、ビラ配りくらいはいいだろ?」
「……まあ、それくらいなら。あ、じゃあ私もついていくから」
「もう勝手なことはしないって」
「どうだか」
社長と二人で、カラーズのビル前で九重のタクシーを待っていると、
「そういえば、あの人はどうなったの? ほら、あの探偵さん」
「ああ、リュウさんね」
ふと、そんなことを社長が言った。
「重傷だったけど、命に別条はないってさ。見舞いに行った時にも起き上がってたし、飯だって全部食ってたみたいだ」
「そ。それならよかった。……それで、あの人はヒーローに戻るのかしら?」
「リュウさんが?」
リュウさんはそんなこと言ってなかったけど。
「たぶん、戻らないって言うとは思う。自分はやっぱり探偵で、猫探ししているのが性に合ってるって言いそうだ」
「そう。残念ね。うちでスカウトしようと思ったのに」
「……マジ?」
「マジマジ」
でも、何かあればリュウさんはヒーローに戻るかもしれない。あの人にはまだ、ヒーローとしての正義が残っていた。大切にしているものを分かってて、しっかり持ってる人なんだ。
程なくして九重が来て、俺たちはタクシーに乗り込んだ。
「おはようございます。社長までついてくるのは珍しいですね」
「たまにはね。目を離すと何するか分からないやつがいるし」
うるせえな。
「今日はどちらに向かいますか?」
「そうね。任せるわ」
「分かりました」と、九重はタクシーを発進させる。
しばらくの間、タクシーは街を走っていた。俺は何の気なしに窓の外を見て、こっちに向かって手を上げている女の姿を認める。
とはいえ、うちのタクシーは客を取らない。九重もスピードを緩めず、歩道からこっちを見ている女の横を通り過ぎようとした。
「……停まってあげて」
「え?」
九重は後続車が来ていないのを確認し、路肩に車を停める。
つーか社長、どうしたってんだ。
「あのう、私はもうお客さんを乗せないんですけど……」
「アイリスよ」
「何?」
俺は後部座席から降りて、女の姿をもう一度よく確認した。キャリーケースを持っているのは、確かにアイリスだった。
アイリスはタクシーの傍までやってきて、俺たちに対して深く頭を下げた。
「ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
「……ああ、いや、俺たちは別に。なあ?」
社長は偉そうに鼻を鳴らす。
「謝って済めばヒーローなんて要らないんだから」
「おい。もういいじゃねえか。悪いのは蜘蛛の巣だったんだからよ」
全く。この二人の相性も中々アレだな。仕方ない。どうして俺が気を遣わなきゃいけないんだ。
「そういやお前、これからどうすんだ?」
アイリスは顔を上げて、困ったように笑った。
「管理官としてどこかの管理局で雇ってもらうつもりでしたが、まだ、この国には数が少なくて……」
「ああ、席はもう埋まってるのか」
「ですから、もう一度勉強し直そうと思います」
「管理官の?」
「それもそうですが、ヒーローの。正義とは、何なのかを」
まっすぐな目で射抜かれる。俺は、こいつなら大丈夫じゃねえかなって思った。
「それに、管理官として働けなくても、ヒーローを助けられる仕事はあるはずですから」
「……? ヒーローを、助ける?」
「はい。私が管理官になりたかったのは、ヒーローを少しでも助けられればって、そういう気持ちがあったからで……」
ヒーローが好きって。ああ、そういや、そんなことを言ってたんだっけか。
なんか。やっぱりなって感じだ。アイリスと社長の相性が悪いのも頷ける。この二人、どこか似てるんだな。妙にまっすぐで。歪なくらい頑固で。
「ヒーローが好きってのは、何か、誰かの影響か?」
「はい。父がヒーローをやってたんです」
アイリスは、満面の笑みで答えた。
「ヒーローを、というより、父の助けになれたらいいなって。色々あって、父とは離れ離れになってしまいましたけど。でも、ヒーローが好きって思いは変わりませんから」
何か言おうとしたけど、胸に詰まって、こみ上げてくるものがあって、俺はすぐには何も言えなかった。
「ああ。そうか、そっか。そいつはきっと、親父さんも喜ぶと思うぜ」
「そうだったら私も嬉しいです。……あ」
アイリスは笑顔を消して、じっとりとした目つきで俺を見据える。何だよ。
「どうして教えてくれなかったんですか。御剣天馬のペガサススーツのこと」
「ああー、アレね。なんつーかだな、その……」
「決まってるじゃない」
割って入った社長がアイリスを見上げた。
「あなただって怪しかったからよ。だいたい、あのスーツのことを聞いてくるなんてろくなやつじゃないんだから」
「失礼な人ですね。私はただファンなだけです。この街に来る前、ここのヒーローのことを色々と勉強していて、一番かっこいいなって思っただけです」
「……え?」
「ブルージャスティス。私はあなたが好きなんですよ」
え? えー?
「他意はありませんでしたが、何か」
「えー、なんだよ俺のファンだったのかー。握手とか、あ、サインとか要る?」
俺はアイリスに手を差し出したが、社長が俺の手を鞄で払い除けた。
「……何だよ?」
「青井。こいつに近づくのは駄目よ。すごく嫌な予感がする」
はあー?
俺が不思議に思っていると、アイリスは何かに気づいたかのように目を丸くさせて、意地悪い笑みを浮かべた。
「ああ、そうか。そうですね。私がヒーロー派遣会社を立ち上げるのもいいかもしれません。その時は青井さんをスカウトしようと思うのですが、どうでしょうか。お給料は今の会社の三倍出します」
「三倍? あ、じゃあその時はよろしく」
「青井! ちょっと! もう行くわよっ、ほら! じゃあねアイリス! もうこの街に来ないでよ!」
社長は九重を引き連れてタクシーに戻る。俺は頭に手を遣った。
「その荷物ってことは。少なくとも、やっぱりこの街を離れるってことだよな?」
「はい。でも、この国で私なりの正義を探そうと思います。この国は、私の故郷なので」
「ま、元気でな。……ああ、それと」
ギリギリまで迷っていたけど、俺は財布に入れっぱなしだった、折り畳んでて、少し汚れた、一枚のメモ用紙を取り出した。
「これやるよ。困ったことがあったら、そこに書いてあるところに連絡してみな」
「これは、青井さんのですか?」
「いや、腕のいい探偵のだ。お前に何かあったら、必ず力になってくれる。もちろん俺も、出来る範囲でなら助けてやるよ」
「あ、あのっ!」
「じゃあな!」
俺は逃げるようにして、タクシーの後部座席に飛び乗った。
リュウさんはああ言ってたけど、やっぱり、家族がいつまでも離れ離れになるのは、俺は嫌だ。だから、俺に出来るのはここまでなんだよな。
ちょっと迷って寄り道しちまったが、生きてるんだからしようがねえ。
俺は、青井正義は、自分なりの正義を持っている。
そいつを抱えたまま、自分でこうだと決めた道を進む。正しいと信じていても歩き続けることは酷く難しいだろう。それでも、頑張ろうって、改めて思った。
俺は見た。知ったんだ。長い時を経て、険しい道を進んで、擦り減ってしまった人の正義を。……その正義は枯れて、消えてしまいそうに見えるかもしれないが、どこまでもまっすぐで、綺麗だった。
お疲れ様でした。本編終了後の青井たちを書くとは思っていませんでしたが、楽しかったです。またどこかでお会いするかもしれません。その時はどうぞよろしくお願いします。