この街も! この国も! この世界の何もかも! 俺のもんだ!
ヒーローとは何か。
正義とは何か。
幼い頃の白鳥澪子は、親に尋ねた。辞書を開いた。だが、答えは得られなかった。得る必要すらないと叱責を受けた。
ただ、憧れはあった。対極に位置するモノに強い興味を持った。自分なりに考え、悩み、答えを得た。ただし、それが真実なのかどうかは分からない。今も、これからも、答えを求め続けるだろう。
「はっ、はあ、はははっ、俺が! やっぱり俺が一番つええんじゃねえか!」
倒れ伏す緑間縁を見遣り、澪子は覚悟を決めた。これ以上、自分のせいで誰かが傷つくのは嫌だった。我慢ならなかった。恐らく、ペガサススーツを着た男は九重を人質に取るだろう。人質の命と引き換えに自分に何かをさせるつもりだろう。
「……あなた、名前は?」
「ペガサス・ブレイドだ。ようく、頭ん中に刻んでおきな」
「そう、頭の悪い名前ね。でも、まあ、よく似合ってるわ」
ペガサス・ブレイドが澪子に顔を向けた。射抜くような敵意を前に、彼女もまた、目を逸らさなかった。
「結局、逃れられないのね。私も、父も。誰も彼もが、血からは逃げられない」
「何スカしたこと言ってんだ、てめえ?」
「白鳥は母方の姓よ。……御剣澪子。それが、私の本当の名前よ。よく似合っているでしょう? きっと、ある意味この世界で最も有名な名前ですもの」
澪子は自ら真実を告げた。忌避し、必死に逃れようとしていた名を明かした。
「みつるぎ……! 嘘だろっ。お前、いや……そうか。そうなら、話は早いわな。このスーツの持ち主が御剣の関係者ってんなら、この街に、これが届けられた理由ってのも分かるわな!」
「遠い親戚だけれどね。世界最古のヒーロー。この国を救った英雄。それが御剣よ。ただ、私の父は英雄を忌み嫌った。その血を引いているから、それだけの理由でヒーローにならなくてはいけないのかと苦悩した」
車椅子を動かすと、澪子は自分の動かなくなった両足を指で示す。
「正義は悪と戦うものよ。そして、悪に憎まれる。今よりもずっと小さい頃、私の家族はどこかの組織に襲われた。母は殺され、私は足を失った。父は悪ではなく正義を。組織ではなくヒーローを憎んだわ。自分に流れている血を絶やしてやりたいと思うほどに。自分を殺したいほどに。こんな家に生まれてなかったら、もっと平和に、穏やかに暮らせたのにって。だから『御剣』だった父は悪の組織を作り、御剣に、ヒーローに復讐を誓った」
「歪んでやがる……続けろよ」
ペガサス・ブレイドは興味が湧いたのか、澪子の話の真偽を吟味すべく、びりびりに裂かれたソファに腰を下ろした。
「敷かれたレールを外れたがっていたのは、父だけではなかったわ。私もまた、不思議に思っていたの。父とは違って、私はヒーローが憎くなかった。だけど、その頃の私は悪の組織の首領の娘になっていた。悪は当然のように生活の周りにあって、当然だとすら思っていたわ」
でも、と、澪子は言葉を区切った。
彼女は思い出す。……正義とは何かを知りたかった。悪とは何故あるのかを知りたかった。御剣の血に揺られた。その定めから逃れたかった。だが、血は、血である。我が身に流れるものを一滴残らず排出しない限り、自分は白鳥澪子ではなく、死ぬまで御剣澪子なのだ。悪の道を選んだ父親から逃れようとしてヒーロー派遣会社を興したが、結局、何も変わらず、分からなかった。今も昔も、鎖に繋がれ、檻に囚われたままだ。
――――正義、正義と、私はいつも口ばかりだったわね。
「連れて行きなさい。好きにしたらいいわ。答えられることなら、なんだって答えてあげる」
「諦めがいいな。まあ、いい。ああ、ところでよう。なんで青井なんだ? どうしてあいつを雇った?」
澪子は口を閉ざした。
彼女は、青井が戦闘員だとは気付いていなかった。ただ、一目見た時に直感した。自分と似ていると思ったのである。何かを追い求め、そのくせ、揺れてブレて足を踏み出せないでいる。ただ、今の彼はれっきとしたヒーローだ。彼には正義がある。貫ける信念がある。それは、自分にはないものなのだ。偽物の正義を振りかざすような、半端者ではない。
「適当よ」
「へっ、そうかい」
ペガサス・ブレイドが立ち上がる。もう、話は済んだのだ。吐き出してしまえば、気が楽になった。勝手なものだと、澪子は自己嫌悪に陥った。
「ま、待ってください! 社長、そんなの、嘘ですよね? 社長が悪の組織の人だっていうのも、青井さんが戦闘員をやってたなんてのも……!」
「迷惑をかけてしまったわね。ごめんなさい。本当に、ごめんね。ごめんね、九重」
「そんな、そんなのって……」
うな垂れる九重から目を逸らし、澪子は手を広げた。ペガサス・ブレイドは彼女を抱きかかえ、窓枠に足を掛ける。
「どうせ、もう」
「さ、行くとしますかお姫様? なんてな、ぎゃはははははは!」
澪子は、青井正義が死んだとは信じていない。彼はきっと生きている。彼が正義を貫かないまま死ぬなんてありえないと信じている。だが、青井は自分を助けてはくれないだろう。汚れた女だ。軽蔑されるに決まっている。彼らを騙し続け、正義の看板を掲げていたのだ。澪子はどうせなら、青井に殺されたかった。悪を断じて欲しかった。正義と言う信念に、何もかもを裁いて欲しかった。
カラーズへと向かっていた者たちは、それを見た。建物から飛び去る白い影を。男の両腕に抱かれた白鳥澪子の姿を。
赤丸たちも、黒武者も、牡丹も、灰空も、空を翔けるペガサスを確かに認めた。
その時、彼らは皆一様に、淡い絶望を覚えた。青井正義の影を追い、手がかりを知っていたであろう女は自ら悪の道へと戻ったのである。
白鳥澪子を捕えたペガサス・ブレイドが組織へ戻るのと同時刻、街が震えた。大地が唸りを上げて揺れ、大口を広げる。現れたのは円盤型の巨大な建造物であった。接触したビルを倒壊させ、瓦礫の雨を降らせる。大気がその威容に怯え、風が嘶く。起動音が街の中を駆け巡り、支配した。
昼日中の陽光を浴び、銀色の輝きを放つのは、ペガサス・ブレイドが前々から建造させていた浮遊要塞であった。大量の飛行ユニットを搭載したそれは、街の中心を目指して、自らの威光を知らしめるかのように空を往く。地上にいた者たちは、誰もがそれを見上げていた。
「く、ははっ。はははははは! こいつぁいい! こりゃあいい! これが! 俺の城か!」
中空を進むペガサス・ブレイドが、己の城を認めて、笑う。
「この街も! この国も! この世界の何もかも! 俺のもんだ!」
性質の悪い悪夢だ。澪子は目を瞑り、自らの行いを悔やんだ。自分が何もしなければよかった。父親に従って、正義に憧れなければこんなことにはならなかった。御剣天馬のスーツを手に入れようと思わなければ。この街に来なければ。この世界に、生まれさえしなければよかった。
澪子の流す涙も、漏らした嗚咽にも、ペガサス・ブレイドは気づかなかった。彼女の声を聞き届ける者など、どこにもいなかった。