SUMI
ぼくは猫のスミ。ママが付けてくれた大切な名前。
「スミちゃん、お魚食べるかい?」
「スミ! 今日も抱っこしていい?」
「スミはいつも可愛いなぁ」
みんながぼくを可愛がってくれるのは、ぼくに『スミ』という居場所があるからだ。毎日同じクッションで目が覚めて、同じ容器にご飯を入れてもらって、同じ時間にみんなと遊ぶ。そしてまた、同じクッションで眠るのがぼくの一日だ。
友達のトムが言っていた。ここの人間は優しい、と。トムは僕の隣の家に住んでいて、僕と同じようにみんなに可愛がられて過ごしている。トムにも『トム』という居場所があるからだ。
「スミは綺麗な子だね」
ぼくの真っ黒の体を撫でながら、おばあちゃんはいつもそう言う。人間の感性は猫とは違うから分からないけれど、おばあちゃんが褒めてくれているのは間違いない。
———にゃお。
ありがとう、と返事をすると、おばあちゃんは「いい子だねぇ」と笑った。おばあちゃんにはぼくの言葉が分かるのかもしれない。ママがぼくの言葉を分かってくれるのと同じように。
それから少しして、おばあちゃんの元に子どもたちが集まった。子どもたちは『小学校』というところに行って勉強をするらしい。ぼくと一緒に住んでいるあかねちゃんも、次の春からは小学校に行くのだとママが言っていた。
「おばあちゃん、お洋服汚れちゃった!」
「あらまぁ、どうしたの」
「習字の授業でさ、隣の子の筆がぶつかっちゃったの」
どうやら小学校で何か問題があったらしい。子どもたちの輪の中にぼくも体を捩じ込んで座る。服、汚れた。分かる単語を汲み取って、みんなの会話を頭の中で組み立てていく。
女の子が「見て」とおばあちゃんに服を見せた。黄色地にピンクの花柄の可愛い服に一本の黒い線。これが『汚れた』の部分なのだろう。あかねちゃんが家の壁に落書きした時、ママも『汚れた』と言っていたような。
「お洗濯したら落ちる?」
女の子にとって、この服はお気に入りの一つだったのかもしれない。少し悲し気にそう言うから、ぼくも一緒に悲しくなる。
「どうだろうねぇ。すみは落ちないからねぇ……」
おばあちゃんは困ったように呟いて、じっとその汚れを見ていた。ぼくも一緒にその汚れを見て、ただ、ぼくと同じ『すみ』という言葉に不思議な気持ちを抱く。
同じ『すみ』だけど、ぼくは猫で、あっちは汚れだ。それとも、ぼくたちは真っ黒だから『すみ』なのだろうか。だとしたら、ぼくは汚れと同じ?
「じゃあ、捨てるの?」
女の子の言葉にぼくは思わずその場から逃げ出した。ぼくと『すみ』が同じなら、いつかぼくも捨てられるのかもしれない。真っ黒の汚れだから。あの子が悲しい顔をしたように、ぼくのせいで誰かが悲しい顔をしてしまうかもしれないから。
とぼとぼと道の端っこを歩いていれば、不意に降ってきたのは聞き慣れた声。
「おい、どうした?」
塀の上を歩いていたトムは、すとんと飛び降りてきてぼくの横を歩き出した。トムは大きな猫なのにとても静かに歩く。ぼくは猫なのに静かに歩くのが苦手で、犬みたいだとママに言われたことがあるというのに。
さっきの話をトムに聞かせると、トムは「なるほどな」と低い声で鳴いた。
トムの名前はおばあちゃんが付けたと聞いたことがある。トムなんとか、っていう遠くの国の俳優が好きなんだって。多分、トムのこともそれくらい好きだから『トム』と名付けたのだろう。
「墨は確かにそういうもんだが、それとこれとは別だろ」
「別? ぼくの名前が汚れと同じなのに?」
ふん、と鼻息を荒げるぼくに、トムは困ったような声で「なぁお」と鳴いた。意味はない。溜息みたいなものだ。
「そもそもお前の『スミ』って名前は、」
「もういいよ! ぼくの気持ちなんか分からないくせに!」
「おい、待てって」
今度は力強い「なぁお!」という声。そんな声ごときで振り向くもんかと足を動かし続け、ただひたすらに遠くまで走った。
そうして気が付いた時には辺りが薄暗くなっていて、知らない場所で独り、にゃあ、と声を上げる。寂しい。悲しい。ぼくが汚れだったことも、独りぼっちで歩いていることも、誰も来てくれないことも。
にゃあ。にゃお。にゃおん。もう歩き疲れちゃった。
名前も知らない花畑の端っこで小さく体を丸める。どうせ独りで過ごすなら、せめて綺麗なお花に囲まれていたい。その『綺麗』でぼくの『汚れ』も上書きしてくれたらいいのに。
願うように目を閉じて、大きく息を吐き出した。と、同時。
「スミ!」
あっ、ママの声だ!
反射的に体を起こし、声の聞こえた方へと走り出す。そうすればそこにはママが居て、両手を広げてぼくを抱きしめてくれた。自分でここまで走ってきたことなんかすっかり忘れて、ママの体に頭を擦りつける。
ママ、大好き。もっと撫でて。頭でも顎でも良いよ。もっとぎゅうってして。
ママの近くにはあかねちゃんも一緒。幼稚園の制服を着たまま「かってにとおくまでおさんぽしたらダメなんだよ!」とぷりぷり怒っている。
ぼく、あかねちゃんも大好き。いっぱい撫でて。ね、お願い。
ゴロゴロと喉の奥が鳴って、いつもよりも少しだけ高い声の「んなぁあ」が零れた。そうすればあかねちゃんは「もう……」と困った顔をして、それから沢山撫でてくれるのを知っているから。
「そういえばこの場所、今年も綺麗なスミレの花がいっぱいね」
「すみれ?」
「そう、このお花。スミレっていうの、可愛いでしょ?」
なるほど、ここのお花は『スミレ』っていう名前なのか。紫と白が沢山広がっていてすごく綺麗だ。きっと明るい時間に見たらもっと綺麗なのだろう。
「スミを拾ったのもこの場所なの、覚えてる?」
「ううん」
「そうよね、あかねちゃんもスミもまだ小さかったから」
少し離れた大きな木の上。スミレの花を見渡すようにして、その黒猫は体を丸めていた。よく見るとまだ小さな黒猫で、木から降りられなくなっているのだと分かった。だから、小さな子どもを連れた夫婦はその黒猫を木から降ろしてあげたのだ。
そうすると黒猫はその家族に懐き、家まで着いてきてしまった。きっと母猫とはぐれてしまったに違いないと思い、その家族は黒猫の世話をすることにしたのだ。
名前はスミ。スミレを上から見ていたから、上の二文字を取ってスミ。その黒猫がこの先ずっと美しい世界を見られますようにと願いを込めて。
ぼくの名前はスミ。ママが付けてくれた大切な名前。
(260415)




