山は返してくれない
この村では、山に入る前に必ず名前を言う。
「行ってきます、◯◯です」
誰に向けてでもなく、ただ口に出す。それを怠ると、山がこちらの名前を覚えないのだと、祖母は言っていた。
僕がその話を思い出したのは、東京から戻って三日目の朝だった。
スマホは圏外。電車は一日に三本。コンビニもない。
けれど、山と川と田んぼだけは、昔と何一つ変わらずそこにあった。
大学を休学し、逃げるように帰ってきた理由を、村の人間は誰も聞かない。ただ「疲れとる顔しとるな」と言うだけだ。
昼前、祖母がぽつりと口にした。
「また、山が静かになっとる」
この村では、「静かな山」は良くない兆しだった。鳥が鳴かず、風が動かず、虫の音もしない。まるで、山そのものが息を止めているような状態。
「誰か、入ったん?」
僕の問いに、祖母は首を横に振った。
「まだ、名前を聞いとらん」
その日の夕方、隣の集落の青年が戻ってこなかった。
山菜を採りに入ったきり、日が沈んでも帰らない。消防団が出て、ヘッドライトの光が山をなぞる。けれど、見つかったのは彼の長靴だけだった。沢の近くに、きちんと揃えて。村の人間は誰も騒がなかった。
誰かが言った。
「名前、言わんかったんやろ」
夜、祖母は仏壇の前で線香をあげながら、僕に昔話をした。
この山には、「返さない日」がある。
年に一度か、十年に一度か、それは誰にも分からない。ただ、山が静かになった日に、名前を名乗らず入った者は、山の一部になる。
死ぬわけではない。
消えるわけでもない。
ただ、「戻れなくなる」。
翌朝、僕は一人で山へ向かった。
理由ははっきりしている。東京で、僕はもう「名前」を失っていた。夢も、役割も、居場所も、全部擦り切れて、呼ばれる名だけが空虚に残っていた。
山の入口に立つ。いつもなら聞こえるはずの川の音が、なぜか遠い。
「……行ってきます」
名前を言おうとして、喉が詰まった。
自分が誰なのか、分からなくなっていたからだ。(わからない)
一歩、足を踏み入れる。
山は、優しかった。
土は柔らかく、木漏れ日は暖かい。鳥も虫も、少し遅れて音を戻す。
歩くほどに、心が軽くなっていく。
どれくらい進んだだろう。
ふと、背後で声がした。
「——おまえ、誰や?」
振り返ると、青年が立っていた。昨日、帰ってこなかったはずの。
けれど顔はどこかぼやけていて、輪郭が山の緑に溶けている。
「名前、言うたか?」
彼は責めるでもなく、ただ確認するように聞いた。
僕は答えられなかった。
その瞬間、風が止んだ。
音が、消えた。
山が、息を止めた。
視界の端で、無数の「人」が見えた。木の影に、岩の裏に、沢の底に。皆、こちらを見ている。皆、名前を失った顔をしている。
理解した。
どうにもできないものが、ここにはある。
山は悪意を持たない。
ただ、受け取るだけだ。
名前を持たないものを、居場所のないものを、静かに、確実に。
足が、動かなくなった。
土に、根が伸びる感覚がする。
最後に聞こえたのは、祖母の声だった気がする。
それとも、山が僕の記憶をなぞっただけかもしれない。
——名前を、言いなさい。
けれどもう、遅かった。
その年、山は長く静かだった。
村の人間は言う。
「また一人、返さん日やったな」と。
そして今日も、山は変わらずそこにある。
自然豊かで、美しく、どうにもできないまま。




