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山は返してくれない

作者: 弓庭柔悟
掲載日:2026/02/08

この村では、山に入る前に必ず名前を言う。

「行ってきます、◯◯です」

 誰に向けてでもなく、ただ口に出す。それを怠ると、山がこちらの名前を覚えないのだと、祖母は言っていた。


僕がその話を思い出したのは、東京から戻って三日目の朝だった。

スマホは圏外。電車は一日に三本。コンビニもない。

けれど、山と川と田んぼだけは、昔と何一つ変わらずそこにあった。

大学を休学し、逃げるように帰ってきた理由を、村の人間は誰も聞かない。ただ「疲れとる顔しとるな」と言うだけだ。

昼前、祖母がぽつりと口にした。

「また、山が静かになっとる」

この村では、「静かな山」は良くない兆しだった。鳥が鳴かず、風が動かず、虫の音もしない。まるで、山そのものが息を止めているような状態。

「誰か、入ったん?」

僕の問いに、祖母は首を横に振った。

「まだ、名前を聞いとらん」

その日の夕方、隣の集落の青年が戻ってこなかった。

山菜を採りに入ったきり、日が沈んでも帰らない。消防団が出て、ヘッドライトの光が山をなぞる。けれど、見つかったのは彼の長靴だけだった。沢の近くに、きちんと揃えて。村の人間は誰も騒がなかった。


誰かが言った。

「名前、言わんかったんやろ」

夜、祖母は仏壇の前で線香をあげながら、僕に昔話をした。

この山には、「返さない日」がある。

年に一度か、十年に一度か、それは誰にも分からない。ただ、山が静かになった日に、名前を名乗らず入った者は、山の一部になる。

死ぬわけではない。

消えるわけでもない。

ただ、「戻れなくなる」。

翌朝、僕は一人で山へ向かった。

理由ははっきりしている。東京で、僕はもう「名前」を失っていた。夢も、役割も、居場所も、全部擦り切れて、呼ばれる名だけが空虚に残っていた。

山の入口に立つ。いつもなら聞こえるはずの川の音が、なぜか遠い。

「……行ってきます」

名前を言おうとして、喉が詰まった。

自分が誰なのか、分からなくなっていたからだ。(わからない)

一歩、足を踏み入れる。

山は、優しかった。

土は柔らかく、木漏れ日は暖かい。鳥も虫も、少し遅れて音を戻す。

歩くほどに、心が軽くなっていく。

どれくらい進んだだろう。

ふと、背後で声がした。

「——おまえ、誰や?」

振り返ると、青年が立っていた。昨日、帰ってこなかったはずの。

けれど顔はどこかぼやけていて、輪郭が山の緑に溶けている。

「名前、言うたか?」

彼は責めるでもなく、ただ確認するように聞いた。

僕は答えられなかった。

その瞬間、風が止んだ。

音が、消えた。

山が、息を止めた。

視界の端で、無数の「人」が見えた。木の影に、岩の裏に、沢の底に。皆、こちらを見ている。皆、名前を失った顔をしている。

理解した。

どうにもできないものが、ここにはある。

山は悪意を持たない。

ただ、受け取るだけだ。

名前を持たないものを、居場所のないものを、静かに、確実に。

足が、動かなくなった。

土に、根が伸びる感覚がする。

最後に聞こえたのは、祖母の声だった気がする。

それとも、山が僕の記憶をなぞっただけかもしれない。

——名前を、言いなさい。

けれどもう、遅かった。

その年、山は長く静かだった。

村の人間は言う。

「また一人、返さん日やったな」と。

そして今日も、山は変わらずそこにある。

自然豊かで、美しく、どうにもできないまま。


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