幸せの資格
土曜日の朝、チャイムが鳴ったので宅配便かなと思いドアを開けたら吉野加奈子が立っていた。一瞬固まった。
「どうしてここが分かったのか、っていう質問ですか?」
「いやちょっと待って、俺の頭が追い付かないよ、聞きたいことはいろいろあるけど」
休みだから油断してたが、とりあえずスエット姿でドアを開けたことを後悔するところから始めないと追い付かない。
「年賀状を書くという理由で人事の友達に部長の住所を教えてもらったんです。ついでに忘年会の後だから朝はいらっしゃるだろうなと」
「えっと俺酔っぱらって家に遊びに来ていいよって言ったっけ」
「いえ、部長は何も仰ってませんでした、残念ですけど。しかも住所をゲットしたのは忘年会より前ですし」
「えーとじゃあ君は自分の意志でここに来たと」
「決まってるじゃないですか、そんなことより中に入れてもらえませんか、寒いので」
「あ、ああごめん、どうぞ」
いかん、のっけから押されっぱなしだ。仕事と違ってこういう時の臨機応変な対応は苦手だ。すっかり不意打ちを食らってる。
「コーヒーでいいかな」とりあえずソファに座ってもらってからケトルでお湯を準備する。
「で、何の用?」
とりあえず思考が追い付いた。
「昨日、忘年会の席で言いましたよね、なにか料理を作ってあげますって。材料費、人件費は私のおごりなので高くはつきません。高くつかなければいいんですよね?」
「いや、だけど」と言いかけたところで
「いらないからこのまま帰れって言われたら、材料費と人件費、あと往復の交通費も請求します」
「押し売りかよ、ははは」
二人して笑った。
「なんだか生活感のない部屋ですね、片付いているというより何にもないというか」
「ああ、どうせ寝るだけだからね、布団はロフトに敷きっぱなしだし」
「キッチンも小さいですね、お皿は少しあるかな。一応紙皿も持ってきたけど大丈夫そうですね」
彼女は持ってきた紙袋を開きながらてきぱきと準備をしていく。
「ひとつ聞いてもいいかな、なんでこんなことしてくれるの?」
「好きだからに決まってるじゃないですか」
彼女は手を動かしながら答える。
「実は、部長に昇進されたときに何かプレゼントしようと考えてたんですよ。ネクタイや時計なんてありきたりだし、そもそも部長はあまりそういうものに関心がなさそうでしたし」
「まあ確かに興味はないな。いや、だからと言っていきなり男の部屋に料理を作りに行こうなんてふつうは考えないだろう」
すると彼女は動きを止め、俺のほうを向いて言った。
「惚れた男が出世するのってすごく嬉しいんですよ。私も初めて知ったんですけどね。これはもう普通のプレゼントじゃ間に合わないなと」
ちょっとギクッとした。
「惚れたって、いいのかそんな簡単に」
「新入社員で最初に配属されたときに、ああかっこいい上司だなぁ、と思ってたんです。周りから信頼されて、頼りにされてる姿を見てるうちに好きになったんです」
「でも俺はもうおっさんだし、バツイチだし」
「関係ありません、そもそもそんな欠点を数え上げて好きになるかどうか決めるほど器用じゃありません、私」
「やっぱり欠点なんだ」
「もう、意地悪ですね!料理を激辛にしますよ」
「それは勘弁してほしいな」
すると彼女は料理の手を止めて俺の腰に手をまわしてきた。
「でも、もし部長が嫌ならはっきりと言ってください、別れてほしいって」
「いやまだ付き合ってもいないんだけど」
「これからの話です、これから役員になったりするときに私の存在が邪魔になるならはっきり別れてくれ、と言ってください」
「役員か、もう興味はないな。というかすっかり付き合うこと前提の話になってるじゃん」
「へへっばれました?」
舌を出して笑う彼女。
「まあ今日追い返すようなことはしないし、来てくれたことは素直にうれしいと言っておくよ。だけどあまり俺に深入りしないほうがいいよ、俺は一回家族を捨ててる。幸せになる資格なんかないんだよ」
「幸せに資格なんか必要ありません。過去がどうであろうが、未来は自分で作るものです。過去は変えられないけど未来は変えられます」
これまたぐうの音も出ない正論だな。
「しかし君がバツイチ中年と付き合って不幸になるのを俺は見たくないよ」
「私の幸不幸を勝手に決めないでください。私はこうしてるのが最高に幸せなんです」
「分かったよ、君は強い子だね」
「いえ、私が強いのではなく、惚れた男が強くしてくれてるんです」と言ってまた悪戯っぽく笑った。
それから彼女は時々俺のアパートを訪ねてくるようになった。