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酔生夢死

駅の近くの小さなアパートを借りて俺は家を出た。一人での生活には慣れているので特に問題はないが、仕事帰りはもちろん休日も飲みに行くようになった。食事を作るのが面倒ということもあるが、アルコールで脳を麻痺させないと寝付けなくなっていた。とにかく部屋に入ったらすぐ気絶する、くらいの勢いで酔っぱらうんだ。ぐずぐずしてると余計なことを考えてしまう。

 俺は家族を捨ててしまった。俺は家庭を持ってはいけない人間だった。残りの人生は幸せになることなど望まず、酔ったように生きて夢のように死ぬだけだ。幸せになろうなどと考えたら、捨てた家族に申し訳ない。

そう考えると少しは気が楽になった。目いっぱい仕事して、夜は気を失うまで酔っぱらうんだ。


「部長、今夜の忘年会出られますよね?」


「ああ、予定通り行けると思うよ」

 離婚した後俺は部長に昇進した。同期入社では最も早い昇進だ。だけどちっとも嬉しくなかった。もう一緒に喜んでくれる家族はいないし、俺自身喜んでいない。仕事をするうえで多くの人は肩書が上がることを目指す。以前の俺もそうだった。偉くなりたいとかじゃなくて、自分の仕事ぶりが認められたという証だからだ。他人に見える通知簿みたいなもんだ。しかし今の俺には無用のものになってしまった。ただ仕事をしている時だけは余計なことを考えずに済んだからそれまで以上に仕事に没頭しただけだ。


地下鉄で忘年会会場へ向かうと、もうすでに大半のメンバーが集まっていた。俺の昇進祝いも兼ねているので、俺の部署以外からも何人か参加してくれている。


「部長、一杯どうぞ」「おめでとうございます」「しかしほんとに昇格が早かったですね」


「運が良かっただけだよ、君たちの頑張りのおかげさ」と取りあえず当たり障りのない受け答えをしていたが

「志水部長、飲んでください!」

 上目遣いでビール瓶を傾けてくる女性。頬はすでに赤みがさしている。

「えっと、誰だっけ」

「ひっどーい!」「吉野です、資材担当の吉野加奈子!部長の直属部署にも二年ほどいましたよ!その時はまだ『課長』でしたけど」


「あぁ思い出した。元気そうだね。なんせ直属の部下だけで百名くらいいるもんで、まだまだ全員を覚えられてないんだよね、でも君くらいの美人は忘れようがないからね。おっとこれはセクハラかな」


「あははは」と彼女は笑ってビールを注いでくれた。実際すべての部下を事細かに覚えてるかというと自信がない。主要なメンバーならいざ知らず、日々の仕事でそんなに言葉を交わすこともないからだ。ただ彼女のことは少し記憶にあった。仕事の呑み込みが早く、残業などにも進んで協力してくれていたからだ。


「部長は毎日遅くまで仕事されてるようですけど、ご家族は心配されてないんですか?」 大きな目で上目遣いで聞いてくる。

「あぁ、去年の春に離婚した、今は独身を楽しんでるよ」

「噂はほんとだったんだ、女子社員の間ではかなり前から噂になってましたよ」

「みんな暇だな、こんなおっさんの事がなんで噂になるんだ。あ、そうか嫁さんに逃げられた哀しい中年男って話題なのかな」

「違いますよ!志水部長は結構人気があるんですよ、女子社員だけじゃなく男子にも。男子社員なんかは『男として惚れる』と言ってる人もいますからね」

「へーそりゃ光栄だ」「何がそんなにいいのか知らんけど、俺はただの中年オヤジだよ」


「部長、楽しそうですね」

いいところに部下の藤原が割り込んできてくれた。女性社員の扱いは難しい。特定の子だけと喋ったり、仲良くしたりするのは自分の首を絞める結果になるからだ。なにしろ女性というのは恐ろしくネットワークが広い。社内のいろんな部署にたちまち情報が伝わってしまう。そして一旦女性社員に嫌われると仕事が全くスムーズに進まなくなる。


「おう、藤原君、飲んでるか」

俺は話題を変えてついでに体の向きも変えた。

「部長この頃少し瘦せましたか?無理しちゃだめですよ」

「そうか?まあろくなもん食ってないからな、夜は食わないことも多いよ」


「あ、じゃあ私今度何か料理作りに行きましょうか?」と吉野加奈子が割って入ってくる。

「ははは、なんか高くつきそうだから遠慮しとくよ」


 この時は飲んだ席での他愛ない会話だと思っていたのだが、二次会もお開きになり、それぞれ帰宅を始めたとき、彼女は俺の手を握ってきた。

「おいおい酔ってんのか、皆に見られるぞ」「俺はいいけど君は嫁入り前なんだからな、誤解されると困るだろ」

「いいんです見られても」と小さな声でそういうと握った手の中で俺の手のひらを中指でなぞってきた。誘われてるのか。

「君も地下鉄だよな、一緒に駅まで行こう」

といって俺たちは手をつないだまま歩き出した。知らない人から見たら完全に恋人に見えるだろうな。改札を入り電車を待っている間、彼女は無言で前を見ている。手は相変わらず固く握られたままだ。電車が来た。

「確か君はこっち方面だよな、俺は反対側だ」「今日はお疲れ様」

「部長、ハグしてください」

 電車の入ってくる轟音の中で彼女がささやいた。


 一瞬躊躇したが、ゆっくりと抱きしめた。


「私本気ですから、諦めませんから」と彼女は言い電車へ乗り込み、ドアのところに立ったままホームから離れていく間中俺のほうを見ていた。

 終電間近のせいか、電車もホームも混んでいる。中年のおっさんと若い女性が抱き合っていても気にする人はいないだろう。しかしなんだかいけないことをしたような気持ちで手と腕に残る彼女の柔らかさを思い出していた。

 こういう時はちゃんと断ったほうが良かったんだろうか。女性から抱いてほしいとサインを出すのってきっと勇気がいるんだろうな、と思いながら俺も反対方向の電車に乗った。まあ、悪くない気分だが、来週からどういう顔で接すればいいのか。

   


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