自分勝手
「課長!志水課長!」
肩を揺さぶられて目が覚めた。どうやら送別会の二次会で入ったスナックで寝ちまったらしい。
「おい、今何時だ」部下に聞く。
「もうじき日付が変わりますよ」
「分かったお前はもう帰れ、俺はもう一軒行くから」
「課長のとこお子さんがまだ小さいんですよね、早く帰ってあげたほうがいいんじゃないんですか、ただでさえ課長は毎日遅くまで仕事してて、いったいいつ休んでるんだろうってみんな心配してるんですから」
「ふん、大きなお世話だよ!俺は仕事しか能がないんだ、家庭のために仕事をおろそかにしたくないんだよ!」
「えー、僕なんかまだ結婚すらしてませんけど、子供は早くほしいですねぇ、家族って憧れますけどね。まあ、課長の仕事っぷりは若い奴らの憧れなんですけどね、部長や社長にもどんどん物言うし、恰好いいっすよ」
「おだてたって何にも出ないぜ、じゃ、また明日な」
こじんまりしたスナックやバーの匂いは結構好きだ。繁華街の大通りから外れて路地に入ったところにある小さなスナックのドアの前に立っただけで匂いが鼻を刺激してドアを開けずにいられない。一日の最後はいつものスナックに立ち寄り、バーボンを一杯飲むのがルーティンだ。長い会議の後なんかは頭のクールダウンにこの時間がかかせない。そしてだいたい最後の客として店を出る。なじみのママさんに見送られながらタクシーで家に帰るんだ。
会議だったり飲み会だったりと毎日帰りは遅い。たいていは真っ暗に静まり返った部屋に入るのだが、この日は違った。子供が一人おもちゃで遊んでいる。
「お母さんは?」
声をかけたが知らないという返事だ。部屋にいるのかと思いそっとドアを開けたがやはりいない。仕方ないので少し子供をあやして寝かしてからソファに腰かけた。
たぶん一旦は寝た子供が途中で目覚めたのだろう。しかしどこに行ったんだ、無性に腹が立った。
「子供をほったらかして何してるんだよ」
今までにもこんなことが何度かあったが、今日はさすがに腹に据えかねて探しに行くことにした。目星はついてる。歩いて少しのところにあるスナックに行ってるに違いない。
「おい、子供をほったらかして何やってんだ」
住宅街にあるスナックだからほぼ常連客ばかりだが、店内は結構賑わっている。客の目線を無視して腕をつかんで半ば強引に外へ連れ出した。
「ほっといてよ!あたしだってたまには飲みに出るくらいいいでしょ!」
それを言われるとぐうの音も出ない。確かに俺は仕事の忙しさを言い訳にしてほとんど家庭を顧みていない。そういう努力すらしていない。休みの日に買い物に一緒に行くことはあっても、家に帰ればテレビの前でゴロゴロだ。子供がかわいくないわけではない、かわいいんだが、せがまれてゲームなんかを一緒にやっててもすぐに面倒臭くなってしまう。こんな時間を過ごすくらいなら休日出勤でもしてればよかったとさえ思ったこともある。一人で毎日子供の世話をしている妻は俺とは違い逃げ場がないから、さぞかし辛いだろうなとは思う。いやそれすら俺の勝手な想像でしかないんだが。
しかし、この頃は家の中が散らかり放題で足の踏み場もない。食器も使ったままで食卓の上に放ってある。夜中に帰ってきて俺が食器を洗うこともしばしばだ。仕事で疲れてるのに、と思いながらも一人で育児をしている妻のことを思えば仕方ないとあきらめていたのだが、どうやら子供に対して手をあげたりもしているらしく、
「お母さんの手が怖い」
と子供から聞いたことがある。
俺が家庭を顧みないのがすべての原因なんだろうと思い始めていた。俺が妻をこんなに追い詰めているんだろうと。
そんなある日、会議中に携帯電話が振動した。廊下に出て電話に出ると妻からだった。「咲良が交通事故にあったの、幸いけがはないんだけど先方がどうしてもご主人に謝りたいからと待ってるの。今日だけでも早く帰ってこれない?」
時計を見ると午後八時だ。今日の会議は海外からの部品の納期を詰めなきゃいけないのでいつもより時間がかかる。午前様になるのは必至だ。しかも俺はこの部門の責任者だから途中で帰るわけにはいかない。
「けががないんなら良かったじゃないか、どうしても外せない会議があるからと言って帰ってもらってくれ」
「うん・・分かった」
妻は力なく答え電話は切れた。
俺は一瞬後悔した。けがをしてないとはいえ子供が交通事故にあったのにすぐに帰らない親がいるのか。妻だって一人で対応するのは心細いはずだ。何とも言えない後味の悪さを感じたまま会議室に戻った。
少しでも早く帰ろうとは思ったが、結局家に帰り着いたのはいつもと同じ深夜だった。さすがに家の中は真っ暗でしんとしている。俺は会議で疲れた頭でいろいろ考えていた。どうしてすぐに帰れなかったんだろう。会議は俺がいなくても回せたはずだし、俺がいたからといって特別な結果が出たわけでもない。ただ責任者である俺がその場にいないということを避けたかっただけなんじゃないか。仕事をほっぽり出して帰りやがった、と後から言われることが怖かったんじゃないのか。家族は何より大事だ、と頭では分かっていてもいざとなると目の前の仕事を選んでしまう。いやそもそも仕事と家族を比べることすらしようとしていない。俺はこんなにも冷たい人間だったのか。
「向いてないな」「俺には家庭というものが向いてない。このままでは家族に辛い思いをさせ続けることになる」
翌朝、妻が起きてくるのを待って俺はゆっくりと切り出した。
「離婚してほしい」「俺はどうやら結婚には向いていないらしい」「昨日の件ではっきりした」
妻は「分かった」と言って部屋へ帰っていった。顔を紅潮させながら。きっと言いたいことはいろいろあるに違いないが、言ったところで俺の態度が変わらないことも分かっているのだろう、言葉を飲み込んだように見えた。
俺はあまりの自分勝手さに吐き気すらしたが、自分の行いが家族のためだと信じ込もうとしていた。