エフェドリン
「咲良、咲良、お母さんを頼むね」
「まだ幼稚園に行ってた頃だと思うけど、しゃがんであたしの両手を握って話しかけてるお父さんの夢。もう顔も思い出せないしどんな声だったかも忘れた。だけど決まってこの場面だけが夢に出てくるの」
そう言うと咲良は
「お母さんがね、お父さんが家を出て行ってからお父さんの写真やなんかを全部捨てたから、思い出しようがないんだよね」と続けた。
私は続けて
「どんなお父さんだったの?」と聞いてみた。
「あたしはほとんど記憶がないんだけど、お母さんが言うには酒や女におぼれた最低の男だって言ってた」
志水咲良、もうすぐ中学を卒業する私の友達だ。彼女の家はとても貧乏らしく、彼女はお昼ご飯を食べずにお昼の休憩時間はいつも図書室にいる。
「初めのころはお弁当を持ってきてたんだよ。でもおかずがなくてね、本当に梅干しだけとかちくわ一本だけとかで。恥ずかしいからいっそ食べないでおこうって」
と以前聞いたことがある。そのせいか二年生の時にはお弁当を覗きこまれてからかわれたり、こそこそ陰口を言われてたりしたらしい。男子はもちろん女子からも距離を置かれて、三年生になってすぐの修学旅行なんか班単位の行動なのに彼女は一人で四苦八苦していて見かねた先生が付き添いをしてくれてたらしく、ちっとも楽しくなかったらしい。
三年生で初めて同じクラスになり、いつもひとりで窓の外を眺めている彼女が気になり話しかけたのが夏休み後で、はじめは目を合わせてくれなかったけど段々と打ち解けて友達になれた。私もあまり大勢で話したりするのが得意じゃなくて、彼女のどこか冷めてるところが一緒にいて心地よかった。必要以上に人の心の中に踏み込んでこないんだよね。
たぶんそれが人づきあいが悪い、空気を読まないってことで周りから嫌われてたんだろうけど。
「で、お父さんは今どこにいるの?」
咲良はふぅっとため息を一つついてから
「知らない。お母さんは何も言わないし、聞くと嫌な顔をするからもう聞くこともなくなっちゃった」
私がなんでこんなに彼女の身の上話をしつこく聞いてるかっていうと、彼女のお母さんがもうずいぶん長く病気で入院しているらしく、いろいろ辛いこともあるだろうから話し相手になってやってくれ、と担任の先生に頼まれたことと、私自身も最近の彼女が本当に暗い雰囲気になってるのが気になっていたからだ。今まではこんなに彼女の個人的なことを話題にしたことがなかったので、彼女もちょっと困惑してるのかなんでそんなこと聞くのみたいな怪訝な顔で
「こんな話、おもしろい?」と聞いてきた。
「ううん、おもしろいかどうかじゃなくて、もう何か月も経つのに咲良のことを何にも知らないなぁと思ってね。でも話したくないならいいんだよ」
彼女は少し考えてから
「いや、話すのはちっとも構わないんだけど、あたしの話なんて全然おもしろくないからなんだか悪くて」とうつむきながら言う彼女。
私は正直に話すことにした。
「実は、先生からなるべく話し相手になってやってほしいと頼まれたの。あと、私から見ても最近の咲良はなんか暗いなぁ、と思ってたからね」
彼女は開いてた本をパタンと閉じて
「やっぱり分かる? もうすぐ卒業だっていうのにちっとも嬉しくないんだよね」
「それはお母さんの病気のため?」
「それもあるんだけど」と言ってから、窓の外に目を向けながら「これからどうしたいのか、自分が何になりたいのか全然思いつかないんだよね」
「まだ高校もあるんだし、その時に何か見つかるかもよ」と私が答えると
「うん、そうだね。なんせ相談できる人が近くにいないからね。夜になるといろいろ考えちゃって」
「あ、そっか、今は妹と二人なんだっけ?大変だね」
「全然大変じゃないよ。お母さんがいるときのほうが大変だった。お父さんが家を出て行ってから少しして、お母さんは夜の仕事を始めたんだけど、毎晩酔っぱらって帰ってくるし、時々はお客さんと一緒に帰ってくることもあったの」「お父さんじゃない男の人が家に入ってきてしかもお母さんと一緒にお酒を飲んだりしてるのを見るのがとても嫌で、はじめのうちはよくお母さんに怒ってたわ。そしたら必ず言われたの『お前を食わせるために仕方ないんだ!』ってね」
そのうち仕事が休みの日にもお客さんと一緒に家で過ごすようになってきて、そんな時は決まって咲良は外の公園に遊びに行かされるようになったらしい。遊びに行くといっても夜中だから誰もいない。仕方ないので教科書や本を持って出て公園で時間をつぶしていたそうだ。
妹さんはそんな生活の中で生まれた。もちろん咲良のお父さんとは関係ない。そして妹さんが生まれてからはそのお客さんが家に来ることもなくなったらしい。
放課後一緒に帰りながら
「今度咲良の家に遊びに行くよ」と言うと、
「ありがとう、でも毎日保育園に妹を迎えに行ったりお母さんの病室に行ったりしてるから家にいないかも」とちょっと暗い顔で咲良が言う。
「分かった、じゃあ行く前に連絡するから都合のいい時で」
「うん。あ、でもちょっと考えてることがあってね。まだ決心できてないんだけど、決心できたら教えるからその時は相談に乗って」
「めずらしいね咲良が相談なんて。でもうれしいな、相談してくれるなんて。待ってるよ」
少し前向きな咲良の言葉でちょっと安心したが、彼女は翌日から学校を休んだ。そして卒業式にも来なかった。
卒業式から数日たって私も自分のことでいろいろ忙しかったが、咲良がどうしているのか気になっていた。もう学校で会うことはできないし電話もつながらなかったので直接家まで行ってみることにした。
彼女の住んでるアパートの前には小さな公園がある。そこの桜の木の下のベンチに彼女は座っていた。夕焼けの中で桜の木と彼女の影が淡く伸びている。
呼びかけると彼女はゆっくりこちらを向き、ああと小さく声を出した。
「どうしたの、大丈夫?」
彼女はなんだかとても疲れている顔をしていた。そして彼女の服装に気が付いてちょっと驚いた。
「これ?うん、行く予定だった高校の制服」「可愛いでしょ?特にこのローファーが気に入ってるの」「なんかお姉さんになった気分」と言ってふふっと笑った。
最後に話をした日からお母さんの具合が急激に悪くなり、ちょうど卒業式の日に亡くなってしまったらしい。近くには親戚もいないので市役所の福祉課の人なんかが段取りしてくれて火葬場での直葬になり、妹と二人で夜が明けるまで霊安室で過ごしたあと火葬を見守ったとのこと。
「そうだったんだ、それは辛かったねぇ」
と私が言うと
「うん、やっぱり煙になった時には涙が出たよ。でも、悲しくて仕方ないって感じじゃなかったんだ。なんかほっとしたって言うか、ずっとお母さんを楽にしなきゃって思ってたから、それがなくなって力が抜けたって言うか」
淡々と話す彼女。
「実は、妹が生まれた後にね、お母さんが酔っぱらってあたしに言ったことがあるの『お前さえいなければ』って。あたしはお父さんっ子だったみたいでお母さんはそれがずっと気に入らなかったんだろうね」「お父さんがいなくなってから何とかお母さんに気に入られようとしたんだけど、かえってうっとおしくなってたみたい」「あたしっていらない子なんだな、いないほうが良かったんだな、と思ってずぅっと苦しかったんだよ」
咲良は以前から時々手首に包帯を巻いていたりしてたけど、今日は首にあざがあるのが分かった。
沈んでいく夕日のほうに目をやりながら彼女は続ける。
「火葬のあとね、遠くに住んでる伯父さんが来て、市役所の福祉課の人と一緒に話し合いをしたの。妹はまだ小さいから伯父さんが引き取ることになって、そのまま連れて帰ったわ。あたしはもう働ける年齢だから働いて自立しなさいって。だからこの前高校には入学辞退を言いに行ったの。でもどうしても着てみたかったから制服だけはもらってきたんだ、ばかみたいだよね」
そう言うと少し上を向いた。涙が流れ落ちないように。
福祉課の人の話だと、今のアパートの家賃や高校の学費は市役所のほうでなんとかできるということだったけど、断ったらしい。そして誰も望んでいない高校進学もやめることにしたと。
「あたし、働き始めたら一人暮らしをしてお父さんを探そうと思ってたの。見つかるかどうかは分からないし、見つかってもあたしのことなんか邪魔なだけかもしれないけど、やっぱり会ってみたいんだよね。お母さんも妹もいなくなって、高校へも行かないことにしたから、その日がずいぶん早く来ちゃった」
「お父さんを探すってなにか手がかりあるの?」
「お母さんの遺品を整理してたら、お父さんから送られてきた封筒があったの。ずいぶん前のものだけど、会社の封筒らしくて住所が書いてあった。そこに行ってみようと思って。そうそう前に相談したいと言ってたのもね、お父さんを探したいということだったの。あの時はお父さんのことは何もわからなかったから、どうしたらいいか相談しようと思ってたの」
「そうだったんだ。私もずっと気になってたんだけどね、でも住所が分かったんなら楽勝だね。どうする?すぐにでも行ってみる?」
咲良はしばらく黙って遠くを見ていたが
「怖いんだよね。今更会ってもしょうがないってのもあるし、なにか言いたいことや聞きたいことがある訳でもないし。何のために会いたいのか自分でもよく分からないんだよね。お母さんとあたしを置いて家を出ていったことを怒ってるかと言えばそんなでもないし、でも、もし会えたらあの日言えなかった『さよなら』を言いたいかな。まだ小さかったからお父さんが出ていくってことが分かってなかったんだよね。いつものように朝になればお父さんは家にいると思ってたから。もう十年経つけど夢でしか会えなくなってしまった。お母さんとお父さんにどんな事情があったかは分からないけど、あたしはちゃんとさよならできてないんだよね」
「でも今ならさ、時間が自由だし、明日にでも探しに行こうよ、私も一緒に行くから」
私がそう言うと
「いいの?探すの付き合ってくれる?」
と彼女がこちらを向きなおして聞いてきた。
「もちろんだよ、でももし見つけてもお父さんだって分かるの?」
「ぜんぜん。顔すら思い出せないし。お父さんだって今のあたしを見てもきっと誰か分からないよ」
「あはは、そりゃそうだよね。五歳くらいに別れた娘が高校生になるくらいの年齢でいきなり現れても気が付かないよね。まあそんなことは見つけてから考えればいいか。で、遠くなの?それとも近い?」
「近いよ、電車で三十分位のとこ。そうか、一緒に行ってくれるんだ。なんか勇気が湧いてきた。ようやくやりたいことがひとつできたよ」
彼女は家でも学校でも居場所がなく、ふわふわとした毎日で何をしていいのか、何をすればお母さんに気に入られるのかばかり考えていたから、自分がやりたい事とか、目標とか持ったことがなかったらしい。
「でもなにか目標を持っていないとね。でないとこのまま真夜中の桜のように誰にも知られずに散ってしまうんじゃないかと思って。あたしは何のために生まれてきたんだろうって」
咲良はすっかり暗くなった空を見上げながら
「ねぇ知ってる?桜の花粉にはエフェドリンっていう覚せい剤成分が含まれてるらしいよ、だから花見はあんなに盛り上がるんだろうね。あたしも桜の花の下に一晩中いたら幸せな幻覚を見れるかな」と言ってまたふふっと笑った。