縮まる距離と、戸惑う心
「ご馳走様。唐揚げと厚焼き玉子がめちゃくちゃ美味かった」
俺は頭を下げながら、南に弁当箱を返す。
返す……とは言っても、さすがに自分が食べた後の弁当箱をそのまま返すのは気が引ける。だから、もう一度お互いに弁当作ってきて、弁当箱を交換しようと提案した。断られることも覚悟していたけど、「いいですよ! また先生のお弁当が食べられるなんて嬉しいな」とニッコリ微笑まれてしまえば、全身の力が一気に抜けていく。
この男には、遠慮や恥じらいといった感情はないのだろうか? 逆に俺はなかなかこの提案ができずに、ずっと話しかける機会を窺っていたというのに……。
「でも、あのお弁当。彼女が作ってくれたんだとしたら無理しなくて大丈夫だから」
「へ?」
俺の言葉に南が首を傾げている。
「だから、あのお弁当、君が作ったんじゃないでしょ? 彼女や奥さんに作ってもらうのは申し訳ないと思って……」
「あぁ! そういうことですか? 俺、彼女なんかいませんよ。あの弁当は自分で作りました」
「あの弁当、南君が作ったの?」
「はい。俺、昔から外食やコンビニ弁当が苦手で……できる限り自炊するようにしてるんです」
「そっか……」
その考えは俺も同じだった。どうしても手作りのものの方が好きで、買い食いは極力避けている。おかげで、料理の腕もめきめきと上達してきているのだ。なんだか南に親近感を感じてしまった。
「明日は鶏の照り焼きが食いたいです。お願いできますか?」
「別に構わないけど……」
「本当ですか? 嬉しいなぁ」
無邪気に喜ぶ南の尻に、大きな尻尾が揺れているように見える。まるで大きな犬みたいだ。
(可愛いな……)
きっと自分よりいくつか年下であろう南のことを、無意識にそう思ってしまう自分に気付きブンブンと頭を振る。
顔が火照ってきたから、両手で顔を覆った。
翌日いつもより早起きをして、弁当作りに取り掛かる。
「よし、鶏の照り焼きを作るぞ」
誰かの為に料理をしたことなんてなかったから、緊張して手が強張ってしまう。南の弁当箱を目の前に気合を入れた。
「南、美味しいって言ってくれるかな……」
ジューッという音を立てて、フライパンの上できつね色になっていく鶏肉を見て、どんどん不安になっていく。「もう一度弁当を作ろう」なんて提案しなければよかったと、今になって後悔しても遅いのだけど。
「大丈夫かな……」
フライパン返しを抱き締めて床に蹲る。
「本当に大丈夫かな……」
心臓が痛いくらいドキドキして、息が苦しかった。
◇◆◇◆
「608号室の北川さん、いつも食事を残すんです。理由を聞いても話してくれないんですよね」
「体重も少しずつ減ってきているし、なんで食べてくれないんでしょうか?」
定期的に開催されているカンファレンスで取り上げられたのは、肝臓癌で入院している北川肇さん、56歳。確かに看護師の記録を見ると食事摂取量は全体の4割程度。特に副菜を残しがちだ。
体重も目に見えて右肩下がりで、看護師が困っているのも頷ける。
「なんで飯食わないのかな……」
このままじゃ体力がどんどん衰えてしまう。もうすぐ三度目の手術を控えているだけに、どうにかしなきゃ……と考えを巡らせた。
「あぁ、北川さんですか? 最近また食事量減りましたよね」
「うん。なんとかならないかな……もうすぐ手術なんだよ」
「もしかしたら……北川さん、シェフだったからかなぁ」
「シェフ?」
「そう。あの人、一流ホテルでシェフをやってた人なんです。だから病院食が口に合わないとか? あ、この鶏の照り焼き美味い!」
「え? 本当に?」
「めちゃくちゃ美味いです!」
ドキドキしながら作った鶏の照り焼きを目をキラキラさせながら頬張る南を見て、ホッと胸を撫でおろす。
一気に緊張が解けて、思わず箸を落としそうになってしまった。
今日は南に誘われて、屋上で弁当を食べた。
俺は、『とっつきにくい医師第一位』なんて看護師に陰口を叩かれているくらいだから、病院では基本一匹狼だ。病院だけでなく、プライベートもだけど……。
そんな俺に臆することなく近付き、いとも簡単にパーソナルスペースに侵入してきた。普段だったら、そんな奴はすぐにシャットアウトしてしまうのに、こいつにはそれができなかった。
だって、南は顔が良すぎる……。
おまけにスタイル抜群ときたら、そんな相手を拒めるはずなんてない。
「今度仕事が終わったら、一緒に料理しましょうよ?」
「え? あ、うん。別にいいけど……」
「やった! 楽しみにしてますね」
「……うん……」
そして、また南の押しに負けてしまう自分がいた。
「それから、北川さんに話を聞いてみます。男同士ならもしかしたら話してくれるかもしれないし」
「ありがとう、任せるよ」
「了解!」
にっこり微笑んでから、南が鶏肉にかぶりついた。
「美味い!」
◇◆◇◆
「先生、今日の患者さんの昼食に出たグラタンがめちゃくちゃ美味しそうでした。いいなぁ、俺もグラタンが食いたい」
「今日のお昼、グラタンだったんだ?」
「はい。プリプリの海老がたくさん入ってました」
「ふーん」
ナースステーションの隣にある処置室で、書類関係の雑務をしていた俺の傍に来て、南が唇を尖らせる。そのあまりにも幼い仕草に可笑しくなってくる。普段はあんなにしっかりしたリーダー的存在なのに、こんな一面もあるんだな。
「グラタンくらい自分で作れるだろう?」
「作れますけどグラタン皿もないしなぁ。そうだ、先生の家にグラタン皿ありますか?」
「あるけど、お前まさか……」
「今日一緒にグラタン作りませんか? 先生の家で」
「ちょっと待って。なんで俺ん家なんだよ? 自分家で作って一人で食べればいいじゃん」
「ふふっ。そんなに怒らないでください。医者が住んでる家ってきっと豪邸なんだろうな……って興味もあるんです」
「はぁ?」
家に誰かを呼ぶなんてことは滅多にないことだから、ひどく動揺してしまう。考えただけで緊張してきてしまった。そんな俺が面白かったのか南がクスクスと笑っている。
「大丈夫ですよ、先生。取って食ったりはしないから。じゃあ、仕事が終わったら病院の正面入り口で待ってますから」
「ちょ、ちょっと南君!」
「待ってますからね、先生」
そう言いながらヒラヒラと手を振る南を呆然と見送ってしまう。
突然縮まる距離に、戸惑いを感じた。
「こんな精神状態で、この後どうやって仕事しろって言うんだ?」
俺は頭を抱えて机に突っ伏した。
「取って食うってなんだよ……」