プロローグ
俺は月居蓮 。腫瘍外科病棟で医師をしている。
腫瘍外科とは、主に癌などの悪性新生物を治療する病棟だ。手術だけでなく、放射線や抗癌剤など様々な最先端の治療が行われている。
うちの家系は代々医者で、俺も生まれた瞬間から将来医者になることが決まっていた。
学校だけでなく、兄弟の中でも優劣をつけられて……常に成績は上位をとらなければならなかったし、大人の顔色ばかりを窺って生きてきた。
今だって大学病院の中で繰り広げられる、全く意味のない権力争いに巻き込まれる日々……おかげで、どんどん性格がひん曲がっていった。
恋愛だって、片手で数えられるくらいしかしたことないし。性欲処理なんて遊び相手で十分だ。
俺は医師をしているくせに、常に他人と壁を作ってしまっている。
そんな俺が、看護師の南崇大と仲良くなったきっかけは『弁当』だった。
「今日からこの病棟でお世話になります、南です。よろしくお願いします」
その青年が挨拶をした瞬間、ナースステーションがざわついた。一人の青年に好奇の目が一斉に向けられている。
元々職員の出入りの多い病棟だったから、看護師が転職してくることなんて珍しいことではない。なんでこんなに看護師達が騒めいているんだ? 興味を引かれた俺は、南と名乗った青年を遠くから盗み見る。彼を一目見ただけで、看護師達が浮足立ったように騒ぎ出した理由がわかってしまった。
「あぁ、なるほどね」
南は、長身でまるでモデルのようなスタイルをしていた。サラサラの髪は黒々と輝き、涼し気な目元が彼の端正な顔つきを引き立てている。女が好きそうな今風の顔立ちをしているが、その中にはまだ素朴さと幼さが残されていた。彼がいるだけで、その場が華やぐような魅力がある。
自己紹介が終わった南の周りには、気持ちの悪い笑みを浮かべた看護師が集まり、まるで病棟に芸能人でも来たかのようだ。当の本人は困ったように笑っているから、女慣れはしていないのかもしれない。
その初心さが、更に彼を魅力的に見せた。
「しょうがない、助けてやるか……」
小さく息を吸ってから口を開く。
「あのさ、彼困ってるじゃん? いい加減にして仕事に戻りなよ。見てて可哀そう」
俺の一言でその場が一気に静まり返る。遠くの方で患者が「おーい、看護師さん」と呼んでいる声が聞こえてくる。看護師がみんな顔を引き攣らせた。
「ほら、患者が呼んでるよ」
そう言い残すとナースステーションを後にする。これだから誰も俺の傍に寄ってこないのだろう。別に、看護師と仲良くしようなんていう思いはサラサラないけど ……。あのキンキン声は耳障りなんだ。
「あの子はタイプではあるけど、俺には関係ない」
職種も違うし、今後関わることもないだろう。そう思いながら飲み物を買いに売店へと向かった。
「腹減ったぁ」
ようやく昼食にありつけたのは、昼の12時をかなり回った頃だった。
俺は手作りの弁当を持って屋上へと向かう。手作りといっても、恋人や奥さんが作ってくれたわけではなく、自作の弁当だ。外食や買い食いが苦手な俺は、早起きをして毎日弁当を作っている。
そもそもゲイである俺が、他人に弁当を作ってもらえるなんて、余程料理好きの彼氏を見つけなければ難しいかもしれない。
弁当を膝に載せたまま大きく溜息をついた。空を見上げれば青空がどこまでも続いていて、雲がゆっくりと流れている。病棟内は騒がしいから誰もいない場所に来て、俺はようやく一息つくことができた。
小さい頃から人付き合いが苦手で、友達と呼べるような奴もいないし、ワンナイトばかりの関係で真剣に交際をしたこともない。一人でいることが好きだし、気楽だった。
今日の弁当は昨夜のうちに仕込んでおいたハンバーグだ。それを朝早くから焼いて、特製のソースをかけた。付け合わせはサラダと目玉焼き。ちょっとした自信作である。誰に見せるわけでもないんだけど……。
「いただきます」
両手を合わせてから弁当の蓋を開けた瞬間……。
「ん?」
頭の中がクエッションマークで埋め尽くされる。なぜなら俺の手元にある弁当箱には、ハンバーグが入っていなかったからだ。
中身をじっくり観察してみると、カラッと揚げられた鶏の唐揚げと厚焼き玉子。焼き鮭まで入っている。
「うまそう……」
俺は唾をゴクンと飲み込んだ。
これだけ手の込んだ弁当はなかなか作れない。きっと料理好きの人が作ったに違いない。俺のお腹がキュルキュルと音をたてて鳴った。でも、人の弁当を食べるわけにはいかないから、弁当箱の蓋を閉めようとした瞬間……。胸ポケットにしまってあったPHSが鳴り響いた。
(なんだよ、ようやく昼飯にありつけると思ったのに……)
自分の弁当がどこに行ってしまったのかわからないし、緊急で呼び出されるなんて本当に今日はついてない。
「もしもし、月居です」
どうにか不機嫌さを隠してPHSをとれば、聞き慣れない男の声が聞こえてきた。
「あ、月居先生ですか? 俺、今日入職した南です。お忙しいところすみません」
南……? あぁ、今朝看護師達に囲まれてたイケメンか。入職早々急変にあたってしまったのだろうか。君もお気の毒に……。
「いえ、大丈夫だよ。何かありましたか?」
「すみません、業務のことじゃなくて、個人的な話なんですが……」
「個人的な話?」
知り合ったばかりの医師に個人的な話ってなんだ? 俺は首を傾げた。
「月居先生が持ってる弁当に唐揚げ入ってませんでしたか?」
「え? 唐揚げ? うん、入ってる」
「やっぱり! それ、俺の弁当です」
「この弁当、南君のなの?」
「はい。もしかして、もう食べちゃいましたか?」
「あ、いや、まだ食べてないよ」
あまりにも美味しそうだったけど、誰のものかわからない弁当を食べてしまうほど無神経ではない。もう一度膝の上に載っている弁当をまじまじと見つめた。
あ、そう言えば……。処置室の机の上に弁当箱を置いたとき、もう一つ弁当箱が置いてあったことを思い出す。しかも弁当箱は同じくらいの大きさで、よく似た色のハンカチに包まれていた。
弁当を持って屋上に移動しようとしたときに呼び出されて、弁当を置いたまま慌てて出て行ったことを思い出す。戻ってきたときに、間違ってもう一つの弁当を持ってきてしまった……というわけか。
俺ってすげぇ馬鹿だ……。
「ごめん、南君。俺が間違えて持ってきたんだと思う」
ガッカリと肩を落とせば、電話の向こう側で南がクスクス笑っているのがわかった。
「大丈夫ですよ。それより申し訳ないんですが、弁当を交換している時間がないので、俺の弁当でよければ食べてください。その代わりに、俺も先生の弁当いただいちゃいますけど」
「それは別に構わないけど、美味いかどうかはわからないよ」
「もしかして先生の手作り弁当ですか?」
「あ、うん。男の手作り弁当なんて気持ち悪いだろう?」
「全然大丈夫です。このハンバーグ、凄く美味しそうだから。じゃあいただきます」
子供みたいに元気な声が聞こえた後、電話は切れてしまう。
あまりにも人懐こい南の態度に、一瞬呆気にとられてしまった。人見知りの俺からしたら信じられないことだ。
「あ、めちゃくちゃ美味い……」
晴れ渡った空を眺めながら、唐揚げを一つ頬張る。
これが、俺と南の不思議な関係の始まりだと、その時は思いもしなかった。