彼女は二度と笑わない。
フィンセントは彼女の笑顔が好きだった、彼女が見せる心からの素の笑顔が。
彼女とはブライレブン公爵家令嬢リン。
ダイクストラ王国王太子──フィンセントの婚約者である。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「今日は君の好きなお菓子を用意したんだよ」
「ありがとうございます、フィンセント殿下」
リンは笑みを浮かべる。
幼いころからの王太子の婚約者教育で身に着けた、仮面のような笑みを。
フィンセントは胸が締め付けられるのを感じた。
「……気に入らなかったかな? しばらく会わない間に好みが変わった?」
「ご不快な思いをさせてしまったのなら申し訳ございませんでした。こちらの品は確かに私の好きなものばかりです。ですが子どものときのように無邪気に喜ぶことは出来なくて」
「僕の婚約者教育で感情を抑えるように言われたから? それとも……悪夢のせい?」
先日、十五歳になったフィンセントが王太子として認められた日に、リンは悪夢を見た。
フィンセントがリンの異母妹に心を移し、今通っている学園の三年後の卒業パーティで婚約を破棄し、異母妹を虐めた罪でリンを投獄して毒殺するという悪夢だ。
それがただの悪夢でないことをフィンセントは知っている。
「……」
リンは答えない。
フィンセントに請われて語ったとはいえ、王家を莫迦にしていると思われても仕方のない内容の悪夢だったのだ。
長年の婚約者を棄てて、よりにもよってその異母妹を選ぶなんてあり得ないし、姉妹間の心の行き違いで投獄されたり、ましてや処刑前夜に毒殺されるだなんて正気の沙汰ではない。
だが、これまでのフィンセントはリンにそう考えられても仕方がない態度を取っていた。
三年前、ふたりが十二歳だったとき、リンの母親が亡くなった直後にブライレブン公爵が愛人と庶子を王都の屋敷に連れ込んでからというものの、フィンセントは婚約者であるリンを無視して庶子の異母妹とばかり過ごしていたのだ。
婚約者でありながら、こうして王宮の中庭で茶会に興じるのもしばらくぶりのことだった。フィンセント自身が定例の茶会をすっぽかし続けていたのだ。
「無理に感情を見せる必要はないよ。……そうそう、学園のことなんだけど」
フィンセントは話題を変えた。
リンの身体が覚えている仮面のような笑みを見せてもらえるだけで十分なのだと自分に言い聞かせながら、会話を進める。
どんな話題を振ってもリンの返答はそつがないけれど、素の感情を見せることはなかった。
フィンセントは知っている。リンの悪夢は悪夢ではない。
すべて真実だ。
彼女の死後、ダイクストラ王国の守護神が王太子にのみ与える加護、一度だけ時間を戻す能力を使って、フィンセントが三年前からやり直したのだ。
王太子ではないのに悪夢という形でリンがやり直し前の記憶を持っていることについて、フィンセントの父である現国王はこう推測した。
『幸いにも私はその力を使うことなく即位した。これまでの王太子はみな自分が死にかけたときに力を使ったと聞く。……死にかけたのが自分だったのなら、時間を戻して生きた体に魂を宿すことで生き返れるのかもしれない。しかし前の時間で死んだ他人の魂はすでに冥府へ降っている。時間を戻しても死者の魂は戻ってこない』
リンはもう死んでいるのだ。
身体が過去に戻っても、魂は、心は死んだときから戻れない。
だから死に至る記憶が残っているのではないか、父王はそう結論付けた。
(そんなつもりじゃなかったんだ……)
フィンセントはリンを愛していた。
彼女の笑顔が好きだった。
だから、母親を喪ったリンから素の笑顔が消えてしまったことが悲しかったのだ。
(どうして、どうして僕は……)
政略結婚相手の正妻の死を歓迎して愛人親娘を屋敷へ連れ込んだ父親の態度に傷つき、母の死を悲しんでいたリンに寄り添わなかったのだろうか。
元から愛人に溺れていた父親はリンの家族とは言えなかった。
たったひとりの家族であった母親を喪ったリンが悲しみに沈むのは当然のことだったのに。
十二歳のフィンセントは子どもだった。
婚約者を案じて彼女を癒そうとするのではなく、自分を最優先してくれない彼女に怒りを覚えてしまったのだ。
リンの嫉妬や嫌悪という素の表情を見るために擦り寄って来た異母妹と親しくしていた自分の愚かさを、どんなに悔やんでももう遅い。
王太子であるフィンセントがリンの異母妹を優遇したことで、側近候補の学友達も主君の婚約者であるリンよりもその異母妹のほうを重視した。
ブライレブン公爵家の人間もリンよりも異母妹を優先するようになった。
この王国の貴族子女が通う学園の生徒達もだ。
リンの安寧を奪ったのはフィンセントの愚行だ。
父王や母王妃に注意を受ければ受けるほど、前のフィンセントは意地になった。
十五歳で入学した三年制の学園を卒業するころになって、ようやくフィンセントは気づいた。どんなに浮気を見せつけてもリンが素の表情を浮かべなくなっていたことに。
王太子の婚約者教育で身に着けた、仮面のような笑みしか浮かべないリンの心を呼び戻すには婚約破棄で大きな衝撃を与えるしかない、フィンセントはそう思った。思ってしまった。
本当に婚約破棄するつもりはなかった。
どうしようもない事情で卒業パーティの時期に外遊していた父王と母王妃が帰国したら、自分を叱り飛ばして婚約破棄を無効にしてくれると思っていたのだ。
甘かった。フィンセントはとんでもなく甘かった。
主君の行動を手本にしてリンの異母妹を重視していた学友達は、王太子の婚約者でなくなりブライレブン公爵に絶縁されたリンを投獄した。
婚約者を愛する王太子の本心に気づいていた彼女の異母妹は、自分に甘い父親におねだりして、異母姉を毒殺させた。
どんなに悔やんでも遅かった。
時間を戻す以外の選択肢はなかった。
──でも、一度殺されたリンの心は戻ってこなかった。
王太子の婚約者に対する冷遇を理由にブライレブン公爵の後妻となっていた愛人を追い出しても、王太子への不敬を理由に異母妹を神殿へ送っても、愛人親娘の管理責任を問うて公爵を領地で隠居させても、リンの心は戻らない。
時間を戻すのは王太子にのみ与えられた力だ。
フィンセントは学園入学直前の十五歳の誕生日に王太子となった。どんなに願ってもそれより以前に時間を戻すことは出来ない。
「ねえ、リン。なにか望みはない?」
「望み、ですか?」
「遠慮しないで言ってみて。これでも僕は王太子だからね、大抵のことは出来るんだ」
「……無理です」
やけにはっきりとリンは言った。
リンは動く。フィンセントの言葉に答える。
それは魂を失った身体が、覚えている動作を繰り返しているだけだ。
しかし、今の声には感情が籠っているように思えた。期待するフィンセントの前で彼女は言葉を続ける。
「私の望みはお母様とお会いすることだけなので」
「そうか……」
死人は生き返らない。
フィンセントは王太子でなかった十二歳のときには戻れない。
そうでなくても、たった一度きりの力は使った後だ。
古い記録に戻す前の時間で死んだ人間の末路が綴られていた。
魂が冥府へ降ったのと同じ時間に肉体も死ぬ。
すでに死んでいるのと同じことなので、婚姻したとしても子どもは出来ない。
やがて茶会が終わった。
リンを見送った後で、フィンセントはその場に膝から崩れ落ちた。
どんなに泣いても悔やんでも、フィンセントには二度とリンの笑顔は見られない。
★ ★ ★ ★ ★
リンの魂は冥府にあった。
つい最近まで母の魂と一緒に過ごしていたが、母は一足先に生まれ変わっていた。
とはいえ寂しくはない。
だってリンももうすぐ生まれ変わるのだ。
生きるものの世界の戻された時間が元の時間に到達したら、すぐに。
冥府と生きるものの世界は時間の流れが違うので、リンは成長した母の子として生まれる予定だと聞いている。今度は愛の無い政略結婚家庭ではなく、愛のある家庭に生まれることが出来るのだ。
新しい人生でリンは笑うだろう。
心からの素の笑顔を浮かべて幸せに生きるだろう。
だがフィンセントがその笑顔を見ることはない。