やることが多すぎて、頭がはち切れそうなアナタへ
たった60分で、恵は救われた。
あれほど追い詰められて息苦しかった頭と体に、新しい酸素が取り込まれ生まれ変わったように清々しい気分だった。
川田恵が『マッサージサロン・レナ』に立ち寄ったのは、ほんの気まぐれだった。
年々積み上がっていく仕事量に加え、働かない上司のフォローと、使えない新人の教育、顧客のクレーム対応までせねばならず、心も体も限界だった。
思わず吐き気が込み上げ、慌てて駆け込んだ会社のトイレで、誰かが捨てたチラシが目に入った。
『心と体を癒す贅沢 -マッサージサロン・レナ-』
そう書かれたチラシは、先月会社の近くにオープンしたマッサージ店のものだ。通勤中に、チラリと視界に入って気になっていた店だった。女性専用の小さな店で、入口に胡蝶蘭が綺麗な花を咲かせている。
どうしようもない閉塞感で呼吸さえ上手く出来なくなっていた恵は、藁にも縋る思いでそのチラシを手に取った。何か特別な事を期待していたわけではない。ただ、肩や背中の痛みだけでも癒されれば、少しはマシになると思ったのだ。
勢いで、2700円の『お試し30分コース』を予約した。
「こんにちは。予約していた川田です」
その日の帰り、恐る恐る真新しい白いドアを押し、恵は一歩を踏み出した。
予約の時間よりも10分早く着いてしまった。迷惑ではないかと、内心ドキドキしてしまう。
店内はこぢんまりとしていたが、大きな天窓と所々に飾られた風景画のせいか、想像していたよりも開放感があった。オレンジ色の優しい照明が、観葉植物や少し凹凸のある白い壁紙を照らしている。フロントに置かれたソファーには暖色系のクッションが並べてあり、木製のテーブルにはチューリップが飾られていた。微かに聞こえてくるBGMは、川のせせらぎと小鳥の声がした。
「いらっしゃいませ、川田様。オーナーの片岡麗奈です」
恵が店の雰囲気に落ち着いていると、奥から一人の女が現れた。長い黒髪を後ろで丁寧にまとめ上げた、背の高い美女だった。年は30代半ばくらい見える。自分と同世代の女性に、恵は内心ほっと息をついた。若い子は出来の悪い後輩を思い出し、信用できないのだ。
「えっと……どうしたらいいですか?」
恵がおどおどと、麗奈に尋ねた。
会社では『女豹』の呼び名があるキャリアウーマンの恵だが、意外にもマッサージ店は初めてだった。時間と金の無駄。そんな風に思い、毎日栄養ドリンクとマッサージチェアでやり過ごしていたのだ。
「まずはカウンセリングを行いますので、そちらのソファーにおかけになっていただけますか?」
挙動不審な恵を一目見て、こういう場所に不慣れなことを察したのか、麗奈は笑顔でソファーに誘導した。恵があたふたと上着やカバンをソファーに置いて座るのを待って、麗奈は一枚の紙とペンを渡した。
「カルテを作りますので、ご記入をお願いします。難しく考えずに、気楽に書いて下さいね」
そう言ってにっこり微笑むと、麗奈はソファーを離れ、受付の後ろでお茶を入れ始めた。
紙には名前や住所の他、現在の体の状態や病歴などを記載する欄があった。恵は少し思案した後、自由欄に『心身のリラックスがしたい』と書いた。
「よかったら、お茶をどうぞ。リラックス効果のあるハーブティーです」
「ありがとうございます……良い匂い」
「お気に召して良かったです」
恵からカルテを受け取り、麗奈は恵の向かいに座ると熟読し始めた。恵は黙ってハーブティーを口に含んだ。熱すぎず、ちょうど良い温度だ。ラベンダーの香りがフワッと鼻腔を抜けた。思わず「はあ」とため息が出て、恵は自分が思っていたよりも疲れていたことに気付き、苦笑した。
「お口に会いましたか?」
「あ、はい!」
「ふふ。良かったです。……カルテを拝見しました。ずいぶんお疲れのようですね」
カルテをテーブルに戻し、麗奈は柔らかく微笑んだ。同世代のはずなのに、麗奈の笑顔は何故か祖母を思い出させた。
「最近、きちんと眠れていますか?」
「んー。何か頭がパンパンで眠れないんですよね。中々寝付けないし、眠りも浅い感じがします」
「法律関係のお仕事ですか……忙しそうですね」
「仕事もなんですけど、プライベートも何かごちゃごちゃしてて」
恵が無意識に頭を抱えると、麗奈はそっと恵の右手をとり、両手で包み込んだ。
思わぬ温もりに、はっと恵は顔を上げた。
労わる様な麗奈の視線が、真っ直ぐに恵に向けられている。
そうですか、と麗奈は囁き、恵の手をポン、ポンと優しく叩いた。
「川田様は頑張っていらっしゃるんですね。とても」
「……っ」
頑張っている、と言われただけなのに、何故か「ぐっ」と涙腺が緩んだ。何か言わなきゃ、と思うのに、涙が零れそうで言葉が出てこなくなった。
そんな恵の様子を見て、麗奈はA4サイズの白紙と、2.5×7.5センチほどの付箋の束を取り出した。職場でも良く使っている、事務用品だ。
「川田様。私、30分程お時間が過ぎてもよろしければ、お話お聞かせ願えませんか?」
「え……でも」
「何でもいいんです。川田様が普段思ってる事とか、愚痴なんかでも。言葉に出すって、とっても大事なんですよ」
「でも……何か、頭の中がごちゃごちゃ過ぎて何言っていいかも分からないです」
「なるほど。では、その『ごちゃごちゃ』を書き出してみませんか?」
「え?」
「私も、よく頭がパンパンになるんです。そんな時は『やることリスト』を作って視覚化しています」
「視覚化? やることリストなら、私も仕事では作ってます」
「では、そのリストに書いていることと、プライベートのことも書き出してみましょう。1つの付箋に1つずつ……そうですね、仕事のことは黄色い付箋。それ以外の事はピンクの付箋にしましょう」
そう言って、麗奈は黄色とピンクの付箋の束を恵に手渡した。
「何でもいいんですか?」
「ええ。『今日の晩御飯のメニューを決める』とかでもいいんですよ」
「あはは。じゃあ……」
初めは戸惑っていた恵だったが、一つ、二つと書いていくうちに、次々と思いつき、A4サイズの用紙は付箋で真っ黄色に埋め尽くされた。
「んー。こんなもんです。とりあえず」
「素敵です。たくさんありますね」
感心したように、麗奈が「まあ」と呟いた。
「んー。とにかく、仕事でやることが多すぎるんです。一つの事をしてても、10個くらいの事を考えないと終わらないというか……」
「それは大変ですね!」
「そうなんです。やっと一つ終わったと思ったら、次の仕事が生まれてて。部下も上司も使えないし」
「あらあら。仕事って、どうしても『出来る人』の所に集まっちゃいますもんね」
「『出来る人』じゃなくて、『やってくれる人』ですよ! 私、良いように使われてるんです」
「頼りにされてるんですね。では、川田様。次はこれを整理していきましょう」
「整理?」
「はい。今書いた付箋に、優先順位別をつけましょう。大雑把で良いので、付箋の左端に、☆☆☆とか、☆とか、1、2、3、とかでも構いません。川田様の分かりやすいように識別してみましょう」
「はい」
麗奈に言われるがまま、恵は付箋にマークを付け始めた。
すると、今までごちゃごちゃと入り混じっていた感情が整理されていき、重い鉄の塊を抱え込んでいたような心が、少しずつほぐされていくような感覚がしてきた。何だか楽しくなってきて、あっという間に付け終わった。
途中、何個か星の数を減らした付箋があった。初めは重要だと感じていたことが、他のものと見比べていくうちに「そうでもないな」と思えるようになったからだ。麗奈は「客観的に見られるようになった証拠ですね」と褒めてくれた。
「では、次に付箋の右端に、そのことにかかる時間や締切日を書いてみましょう。例えば……その星が3つ付いている『A社との打ち合わせ資料作成』ですが、締め切りはいつですか?」
「3日後です」
「あとどのくらいで完成しそうですか?」
「7割はできているので、集中すれば2、3時間ですね」
「素晴らしいです! では、右端に3日後、3時間と書きましょう。そんな感じで、他のも大まかに書いてみてください」
「はい」
恵が没頭している間、麗奈は別の香りのするハーブティーを入れてくれた。柑橘系のスッキリとした味わいが、明るい気持ちにさせてくれる。
「これも美味しい!」
「ふふ。川田様には『香り』を使ったリラックス方法が向いているかもしれませんね。鼻から、ゆっくり香りを堪能すると、自然に呼吸が深くなりますでしょ? 今まで、鼻の辺りで止まっていた香りが、お茶の温かさと一緒に体全体に広がるイメージで呼吸してみてください」
「はい。……はぁ。何だか、満たされていく感じがします」
「いい表現ですね! 素敵です」
麗奈は良く褒めてくれる。
恵は「えへへ」と胸の辺りがくすぐったくなるのを感じた。
「はい、出来ました!」
「はい。では、次は並べ替えですね。優先順位の高いもの、緊急性の高いもの、時間がかかるものを上から貼っていき、だんだんランクを下げていきます」
「はい……これと、これは同じくらい大事なんですけど、横に並べていいですか? あと、黄色とピンクが混在しても?」
「もちろんです。この紙は、川田様の頭の中を視覚化したものですから、川田様の思うように並べてください」
「はーい」
こうして麗奈の方法で『やることリスト』を並べていくと、今まで自分が作っていた『やることリスト』がただの箇条書きだったことが分かる。書き出せば書き出すほど焦りが生まれ、息苦しくなっていた。しかし、こうして重要度別に並べてみると、意外に余裕がある事が分かってきた。
何となく出来そうな気がしてきて、久しぶりに気分が高揚してきた。
「出来ました」
「いいですね! ふふ。最後は『足の爪を切る』なのが可愛いですね」
「だって、今日じゃなくても誰にも迷惑かけないし、1分で終わるし」
「そうそう。その感覚は大事ですね。『きーっ! 爪も切らなきゃいけないのに!』なんて思ってると、それだけでストレスになりますから」
「あはは。『きーっ』って、久々に聞きました」
「あら、恥ずかしい!」
くすくすと笑ってから、麗奈は「では次に」と付箋だらけの紙をトントンと指で叩いた。
「今度は、自分しかできないことと、人に任せてもいいことで左右に分けましょう」
「え!? 全部、自分の仕事ですよ?」
「ふふ。そうですね。でも、例えば『夕飯を作る』は、『外食する』や『コンビニで買って帰る』にも置き換えられるでしょう? 自分で作る必要は無いんです」
「あ……」
目からウロコだった。確かに、そう考えると他の項目も別の見方ができてくる。
例えば、『後輩の指導』は自分が上司から指示された仕事だが、一から十まで一人でやる必要はないように思えてきた。暇な上司にお願いできる部分もあるはずだ。
それに、『打ち合わせ資料の作成、コピー、会場の準備』も、コピーや会場の準備は上司や部下に任せてもいいはずだ。その分、資料作成の時間は減るが、気持ちは楽になる。その資料作成だって、データ整理や誤字脱字のチェックは他の人に任せていいはずだ。
今まで、何でもかんでも一人で抱え込み過ぎていたのだ。キャパシティーがオーバーするのも当たり前だ。完全に任せられる相手がいないのは残念だが、少しずつでも仕事を振って一緒にやっていかなければ、自分も壊れてしまうし、部下も育たない。
仕事は、チームでやるべきなのだ。
恵はこれまで、自分の忙しさを仕事の出来ない上司や部下のせいにしていた。
だが、勝手に仕事を抱え込み、自分で自分の首を絞めていたことにやっと気が付いた。上司も部下も、敵ではないのだ。
「……できました」
「はい。頑張りましたね。とても素敵な『やることリスト』が出来ましたね。こうしてみて、何を感じますか?」
「今まで、一人で戦ってきたんだなって……反省しました」
「ふふ。川田様は責任感が強くて、真面目な方なのですね。それはとても素晴らしい性質です。でも、こうして整理してみると、本当に頑張らないといけない事って、意外に少ないんだって思えてきませんか?」
「思いました! それに、あんなにパンパンだった頭がすっきり軽くなった気がします」
「ふふ。この用紙は、川田様の頭の中を視覚化したものです。川田様は、今までずっと暗算をしていた状態だったんです。それを紙に書いて、解いてみた。だから、頭の中で計算に使っていた部分に余裕ができたんですよ」
「ありがとうございます! 本当に……心が軽くなりました」
「良かったです! あとはこれの使い方ですが、実は、優先順位の高いものからする必要はありません」
「ええ!?」
「このリストの目的は、頭を整理して状況を把握することです。1分で終わる爪切りを、さっさとやってしまうのも手です。そして、やり終わったら付箋を消していく。付箋を剥がして捨てても良いですが、私のお勧めは、『付箋は残して中身を二重線で消す』方法です。そうしたら、自分が何をしたかが明確になりますでしょう? 達成感が段違いですよ」
「なるほど! そうします」
恵が素直に頷くと、麗奈は嬉しそうに笑った。
だが、すぐに「すっ」と真面目な顔になった。
「さて、本番はこれからですよ?」
「へ?」
まだ何かあるのかと、恵はポカンと口を開けた。
麗奈は「ふふ」と口角を上げた。
「マッサージですよ。今度は体をほぐしていきましょうね。さあ、奥の部屋にどうぞ」
「……はい! よろしくお願いします!」
恵は晴れ晴れとした笑顔で、勢いよくお辞儀をした。
そうして30分後。
身も心も癒された恵は、何度も礼を言って店を後にした。
恵の姿が見えなくなるまで、麗奈が手を振ってくれていたのが印象的だった。
今夜は、奮発してデパ地下でお惣菜を買って帰ろう。
帰ったらお風呂に高い入浴剤を入れて、ゆっくり浸かろう。
久々にパックをして、軽くヨガでもしようか。
今日は早く寝よう。
そんな事を考えながら、恵は月に向かってジャンプした。
自分が頭がはち切れそうになった時にやっている方法を文章化してみました。
仕事に追われる社会人、家事に追われる主婦や主夫の皆さま、勉強に追われる学生さんにもお勧めです。
面白かったら評価いただけると幸いです。
シリーズ化できたらいいなと思ってます。