騒動後の顛末(後)
バルバロイの神殿を出たヴリンダは、識神の神殿へと足を向けた。
彼女がバルバロイの神殿前の広場から門へと向かう間に多くの人とすれ違う。
すれ違う人々の顔は皆おなじように暗い。
アンジェラの死を悼むために出向いてきた人々のようだ。
夫であるデビッドが魔堕ちしたという話は、既にエルトーラじゅうに伝わっているはずで、ともすれば忌避感から排斥の対象になる可能性すらあったというのに。
だが彼女に対するエルトーラの民の信頼は、その忌避感を遙かに上回るものだったようだ。さすがに筆頭巫女だけのことはある。
神殿広場の門を抜ければ識神の神殿はすぐ近い。
エルトーラは街の建設当初から区画を明確に分けて建設されていたので、多くの神殿が近場に纏まっているという珍しい都市でもあった。
識神の神殿は敷地面積でいえば闘神の神殿の半分ほどだが、神殿前の広場が無いぶん建物の面積としては闘神の神殿と遜色ない。また、地下にまで及ぶ書架の並ぶ部屋があるので、総面積でいえば闘神の神殿より大きいだろう。
ヴリンダが識神の神殿が見える場所までやってくると、神殿の入り口へと続く階段に小さな影が見えた。
「ヴリンダさま!」
小さな影はヴリンダを確認すると、懸命に駆け寄ってきた。
「どうしたのですかリル。そんなに慌てたら転びますよ」
リルはヴリンダの忠告の言葉を言い終えぬうちに、石畳につまずき転がりそうになるが、何とか体制を立て直し彼女の胸に飛び込んだ。
「ヴリンダさま! 私、あっ、あの、あの……、結局あのあと顔を合わせることができなかったので、その、心配で心配で」
顔を上げたリルには涙が滲んでいた。
ヴリンダは愛おしそうにリルの頭を撫でる。
「ごめんなさいリル。上の者達には大まかな通達したのですが、あなたにも連絡しておくべきでしたね」
ブリンダは、リルを優しく抱きしめる。
「……お別れを云いにきました」
ビクリ、とリルの肩が揺れる。
「………………」
「……ここでは、できぬ話もありますし場を移しましょう」
やさしい、それはとてもやさしい声音で、それを発したのが戦女神であるとは、かの神を知るものには理解すらしえないものだったろう。
ヴリンダに促され、ふたりは連れだって識神の神殿へと入っていく。
識神の神殿の一室、ヴリンダが滞在している部屋でふたりは向き合った。
「この場ならば、大丈夫でしょう」
この部屋は、今回の件を調べるために識神の神殿に留まることをブリンダが決めたとき、識神の神職たちが結界の強化をした部屋だ。
「………………」
「…………」
「……幸せな日々でした。いままでの私は、戦の神として地上に降臨するのは、戦禍にまみれた血なまぐさい場所ばかりでした。魔と戦うことが多かったのですが、人々の醜さもまた多く目にしていたのです。いま考えるとそのことが影響していたのでしょう。長らく地上の出来事は眷属の戦女神たちに見て回らせて、私は報告を受けるだけでした。今回も魔の者が関わってはいましたが、戦の無い平和な場所に降臨し、地上の者達の平時の生活を、この目で見ることもできました。そしてリル、あなたに出会えたことが私の心にどれほどの安らぎをくれたか……」
ヴリンダは言葉を切ると、普段の戦女神としての凜とした雰囲気に少しだけ弱気な気を滲ませた。それは弱気というよりは未練だったかもしれない。
「あなたの返事は分かっているつもりです。――ですが最後にいまいちどだけ、あなたに問うことを赦してください。リル……私の巫女になってくれませんか?」
「………………」
静寂が満ちるなか、涙目だったリルが真っ直ぐにヴリンダに視線を向ける。そこには、決意の色が見える。
「やはり私、識神さまの巫女を辞めることはできません。ヴリンダさまのお申し出は正直嬉しいです。……でも私はただただ知識欲が強いだけで、戦女神の巫女としては、ヴリンダさまのお役に立てないと思うのです。でも、識神さまの巫女としてならばきっと天上の方々、そして、ヴリンダさまのお役にも立てると思うのです」
リルの返事にヴリンダは目を瞑り、その後清々しそうに笑顔を返した。
「……リル励みなさい。そうすればいずれまたまみえることができるかも知れません。最後にリル、――あなたには、私の神名を告げましょう。我が名はヴリュンヒルデ。天界の戦女神たちを束ねる女神です。どうしても私の助けが必要なことが起きたのならば我が神名を呼びなさい。リル、あなたとの友誼にかけて、いかなる時、場所にでも駆けつけましょう」
「ヴリュンヒルデさま!」
ふたりは、暫しのあいだしっかりと抱擁を交わした。
◆◇◆◇◆◇
剣闘士デビッドの使徒化による討伐の報がエルトーラに衝撃をもって伝えられた日。
エルトーラの民は、数々の異変を目撃していた。
ある者は、地上から天へと、逆に立ち上る稲妻を。ある者は、天に昇るペガサスに乗る騎士型の閃光を。またある者は、光球が都市の上空から東へと飛び去るのを。
人々はその日の異変に、「使徒デビッドを勇者が現れ斃したのだ」「いや、神々が裁きの雷を下したのだ」「いや、未確認飛行物体がキャトルミューティレーションのためにやって来たのだ」など、真偽不明の噂話に花を咲かせた。
しかしそんな噂話も、半年も過ぎれば人々の口の端に上ることも少なくなるだろう。
だが……その日の夜。エルトーラの闇の中で起こった異変。それを目にしたものはただの一人も居なかった。
ボコリッ――と、地面が盛り上がった。
その場所は、昼の騒ぎが起こったコロッセオの試合場だ。
ヴリンダが空間を遮る防御結界を張ったものの、その結界さえも震わしたヤマトの闇の気のおかげで、コロッセオには大小の数知れないヒビが入ったた。その為に人の出入りは禁止されていた。
盛り上がった地面はモコモコと人ひとりほどの大きさまで高くなると、その上部に穴が開き黒い粘ついた泥のような物体がせり出してきた。それはまるで火山から溢れでるマグマのようだ。
「……う゛ぁ……」
その黒い泥は地面からドクドクと吹き出し小山の下に黒い泥だまりをつくりだす。
黒い泥が小山の噴火口から生き物のように全て出きると、モゴモゴと蠕動し、しだいに人の形をとっていった。
「ふぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
それは、まるで絶頂をむかえる寸前のような喘ぎ声。
そんな淫蕩さをもった声だった。
「凄いですわぁ……」
快楽に酔った呟き。
黒い人型はその形を整えて、見事な造形の女体を創りだした。
「……ワタシのカラダ、その総てが犯された。……まさに蹂躙ですわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
視線をボーッと漂わせ、どこを見ているのか――銀光が滲む赤い瞳を持つ顔からは、しだいに黒みが抜け艶のある白すぎる肌に変質してゆく。
「あの方の持つ闇……あの方の心の奥底に沈む無限の闇の泥濘……魔神など問題ではありませんわぁぁぁぁぁ……」
魔神の使徒ルチア、その場に現れたのは間違いなくヤマトによって塵芥のごとく切り刻まれたルチアであった。
「欲しいッ! 欲しいですわあのお方……。あのお方は――きっと、きっとこの醜い世界を滅ぼしてくれる。あぁぁ……愛しい――愛おしいヤマトさま……あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁ…………!」
白蛇を連想させる、その白すぎるそのカラダを自ら抱きしめ、ルチアは絶頂を迎えたように細かく痙攣した。
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