第81話 夜行性
勢いのままに階段を駆け上がった男は、そのまま屋敷の玄関に向かおうとするが、あえなく進路変更を余儀なくされる。
エントランスに、武器を携えた大勢の兵士が待機していたのだ。
そんな只中に、私を抱えた男が飛び出てきたのだ、当然、兵士たちの注目はこちらに注がれる。
私達と兵士達が見つめあう一瞬、エントランスに沈黙が漂った。
唯一、私を抱えている男だけは、しきりに周囲の様子を確認している。
その直後、私達の背後から、地鳴りと共にジャックの怒鳴り声が鳴り響いてくる。
「そいつらを捕まえろぉ!」
「さっきので、そのまま突っ切れないの!?」
怒鳴り声に焦りを抱いた私は、足を止めたままの男に向けて叫ぶ。
というか、いつまで私はこの男にお姫様抱っこをされなければならないのだろう。
そんな考えが頭の中をよぎるが、男は決して私を離すつもりは無いらしく、抱える両腕にギュッと力を込めた。
「やっても良いんだけど、おじさんにはもう少しやることがあるから、逃げるのはその後だ。少し飛ぶぞ、捕まってろ」
先ほどの怒鳴り声で我に返った兵士たちが、なだれ込むように私たちを取り囲みだしたその時、男はそう呟く。
同時に、大きく一歩を踏み出した男は、まるで風に乗るように、宙へと舞い上がってゆく。
高い天井付近まで飛び上がった男は、まるで滑空するように降下を始めると、二階の手すりに着地した。
その間、兵士たちが唖然としながら私たちを見上げていたのは、男が魔法を使ったからではない。
いつの間にか、男の背中に一対の巨大な蝶の羽が生えたからである。
「え~っと、どの辺がいいかなぁ」
「ちょ、ちょっと、あなたの身体、どうなってるの?」
「ん? おじさんの身体? 何? 興味あるの? それじゃあ、ここから逃げ出した後、じっくりと教えてあげようかな。具体的にどの辺が知りたいんだい? ほら、言ってみて?」
「急に酔っぱらったおっさんみたいな顔で、そんなこと言わないでもらえる?」
「辛らつだなぁ……まぁいいや。とりあえず、屋敷の上に向かうぞ」
「待て!」
手すりの上で悠長に会話をしている間に、大勢の兵士とジャックが、階段を駆け上がり始めていた。
特にジャックは、その強靭な脚力で跳躍したかと思うと、壁に貼りつき、勢いのまま二階へと昇ってくる。
「ちょっと! 早く逃げて!」
「大丈夫だって」
「なんでそんなこと言えるのよ!?」
「なんでって、さっき君が言っただろ?」
手すりの上で余裕をかましている男がそう言うと、男の言葉を証明するかのように、ジャックが短い悲鳴を上げて階下へと落下していった。
何が起きたのかと周囲を見渡した私は、先ほどと同じ光景を目の当たりにする。
「……さっき、消されてたはずじゃ?」
完全に同じ姿の男が、二階の廊下にうじゃうじゃと姿を現す。
人数で言うと、10人は軽く超えているだろう。
「酔っぱらってるわけじゃないが、こんな面倒くさいおじさんが、これだけいるんだ。流石のジャック・ド・カッセル様も、簡単には上がって来れないさ。何しろ、おじさんの絡みってのは、全国共通、面倒なものだからな」
男の言葉を聞いた分身たちは、やれやれといった感じで肩を竦めてみせると、各々で動き出した。
言葉を発するわけではないし、彼らが完全に同じ動作をしているわけでもないのだが、その仕草一つ一つに妙な共通項を感じてしまう。
「さてと、そこの窓で良さそうだな」
階下に降りてゆく分身たちを見送ることもせず、男は手すりから降りると、二階の廊下を歩きだした。
適当な窓の前に立ち、私を抱えたまま無理やり窓を開けた男は、頭だけ窓の外に出すと、東の方を確認し始めた。
つられて東の城壁の方を見た私は、あまり見慣れない魔法を目にする。
その姿はまるで、稲妻のような。まさに、雷と言っていい光の軌跡が、うす闇の空に走ったのだ。
遅れてゴロゴロと音が鳴るあたり、本当に雷なのだろう。
「やってるなぁ……でも、そろそろ限界か? ……これは急がないといけないな」
なにやらぶつぶつと呟いた男は、私を抱えたまま窓から身を乗り出すと、先ほどと同じように、魔法で宙に浮かび上がる。
そうして、屋敷の屋根の上に着地した男は、ようやく抱えていた私を降ろしてくれた。
屋敷の中からは相変わらずドタバタと音が聞こえる。
しかし、私はそれよりも興味深いものを、ゼネヒットの空に目にしていた。
何やら巨大な白い翼を背中に生やした何かが、建物の隙間を縫って飛び上がったかと思うと、東の城壁に向かっていったのだ。
薄闇の中を飛んで行くその姿は、どこか幻想的で、きれい。
そんな場違いなことを私が考えた瞬間、隣に立っていた男が勢いよく右腕を空に掲げた。
男が伸ばした指先から漆黒が広がり始め、次第にその漆黒は私だけでなく街全体を覆ってしまうほど巨大に膨れ上がってゆく。
「なにが……?」
「夜を呼んだのさ。その方が、きれいに見えるからな。どうせ見るなら、きれいな方がいいだろ?」
男がそう告げるとほぼ同時に、私たちが立っていた屋敷の窓という窓から、大量の蝶が飛び出し、真っ暗な空へと昇ってゆく。
そうして、空に昇った無数の蝶たちは、巨大な虹色の蝶へと成り代わった。
幻想的なその光景とつい今しがた男が言った言葉を反芻しながら、私は先ほど牢屋の中で見た光景のことを思い返す。
あれは、夢なんだと思っていた。
けれど、そうではない。
この男が、私に見せた、幻だったのだ。
騒ぎのせいであまり深く考えることができていなかった事実に、私が気が付いた瞬間、屋根の縁に、巨大な獣の手が現れる。
そうして屋根の上に這い上がって来たジャックは、空に浮かぶ蝶を一瞥し、男に問いかけた。
「お前は何者だ? 何が目的だ?」
「……名前も名乗らないのは失礼だったな。おじさんはヴァンデンスってんだ。よろしくな。目的については、たぶん教えなくてもすぐにわかると思うけど……まぁ、ジャック・ド・カッセル様には特別に教えて差し上げよう」
空に振り上げていた腕をだらりと降ろしたヴァンデンスは、パンッと手をたたいて見せると、西の方を両手で指し示した。
「騎士様がご存じの通り、ハウンズは大量の武器を取り扱ってる組織だ。西に大きな武器庫があるよな。その中には、都市殲滅用の怪物も含まれている」
「それが……っ!?」
ヴァンデンスの言葉を聞いたジャックが、苛立ちを込めて食って掛かろうとしたその時、街中に猛々しい雄たけびが鳴り響いた。
腹の底に響くようなその雄たけびに、私は全身を強張らせてしまう。
それもそのはず。
私はこの雄たけびを何度も聞いたことがある。
基本的に私が呼ばれる場所というのは、特に悲惨な戦争の現場であることが殆ど。
なにしろ、国やハウンズから供給される治療薬では不足している場合のみ、私達が派遣されるのだから。
だからこそ、その先々で耳にするこの雄たけびの恐ろしさを、私は何度も目にしてきた。
恐れ慄く私と、茫然と西を見るジャック。
そんな私達の様子を見てニヤケて見せたヴァンデンスは、ゆっくりと告げたのだった。
「焔幻獣ラージュ。……確か奴は、夜行性だったよな?」