第245話 取り残された
人間と言う生き物は、物を忘れる生き物である。
言い方を変えるなら、慣れる生き物とでも言うべきだろうか。
どれだけ幸せな環境に居ても、どれだけ辛い環境に居ても、ある程度の日数を経てしまえば、なぜか慣れてしまうのだ。
ましてや、目まぐるしく変化する環境の中に居れば、毎日感じる屈辱ですら心地よく思えてしまう。
それは私も例外では無いらしい。
町の防衛戦から始まり、ウィーニッシュが霊峰アイオーンに修行に出て、帰って来たかと思えば、ゼネヒットを奪還してしまった。
そこでようやくひと段落着いたかと思えば、雹幻獣ネージュの到来。
本当に慌ただしい時間が、私の周りでは流れている。
果たして、そんな時間の中に取り残された私のことを覚えていた人間は、どれだけいるのだろう。
少なくとも、とある人物だけは、私のことを覚えているようだった。
「ジャックさん。入りますね~」
いつも通りノックをした後、ゆっくりと扉を開けたその女性は、にこやかな表情を浮かべたまま部屋へと入ってくる。
彼女の手元には、とてもいい香りのするスープが抱えられていた。
私、ジャック・ド・カッセルは、ウィーニッシュ達を捕まえるために街を襲撃した際、あっけなく囚われてしまったのだ。
情けない。本当に、情けない。
エレハイム王国の魔法騎士ともあろう者が、こうして小さな部屋の中に囚われている。
掴まった当初は、何度もこの部屋から逃げ出そうとしたのだが、私の作戦は全て上手く行かなかった。
原因は分かっている。
この部屋のどこかに、小さな蝶が1匹隠れているのだ。
そんな蝶は、私が逃げ出そうとする度に目の前に現れ、一瞬にして私の意識を奪ってしまう。
幻覚魔法の類だろうか。まるで滑り込むように私の意識に入り込んだ蝶が、温かな眠りへと誘うのだ。
何度繰り返しても上手く行かない脱出に、私はついに諦めを抱いてしまった。
その頃からだろうか、この女性、セレナが私に食事を運んでくるようになった。
彼女はいつも、両手を縛られている私に食事を与えながら、様々な世間話をしてくる。
まぁ、一方的に彼女が話しているだけだが。
全くこちらを警戒していない彼女の様子を見て、初めはナメられていると憤ったものだが、今となってはそのような毒気は抜かれてしまった。
「ジャックさん、今日もトレーニングしてたんですか? 両手を縛られているのに、良く出来ますねぇ。私なんて、そんなことしたらウィーニッシュに『怪我するからやめなさい!!』って怒られちゃいますよぉ。あ、そうそう、そういえば……」
ベッドに腰かけている私の前に、小さな丸テーブルを運んだ彼女は、スープの入った皿をその上に乗せた。
その間も、延々と話を続ける彼女の言葉に、深い意味などない。
今までの経験からそう思っていた俺は、不意に投げかけられた言葉を耳にして、目を見開いた。
「ジャックさん、この食事が終わった後、少し時間を頂けますか?」
「……?」
「まだトレーニングしたいかもしれませんけど、どうしてもお話したいことがあるんです」
「話? 話なら、いつも通り勝手に話していればいいだろう?」
「ん? そんなことを言うんですか? ジャックさん。私を怒らせたら、ご飯抜きですよ? 良いんですか?」
「す、すまない」
「よろしい。で、大丈夫ですよね?」
「あ、あぁ……」
「よかったぁ。それじゃあ、は~い、口を開けて~」
有無を言わさないセレナの圧に押された私は、やむを得ず彼女の提案を呑んだ。
それにしても、話とは何だろう。
こんなことを彼女が提案してくるのは初めてだ。
そんなことを考えながら、セレナの持っているスプーンをぎこちなく咥える私は、スープを飲んだ。
ほぼ毎日出されるこのスープは、庶民の食事にしては旨い。
とはいえ、具は野菜や魚ばかりなので、少しばかり物足りない感は否めなかった。
ここから抜け出した暁には、肉や穀物を目一杯食べよう。
ささやかな願望を胸に刻みながら、淡々とスープを飲んだ私は、いつも通り食事を終える。
これまたいつも通り、あたふたと食器類を片づけたセレナは、そのまま扉の外へと出て行ってしまった。
そして訪れる沈黙。
いつもなら食後の休憩を挟んで、できる限りのトレーニングを開始するところだが、今日はそういう訳にもいかない。
セレナの話とは何なのか。
その疑問で頭の中がいっぱいに埋め尽くされてしまった私は、何をするでもなく、ボーっと壁を眺めてしまっていた。
そうして、どれくらいの時間が経ったのか分からないが、扉の向こう側から足音が聞こえ来る。
ついに来た。
そう思った私が、ゆっくりと開く扉に目を向けた時。
ウィーニッシュが部屋の中へと入ってきた。
「久しぶりだな、ジャック。元気にしてたか?」
そんなことを言って部屋に入り込んでくる彼の後ろには、にこやかなセレナが立っていた。
いつもセレナの話を聞かされていたので、私は知っている。セレナはウィーニッシュの母親だ。
そんな親子が揃って、私に何の用があるのだろうか。
正直、流石に敵の総大将と言っても良いウィーニッシュと、話をするつもりにはなれない。
ましてや、ウィーニッシュは私をここに捕えた張本人なのだ。
久しぶりに見たウィーニッシュの姿に、思わず怒りを覚えた私は、彼を睨みつけながら応える。
「ウィーニッシュ……何しに来た?」
そんな私の鋭い視線に、一瞬苦笑いを浮かべた彼は、頭をポリポリと掻きながら告げたのだった。
「いや、ちょっと、ジャック・ド・カッセル様に手伝ってほしいことがあってだな……」