第231話 当たり前の一日
長かった。
街中から響き渡って来る叫び声を聞きながら、俺はそう思った。
記憶だけで言えば、俺は前回の人生の記憶の分も含めて、様々な困難にぶち当たって来たのだ。
それらを乗り越えてようやく、目標への大きな第一歩を踏み出せた気がする。
未だに街中から飛来してきている無数の蝶を眺めた俺は、流れるように視線を移動させて、眼下にいるバーバリウスを見た。
半ば呆けてしまっている様子の彼は、俺と目が合ったことに気が付くと、表情に苛立ちを滲ませる。
そんな彼を見た俺は、ジップラインを駆使して少し高度を下げると、バーバリウスに向けて語り掛けた。
「さて、これからどうする? どちらかが全滅するまでやり合うか? それとも、交渉でもするか。どっちが良い?」
「交渉だと?」
俺の言葉を聞いたバーバリウスは、少し怪訝そうな表情で呟いた。
この状況で何を交渉するのか、と彼は言いたいのだろう。
確かに、俺が全力を出せば、このままバーバリウス諸共ハウンズを叩き潰すことはできるかもしれない。
だけどその場合、街や俺達側への被害も相当なものになると考えた方が良いだろう。
それは出来るだけ避けたい。
なにしろ、ゼネヒットを奪い取ることが俺達の最終的な目的じゃないからだ。
対するハウンズ側は、とりあえずバーバリウスさえ逃げ切れば、いくらでも立て直す術があると考えておいた方が良い。
その術とは、さっき聞いたフィリップ団長の件だけじゃない。魔法騎士達も含まれるんだ。
ハウンズが国の後ろ盾を持っている以上、今後俺達は国を相手取った戦いまで考える必要がある。
と言うか、もうそれは避けることができない気がする。
更に言うなら、十中八九フィリップ団長と魔法騎士団は協力して俺達に襲撃を仕掛けてくるだろう。
その時になって、迎え撃つだけの準備が整っていない状況が、想定される最悪の状況だ。
だからこその交渉。
今の俺達が最も優先すべきなのは、安定した拠点の確保と、戦力の保持。
このタイミングで多くの犠牲を出すのは得策じゃない。
正直、本当にこのやり方で良いのかまだ迷ってるけど、ここ数日の間にみんなと話し合って決めたことだ。
今更足を止めるわけにもいかない。
そう思った俺は、意を決してバーバリウスに交渉を持ち掛けた。
「そうだ、交渉だ。今すぐにハウンズと魔法騎士がこの街から出て行くのなら、俺達はその撤退を邪魔しない」
「……」
ありがちな俺の提案を聞いたバーバリウスは、少しだけ目を細めると、考え込み始めた。
多分、俺の考えを読もうと思考を巡らせているんだろう。
そんなバーバリウスの返事を待つために、俺は黙ったまま待つ。
そうこうしている間にも、街中の騒動は激しさを増していった。
どれくらいの時間が経っただろうか。俺が流石にこれ以上は待てないと考え始めた頃。
ようやく考え終えたらしいバーバリウスが、深いため息を吐きながら告げる。
「良いだろう。その交渉、乗ってやる」
「乗ってやる? まぁ、いいや。それじゃあ、すぐにでも衛兵を撤退させてくれ。それと、アンナも聞いてただろ? この場はとりあえず穏便に、撤退してくれ」
「……分かったわ」
こうして、後に『息吹の夜』と呼ばれるこの騒動は幕を下ろす。
ハウンズの構成員と魔法騎士達の撤退が迅速に進み、完全に姿を消す頃には、街を覆い尽くしていた闇も薄れていった。
そして、彼らから街を奪い取ったことを実感したゼネヒットの住民達は、翌朝まで騒ぎとおしたという。
街のあちこちで、ハウンズの施設から見つかった酒が振舞われる。
奴隷として働いていた者たちも、酔っぱらいの群衆と化した住民達によって次々に解放された。
そんな光景を、夜通し塔の上から見下ろしていたウィーニッシュは、縁から足を降ろして座った状態のまま、背後にいるアルマに語り掛ける。
「なぁアルマ、ヴィヴィ。改めて言わせてくれ。助けるのが遅くなって、本当に悪かった」
俺の言葉を聞いたアルマは、一度、ヴィヴィと視線を交わしてから、返事を口にした。
「あなたが謝るような事じゃないと思う。それに、まだ安心するのは早いと思うわ」
「それもそうだな」
手厳しいアルマの返事を聞きながら、シエルとのリンクを解いた俺は、大きな深呼吸を1つ、零した。
彼女の言うことは正しい。
だけど、大きな仕事を1つ片づけることができたのも、また事実だ。
『これからのことについては、皆で一緒に考えていこう』
どこか楽観的に考えた俺は、ふと、ヴィヴィに視線を投げた。
アルマの隣で不安そうな表情を浮かべているヴィヴィは、俺と目が合うと同時に首を傾げてみせる。
アルマのバディであるヴィヴィは、フェニックスだ。
だからこそ、今までに沢山の苦難に見舞われてきたんだろう。
そして、その苦難の記憶があるからこそ、これから先の未来においても、真に安心することはできないのかもしれない。
出来る事なら、ヴィヴィの持っているそんな不安を断ち切ってあげたい。
あまりにも傲慢なその願望をグッと飲み込んだ俺は、眼下に広がるゼネヒットの街を見下ろしながら告げた。
「ゼネヒットって、結構大きい街だよなぁ……。俺さぁ、正直に言うとこの先上手くやっていけるか、ちょっと自信が無いんだよ」
「ニッシュ……」
俺の言葉を聞いたシエルが、少し心配そうな表情で呟いた。
アルマやヴィヴィ、そしてゲイリーはそんな俺達の会話を聞いて、沈黙する。
その場にいる全員の気持ちが、少しだけ落ち込んでしまったのを感じた俺は、慌てて言葉を付け足した。
「大丈夫だぞ。ここまできて、全部放り出したりはしないから。それに……」
そこで言葉を区切った俺は、改めてアルマとヴィヴィを見つめて告げる。
「方法とか経緯はどうあれ、事実として、2人はこの街どころか国中の人々を救ってきたんだよなぁ……。俺も救われた人間の内の1人だし。だから、お願いがある。俺達と一緒にこの街の運営を手伝ってくれないか? 涙じゃなくて、笑顔で誰かを助けたいんだ」
「涙じゃなく……笑顔で」
何かを噛み締めるように、小さな声で呟いたアルマ。
彼女は少しだけ考え込んだ後、うっすらと微笑みを浮かべながら頷いた。
そうして、彼女が何かを放し始めようとしたその時。
唐突に、俺の足元の方から声が響いてきた。
「少年の言う、『涙じゃなくて』っていうのは、ヒック! フェニックスの涙にかけてるんだよなぁ。ハウンズの目玉商品だったしック! ぷはぁ~」
そう言いながら姿を現したのは、酒瓶とコップを両手に持ったヴァンデンスだった。
彼はフラフラと浮遊しながら俺達の居る塔の上に着地すると、手にしていたコップの中身を一気に飲み干す。
「うぃ~。だぁ~!! 野外で飲む酒は格別だねぇ~ック。どうしたどうした少年、飲んでるかぁ!?」
「師匠……あんたはやっぱり禁酒するべきだと思うよ」
「何を言うんだ!! おじさんから酒を取ったら何が残ると言うんだい!?」
「酒を持ったせいで他の全てが吹き飛ばされちゃってるのよ!! ったく、ニッシュ、この酔っぱらいは無視して、早くこの塔から降りるわよ。酒臭いったらないわ」
やたらと辛らつな言葉を吐き捨てるシエル。
思わず苦笑いを浮かべてしまった俺は、くすくすと笑う声に気が付いた。
どうやら、アルマとヴィヴィがヴァンデンスを見て笑っているらしい。
思わぬ笑顔を目の当たりにした俺は、ヴァンデンスの酒癖もたまには役に立つんだと考えながら、空を見上げる。
東の空が少しずつ白み始めており、ゆっくりと朝が近づいている気がした。
きっと、この夜が明けたら昨日までとは違う一日が始まる。
その一日をどうやって生きていくのか、決めるのは俺達だ。
なんて事のないその当たり前の一日を、ようやく掴み取ることができた気がして、俺は静かに笑ったのだった。