第228話 お互い様
腹の底の深いところから絞り出すように、私は冷気を放ち続けた。
空気を凍てつかせるその冷気は、私の身体を伝って足元に降り、まるで流れる水のように周囲に広がってゆく。
とはいえ、その流れは川と言うより濁流のようなものだ。
膨大な量と荒々しい勢いで放たれる冷気が、私と対峙しているサラマンダー目掛けて伸びてゆく。
しかし、そんな冷気の濁流がサラマンダーの元へ到達することは無かった。
なぜなら、私の冷気に対抗するように、サラマンダーが口から業火を放っているからだ。
おまけに、奴の身体に近づくほどに、猛烈な熱気がその勢いを増してゆく。
必然的に、私は少しずつサラマンダーの熱気に圧され始めていた。
まるで、私諸共この武器庫全体を覆い尽くしてしまうような業火が、ついに頭上にまで広がってくる。
その様子を視界の端で確認した私は、更に冷気の出力を上げた。
それでも、まだまだ勢いが足りないのか、確実に、冷気が熱気に圧し負け始める。
前に突き出している両手の指先がチリチリと痛みだし、指先から肘、そして、二の腕へと痛みが伸びて来る。
このままじゃ、焼かれてしまう。
胸の内に湧き上がってくるそんな弱気な考えを、私は無理やり吹き飛ばした。
私にはまだ、やるべきことがある。
ハウンズの策略に掛かって死んでいった皆、父様や母様、それにヘルムート様にマリーおば様。
そんな彼らの復讐を果たすことができていない。
それに、今の私にはそれ以上に守りたいものが沢山できてしまった。
死にたくない。死ぬわけにはいかない。死んでたまるもんですか。
全身から噴き出て来る汗が、一瞬にして蒸発してしまうような熱気の中、私は更に冷気の威力を強めようとした。
その瞬間、胸元に強烈な痛みが広がる。
その痛みは、胸の内の深いところから響いて来ていた。
まるで、心臓を鷲掴みにされたようなその痛みに耐えながら、私は身体を酷使する。
刹那、私の耳に、か細い声が聞こえてくる。
「メアリー。逃げようよ」
いつの間にか胸元から肩に上がってきていたらしいルミーが、そう語り掛けてくる。
そんなルミーに対して、私は言った。
「嫌ですわ」
「メアリー。隠れようよ」
「絶対に嫌ですわ!!」
「メアリー。このままじゃ本当に死んじゃうよ」
「そんなの、絶対にお断りですわ!!」
叫ぶために吸い込んだ空気が、肺を焼く。
そのせいで、咳込んでしまいそうになった私は、ほんの一瞬、冷気の勢いを弱めてしまった。
その隙を狙っていたかのように、私を包む熱気が急激に勢いを増してゆく。
慌てて冷気の勢いを強めようとしたその瞬間、耳元でルミーが囁いた。
「メアリーって、結構わがままなのね」
その囁きを聞いた瞬間、私は体中の痛みが一気に引いてゆくのを感じた。
耳と目と鼻が冴えわたり、腹の底から絞り出していた冷気が、無尽蔵に引き出せるようになっている。
何が起きたのか、良く分からないまま、とにかく氷魔法の威力を引き上げた私は、直後、目の前の光景が白塗りされてゆくことに気が付いた。
サラマンダーの放つ炎で真っ赤に染め上げられていた世界が、白くてキラキラと光る光景に塗り替えられてゆく。
その光景を見てもなお、更に冷気の出力を上げた私は、ふと気が付いた。
先ほどまでピンピンしていたはずのサラマンダーが、火を吐く姿勢のまま、氷漬けになっているのだ。
「……何が起きましたの?」
もう氷魔法を放つ必要はないと気が付き、思わずそう呟いた私は、力なくその場に崩れ落ちる。
そうしてようやく、私は私の身に起きた変化に気が付いた。
まず初めに気が付いたのは、両手。
ついさっき見た両手の火傷が無くなり、白くて細い綺麗な腕に戻っている。
次に気が付いたのは、腰のあたり。
正確には、背中側の腰だ。
座り込んだ状態で、お尻のあたりに変な違和感を覚えた私は、ドレスからはみ出るくらい大きなキツネの尻尾が、自分から生えていることに気が付いた。
そして最後に気づいたのは、頭の上だ。
尻尾に気づいた際、氷漬けになっている床に映った自身の顔を見た私は、頭の上に大きな耳が付いていることに気が付いた。
その姿はまるで、リンクした時のウィーニッシュのようだ。
そこまで気が付いてしまえば、深く考える必要も無い。
ふと、先ほどルミーが囁いた言葉を思い返した私は、小さく苦笑いを浮かべながら呟く。
「面倒くさい女ですわね」
『それはお互い様でしょ?』
頭の中で響くルミーの声を聞いた私は、直後、ブーンと低く響く音を耳にした。
咄嗟に武器庫の入り口の方へと視線を向けた私の眼前に、蜂の頭部を持った男の姿が飛び込んでくる。
その男は、まるで風のように私の元へと飛んでくると同時に、鋭い針で攻撃を仕掛けようとしてきた。
顔に向けられている針の先端が、一瞬にして近づいてくる。
あまりにも速いその動きに、私は状況を把握することしかできず、逃げ出すことも反撃することもできなかった。
「っ!!」
次の瞬間に広がるであろう痛みに耐えるため、思わず目を閉じた私は、視界を暗闇に閉ざされたと同時に強い衝撃を受ける。
まるで、巨大な何かに全身を押しのけられたかのようなその衝撃を受け、私は大きく吹き飛ばされた。
しかし、吹き飛ばされて地面を転がっている間も、その巨大な何かの感触が、体中を覆い尽くしている。
何が起きたのか。
少なくとも、針に刺されるような痛みではないことを認識した私が、そっと目を開けた時。
私は、アーゼンの逞しい横顔を目の当たりにした。
荒れた呼吸をしながらそっぽを向いているアーゼンは、一度歯を食いしばる。
よく見れば、彼の上半身は裸同然だ。もしかしたら、先ほどのサラマンダーの業火によって燃えてしまったのかもしれない。
その様子を呆けたまま見ていた私は、そこでようやく自分がアーゼンに抱きかかえられていることに気が付いた。
「……え!? ちょ、な!?」
「あぶねぇ、ギリギリだったぜ」
そう呟いたアーゼンは、そっと私を降ろすと、右腕を自身の背中の方へと回した。
かと思うと、まるで何かを耐えるように呼吸を止めて、右腕に力を籠める。
直後、彼は背中に刺さっていたであろう鋭い針を抜き取り、そのまま地面に投げ捨てた。
そのまま、何事もなかったように私に背中を向けたアーゼンは、改めて武器庫の入り口の方に向き直り、告げる。
「メアリー。おめぇのおかげで俺もロウも、そしてこの街の全員が助けられたぜ」
そう言うアーゼンの背中には、深々とした傷が一つ残っていた。
彼の視線の先にはブンブンと宙を舞う2人の人影がある。
そのさらに奥には、ロウの姿がある。
丁度、アーゼンとロウがカートライト達兄弟を挟み撃ちしているような状況だ。
このまま、4人の乱戦が始まるのか。
私がそう思った直後、世界に異変が起きた。
いや、その異変はおそらく、このゼネヒットだけに生じた異変に違いない。
なぜなら、この異変が発生することを、私達は知っていたのだから。
唐突に広がる闇が、街中を包み込む。
夜空の星や月の灯りも、街中にある全ての松明も、灯りとしての意味を為さない。
完全な暗闇。
そんな暗闇に落ちた瞬間、アーゼンが呟いたのだった。
「上手くいったみてぇだな」