第203話 追憶:懺悔
「母さん、今から王城に向かうから、しっかり掴まっててくれ」
舞い降りて来る黒い雪になるべく触れないように、屋根の下に移動した俺は、手を繋いだままの母さんにそう告げた。
そして、戸惑っている母さんを背中におんぶすると、大きく息を吐く。
「よし、走るから、気を付けて!」
改めて母さんにそう告げた俺は、間髪入れずに走り出した。
走り出す直前、母さんがギュッと俺に抱き着いた感触を背中に感じながら、俺は足を動かす。
王都ネリヤの街中は、綺麗に整備されているおかげで、障害物が少なく走りやすい。
とはいえ、あまりに激しい動きをしてしまうと、背中の母さんに負担がかかってしまう。
だから、空を飛ぶのは却下だ。まぁ、上空を旋回している蛾の化け物がいる手前、空を飛ぶのは別の意味で避けたいんだけど。
そんなことを考えながら、王城に向かって駆けていた俺は、とあることに気が付いた。
空から落ちて来た黒い雪が、地面や建物に付着したかと思うと、ジワーッと溶け込み始めたのだ。
そうして、溶け込んでしまった黒い雪の跡は、真っ黒な闇としてその場に定着している。
あれに触れると、どうなるんだろう。
胸騒ぎと共に湧き上がって来るその疑問を、一蹴した俺は、走ることに専念した。
その時。
俺は更なる異変に気が付いた。
黒い雪やその痕跡を見ていたせいなのか、視界が少しずつ曇り始めたのだ。
端の方から少しずつ、まるで視界を侵食するように黒い靄が広がってゆく。
「嘘だろ!? なんで!?」
そう叫んだ俺は、直後、その原因を把握する。
いつの間にか、身体の数か所に、黒い雪が付着していたのだ。
次第に失われてゆく視界をどうすることもできない俺は、完全な暗闇に閉ざされてしまった。
当然、このまま走ることなんてできない。
ゆっくりと速度を落として立ち止まった俺は、歯を食いしばりながら考え込んだ。
どうすれば、母さんを無事に王城まで連れていける?
そもそも、王城に連れて行けば助かるのか?
他の魔法騎士達は何をしている?
そう言えば、悲鳴が全然聞こえないけど、誰も気づいていないのか?
そうやって、真っ暗闇の中で色々と考え込んでいた俺は、不穏な音を耳にする。
空から聞こえてくる、風の音。
その音はまるで、何かが空を切るような音で、今まさに俺の元に接近しつつあった。
何の音なのか。何が近づいて来ているのか。
そんなことを考える暇もなく、俺は前方に大きく跳躍した。
直後、足先を掠めた何かが、俺の立っていた場所辺りに着弾する。
着弾と同時に鳴り響いた轟音を合図とするかのように、四方八方から様々な音が飛び交ってくる。
それらの音の殆どが爆発音のようで、続けざまに大量の悲鳴も響き渡り始めた。これらが全て偶然とは考えられない。
跳躍した勢いに任せて地面を転がった俺と母さんは、衝撃のあまり離れ離れになってしまう。
背後で俺の名を呼ぶ母さんの声を聞きながら、後ろに腕を伸ばした俺は、同時に敵の居るであろう方を睨みつけた。
とはいえ、視覚を奪われている今、敵の姿を目にすることはできていない。
代わりに、音や臭いを使って全力で敵の気配を探る。
緊張のあまり、呼吸と鼓動が速まってゆく。
そんな自分を落ち着けるために、俺は肩越しに母さんに向かって声を掛けることにした。
「母さん、こっちだ。俺の声が聞こえる方に手を伸ばして」
「ニッシュ……」
か細い声を出しながら近寄って来る母さんは、すぐに俺の手を探し当てたらしい。
すがるような勢いで俺の腕にしがみ付くと、ブルブルと身体を震わせながら身を寄せてきた。
その様子だけでも、かなりの恐怖心を覚えているのが伝わってくる。
俺が母さんを守らないといけない。
改めて意を決した俺は、なぜか動きを見せない敵の方を睨みながら、口を開いた。
「誰だ? そこに居るんだろ?」
「お前は……魔法騎士だったな」
俺の問いかけを完全に無視した男は、ぼそぼそと呟いた。
そんな男の態度に苛立ちを覚えた俺は、もう一度口を開く。
「おい、答えろ! お前は何者だ!? ここで何をしている!?」
叫びながら、母さんを強く抱き寄せた俺は、頭の中で魔法の準備を始める。
戦闘することはあまり得策じゃないけど、無抵抗のままやられるわけにもいかない。
なにしろ、こちらには母さんがいるのだ。
先ほどまでの光景と、さっきの跳躍を思い浮かべながら、おおよその周囲の様子を思い描く。
僅かでも良い。勝機を見出だすことに全神経を使った俺は、しかし、何も見出すことはできなかった。
それでも諦めることなく、思考をフル回転させて打開策を考えていた俺の耳に、突如として鈍い音が響いて来る。
『ニッシュ!!』
ほぼ同時に、頭の中で響いたシエルの警告を聞いた俺は、咄嗟に魔法を展開した。
自信の周囲に竜巻上のラインを描く力魔法。トルネード・ジップだ。
これで、敵の攻撃を少しでも逸らすことができれば。
そんな薄い希望を胸に、次の手を打とうとした俺は、直後、胸に激痛を覚えた。
同時に、猛烈な熱が、胸から全身に広がり始める。
何が起きたのか。
視界を奪われてしまっていた俺は、混乱のまま胸元に右手を添えたことで、事態を理解した。
細身の剣が俺の胸を貫いているのだ。
状況を理解した直後、その状況は目まぐるしく動き始める。
殆ど抵抗を感じない動作で、胸の剣を抜き取られた俺は、そのまま前のめりに倒れこんでしまう。
そこでようやく何が起きたのか理解したらしい母さんが、甲高い悲鳴を上げ始めた。
「ウィーニッシュ!! ウィーニッシュ!! 無事なの!? 無事って言ってちょうだい!!」
倒れこんだ俺の身体を頼りに、地面を這いながら俺の顔の方に向かって来ているらしい母さん。
そんな母さんに、逃げるように警告しようとした俺は、だけど、声を出すことができなかった。
心なしか、頭の中のシエルの声も遠のいて言っている気がする。
そんな時、母さんの手が俺の右手に触れた。
彼女の手には、何かが握られていたらしく、それをそっと手渡してくる。
その直後、母さんが短い悲鳴を上げた。
その悲鳴に続くように、母さんの嗚咽が漏れ聞こえてくる。
それらを耳にしただけで、何が起きたのか即座に理解した俺は、痛む胸元を無視しながら歯を食いしばった。
張り裂けてしまいそうな程に、肺や喉を酷使して、叫び出そうとする。
それでも俺の口から声が出てくることは無く、逆に、胸元から生気が抜けている感覚に襲われてしまった。
このまま死ぬんだ。
あまりにも単純な思考が、頭を塗りつぶしてゆく。
避けられない事実を突きつけられた俺が、そのまま薄れてゆく意識に身を任せようとした、その時。
ドクンッと、全身を大きな衝撃が駆け抜けていった。
「な……何が」
思ったことをそのまま口に出してしまった俺は、直後、声を出せることと、視界が元に戻っていることを理解する。
どうして。
先ほどまで、死んでしまうんだという思考で埋め尽くされていた俺の頭の中は、瞬く間に疑問で埋め尽くされた。
そんな疑問の答えを知っているかのように、頭の中のシエルが呟く。
『ごめんなさい』
なぜか、嗚咽を漏らしているらしいシエルは、何度も何度も、謝罪の言葉を繰り返した。
「シ……シエル……何が」
そんなことを呟きながら、ふと思い出したように背後に目をやった俺は、頭の中が真っ白になってゆくのを感じた。
そんな俺の様子に気が付いたらしい敵が、深いフードの中から俺を見下ろしながら呟いた。
「ん? なぜ生きている?」
母さんの首根っこを掴んでいるその男は、もう片手に持っているレイピアで、母さんの胸を貫いてしまっている。
呼吸ができない苦しみと、胸を貫くレイピアの激痛で、悶えていたんだろう。
周囲には母さんの血が散らばっていた。
そんな母さんのもがきが無駄だったことを示すように、力なく事切れた様子の彼女を、フードの男が脇に投げ捨てる。
あまりに呆気のない結果を目の当たりにした俺は、茫然としていた。
母さんが死んでしまった。
そんな残酷な現実に、打ちひしがれているんだ。
だけど、どうして?
どうして、母さんが死んだんだ?
なぜ、母さんは生き返らない?
こうなってしまわないように、対策したはずじゃないか。
そんな思いが、頭の中を駆け巡ってゆく。
しかし、俺はその疑問の答えをすぐに理解した。
こんなことを、シエルが告げたのだ。
『ごめんなさい! 私が、私がセレナにペンダントのことを教えてたから!! 教えてしまってたから……。ごめんなさい!!』
頭の中に響き渡るシエルの懺悔を聞いた俺は、ふと、右手に握りしめられている銀色のペンダントに目を落とした。
昨晩。俺が母さんにプレゼントした銀色のペンダント。
これは、ただのペンダントじゃない。
身に着けている人物の生命を蓄積して、身に着けている人物が息絶えかけた時に、一度だけ蘇生してくれる、貴重な魔法具。
このペンダントを持っていれば、母さんは一度だけ蘇ることができたはずなんだ。
「……なんで、俺の手元にあるんだよ」
分かり切っている疑問を口にした俺は、ペンダントをギュッと握りしめる。
その途端、まるでタイミングを見計らったかのように、両手の甲の紋章が輝き始めた。
その光に鼓舞されるように、俺はその場に立ち上がる。
そして、歩み寄ろうとしてくるフードの男を睨みつけ、間髪入れずに飛び掛かった。
突き出されるレイピアなんて気にしない。
湧き上がって来る怒りと憎しみに身を任せるように、全力で敵を蹂躙する。
敵?
敵は誰だ?
どいつが敵なんだ?
誰を殺せばいい?
何を壊せばいい?
いつまで続ければいい?
少しずつ単純化していく思考は、行動を過激にしてゆく。
そうして、気が付いた時。
『オレ』は見たことのない森の中に立っていた。
生物の豊かな森なのか、周囲からは枝葉の擦れる音や動物たちの声が聞こえてくる。
そんな光景の中で、唯一、俺が知っているものを上げるとするならば。
それは、目の前に立っている1匹の狼。いや、1人の神だけだった。