第202話 追憶:黒い雪
俺が眠りについてから、どれだけの時間が経っただろうか。
部屋に停滞する静寂に、ずっと耳を傾けていた俺は、不意に、何かの物音を耳にした。
とはいえ、この時の俺が目を覚ましたわけじゃないから、辺りの様子を確認することはできない。
今『オレ』が見ているのは、記憶の欠片なのだ。記憶にないものを見ることができないのは当然だ。
そんなことは理解していても、先ほどの物音の正体が気になる気持ち自体はかき消せないので、適当な理由をつけて、自分を納得させることにする。
『多分、シエルが寝返りでもうったんだろう』
そうだ。きっとそうに違いない。
そんなことを考えた『オレ』の考えは、あながち間違っていなかったようだ。
なぜなら、その直後に聞き慣れた声が囁きかけて来たからだ。
「ニッシュ……ねぇ、ニッシュ!」
耳元に囁きかけられたその声は、もちろん、シエルのものだ。
俺を起こそうと声を掛け続ける彼女は、おまけとばかりに俺の身体を揺すり始めたらしい。
そこまでされてしまえば、大抵の人は目を覚ますだろう。
俺も例に漏れることなく、小さな唸り声を上げながら上半身を起こした。
未だに寝ぼけ眼なのか、視界がぼんやりと霞んでいる。
「ん? なんだ? シエルか。こんな夜中にどうかしたのか?」
「ねぇニッシュ。聞こえない? この音」
「音?」
まだ寝ぼけている様子の俺は、ベッドの上のシエルに促されるままに、耳を澄ました。
当然、『オレ』も一緒に耳を澄ましてみる。
しかし、これと言って変な音は聞こえない。
「何言ってんだ? 何も聞こえないぞ? ったく、今日は疲れてんだから、休ませてくれよ」
「ちょ、ニッシュ! 嘘でしょ!? こんなに大きく鳴り始めてるのに!? もう、信じてくれないわけ?」
眠気に身を任せるように、、ベッドに上半身を投げ出した俺。
そんな俺に対して、シエルが怒りと困惑を顕わにしながら言葉を吐き出している。
彼女の様子から鑑みるに、何かが起き始めているんだろうと、『オレ』は思った。
しかし、今のところシエルの言う音は、『オレ』にも聞こえていない。
これもまた、俺の記憶の欠片なのだから当然なんだろう。
「大きく鳴り始めてる? 本当に何にも聞こえないぞ?」
「外から聞こえて来るわよ? 何か、すごく高い音が鳴ってるの」
「寝ぼけてるんじゃないか?」
しつこく言い続けるシエルの言葉を聞いて、少しは頭が冴えて来たのか、俺はゆっくりとベッドから立ち上がると、小さな窓の方に歩み寄った。
そうして、ゆっくりと窓を開ける。
外から部屋の中に入り込んでくる空気は、しんと静まり返っていて、彼女の言うような音は全く聞こえてこない。
はぁ。とため息を吐き、シエルに向き直った俺は、首を横に振りながら告げた。
「ほら、な?」
「あんた、本当に言ってるの? 完全に鳴ってるじゃない。ううん。これは、鳴ってるんじゃないわね。誰かが演奏してるって言った方が良いかも」
「は? 演奏?」
窓から入り込んでくる冷たい空気に、寒気を感じた俺は、両腕を摩りながら窓に手を伸ばした。
そのまま窓を閉めてしまおう。とでも考えているんだろう。
と、その時。
思い出したかのように、シエルが告げる。
「あ、そうだ! ニッシュ、リンクするわよ! たぶん、それで聞こえるようになるわ」
「あぁ、なるほどな」
彼女の提案に納得した俺は、窓を閉めようとする手を止めて、踵を返した。
そうしてそのまま、ベッドの上のシエルの元に歩み寄る。
スッと両手を差し出して来たシエルに向かって、右手を差し出した俺は、いつも通り、彼女の両手に触れた。
直後、リンクした俺の耳が、甲高い音を拾い上げる。
「うわぁ!?」
突然鳴り始めたその音に、驚いた俺は、思わず声を上げてしまう。
「なんだ!? この音!?」
『やっと聞こえたみたいね! ほら、私の言ったとおりでしょ!?』
「確かに、シエルの言ったとおりだな。これは、何の音だ? 俺の知らない曲を弾いてるみたいだけど……」
窓に貼りついて外の様子を眺め始めた俺とシエル。
そんな2人の様子を見ながら、『オレ』は1つのことに気が付いていた。
『これは……アーゼンが持ってた笛の音?』
カーブルストンでアーゼンが使っていた魔法具。
その笛の音色に、非常によく似ている。
『まぁ、前に聞いた時よりも甲高く聞こえるし、リンクしないと聞こえなかったのは説明できないけど、多分、あの笛だよな』
全く鳴りやむ様子のない笛の音を聞きながら、音の出所を探ろうとしている俺とシエル。
そんな俺達が、今まさに窓の外に飛び出ようとしたその時。
頭の中で、シエルが叫んだ。
『ニッシュ! 空を見て!!』
彼女の声に即座に反応した俺は、うっすらと雲のかかった夜空を見上げ始める。
これと言って、何の変哲もない夜空。
しかし、シエルが適当なことを言うはずがないと考えた『オレ』は、星を全て数えるように、視線を走らせた。
そして、見たことのない異常を、夜空のど真ん中、王都ネリヤの上空に見つける。
ほぼ同時にそれを見つけたらしい俺も、茫然とした様子で呟いた。
「な……なんだ? あれ?」
真っ黒で巨大な1匹の蛾が、王都ネリヤの上空を羽ばたいている。
エレハイム王国の都であるこの街を、軽く覆い隠せる程の大きさの蛾の姿は、流石の俺でも恐怖を抱いているようだ。
薄っすらと漂っている雲の、更に上空を飛ぶそれは、俺達の視線など意に介さないようにゆっくりと降下を始めた。
ひらひらと、まるでこの王都に舞い降りようとしているように。
月の光が蛾の羽に遮られて、王都ネリヤは瞬く間に闇に閉ざされてしまう。
これはヤバい、と改めて考えたらしい俺が、すぐに踵を返して窓から離れた時。
何かが砕け散ったような音が鳴り響いた。
窓から離れた位置で声も出せずに、外の様子を伺った俺は、街を覆っていたはずの光魔法が、あっけなく消し飛んでしまった様子を目の当たりにした。
直後、空を覆い尽くす蛾が、更にスピードを上げて落下し始める。
音もなく静かに、迫り来る脅威。
もし落下してくるあの蛾を見ていなかったら、脅威なんて感じていなかったかもしれない。
俺がそんなことを考えたその時、家じゅうに悲鳴が鳴り響いた。
「ニッシュ!!」
「母さん!?」
隣の部屋から聞こえて来た母さんの声で、我に返った俺は、即座に部屋の外に飛び出した。
すぐに隣の部屋に向かって走った俺は、ベッドの上で狼狽えている様子の母さんを見つける。
「母さん。すぐに逃げよう。ここに居たら危険だ」
そう言いながら母さんの手を引いて、部屋の外に駆け出そうとした俺は、しかし、手を後ろに引かれて、危うく転んでしまいそうになる。
何事かと、母さんの方を見た俺は、ここでようやく、母さんの異変に気が付いた。
「母さん……?」
「ニッシュ!? ニッシュ、ここにいるの? 母さん、何も見えないの!! 何が起きてるの!?」
震える手で俺の手をしっかりと握る母さんは、目を見開いたまま、そんなことを叫び出した。
彼女の肩に乗っているテツもまた、母さんの髪の毛に必死にしがみついている。
そんな様子を見た『オレ』は、ふと、思ってしまった。
『目が、見えてないのか?』
「母さん! 何言ってんだ! 早く立って、走るぞ!」
母さんの腕を強く引っ張り上げて、無理やり立ち上がらせた俺は、そのまま母さんの肩を支えるようにして部屋を出る。
その間も、非常に不安そうな母さんに、なるべく声を掛けながら玄関まで歩いた俺は、勢いよく扉を開けた。
すっかり暗くなってしまっているが、まだ蛾は街に降り立っていない。
と言うか、完全に着陸するつもりは無いのか、上空をぐるぐると旋回しているようだ。
そんな蛾の様子を忌々し気に見上げた俺は、視界の端で煌々と輝く光を見つけた。
王城だ。
王城の中腹辺りが、激しく光り輝いている。
「フィリップ団長か!!」
僅かな希望を目にして、声を張り上げた俺は、しかし、もう1つの異変に気が付いた。
上空から、真っ黒で形の無い何かが、フワフワと降り注いできているのだ。
大きさは人の握りこぶし程度だろうか。
そんな黒い塊が、ゆっくりと街に降り積もり始めている。
黒い雪。
それの様子を見た『オレ』は、誰に聞くまでもなく、そう名付けた。
そして、この黒い雪こそが、あの蛾のもたらす最大の脅威なんだろうと、この時点で察していたのだった。