第194話 半分正解
目が醒めた時、俺はベッドの上にいた。
しばらくの間、ぼんやりと白い天井を眺めていた俺は、窓から差し込む朝日に感化されて、覚醒してゆく。
そうして、まず初めに思い出したのは、修行のこと。
霊峰アイオーンと呼ばれるこの山は、大きく分けて2つの層に分けられているらしい。
1つ目は、今俺達が居る頂上付近の岩場。
チュテレール周辺がここに該当する。
ここには主に、中小型の魔物が生息しているようだ。
もう1つは、山の麓から中腹にまで広がっている森林地帯。
密林と言った方が良いレベルで生い茂ったその森林には、岩場とは比べ物にならないほどの魔物が生息していた。
特に、最後までしつこく追いかけて来ていた、あのでかい蜘蛛は、今の俺では太刀打ちできないかもしれない。
何しろ、あいつは魔法を使えるみたいなんだ。
と、そこまで考えた俺は、すっかり覚醒した頭で別のことを考え始めていた。
いや、それ以外のことを考えられなくなった、と言う方が正しいかもしれない。
微かに聞こえる寝息と、俺の左隣にある不自然な布団のふくらみ。
恐る恐る視線を天井から左肩の方に動かした俺は、布団の隙間から見えている栗色の頭頂部を認識し、悟った。
マーニャが、すぐ隣で寝ている。
一気に跳ね上がる心拍数に合わせるように、俺は自分の指先が震え始めたことに気が付いた。
『いや、落ち着け。俺もマーニャもまだ9歳なんだぞ? そんなに慌てるような状況じゃない。9歳くらいなら、一緒に添い寝くらいするだろ。な? するよな?』
自問自答しつつ、混乱している頭を落ち着かせた俺は、一度大きく深呼吸した。
これがダメだった。
フワッと香って来る甘い匂いに、俺は気づいてしまったんだ。
『良い匂い……って、そうじゃない! 落ち着け、俺の身体は確かに9歳だけど、精神は余裕で大人なんだぞ!? これくらい、我慢できる! これくらい……』
そうやって落ち着こうとする俺に、マーニャが追い打ちをかけてくる。
俺の肩と布団の間に顔をうずめていた彼女が、少し息苦しくなったのか、布団の外に顔を出したのだ。
必然的に、彼女の顔が俺の顔に近づく。
心地よさそうに眠っている彼女の顔を凝視した俺は、ふと、思った。
『頬っぺた、柔らかそう』
そのことに気が付いてしまった俺は、無性に彼女の頬をつつきたい衝動に駆られる。
なるべく音を立てないように、右腕を動かした俺は、恐る恐る彼女の顔に人差し指を近づける。
もう少し、もう少しでマーニャの柔らかそうな頬に触れることができる。
今までにない集中力を指先に発揮して、今まさに彼女の頬をつつこうとしたその瞬間。
枕の上の方から、声が響いてきた。
「ニッシュ、あんた何してんの?」
「へ?」
思わず声が漏れた俺は、恐る恐る枕の上を見上げる。
そこには、腕組みをしたシエルが仁王立ちしており、俺のことをニヤニヤと見下ろしていた。
「え、あ、いや、これはだな」
なぜか言い訳を考えようとする俺に対して、シエルが面白いものを見るような視線を投げてくる。
そんな彼女に対して、一瞬イラついた俺は、文句を口にする。
「な、なんだよ。別に変なことをしようとしたわけじゃないぞ? ただ、頬っぺたをつつこうとしただけだ」
「ふ~ん? それが変なことじゃないって言うのなら、起きてるときにマーニャに頼んでみなさいよ。お願い、頬っぺたつつかせて! って」
「ぐっ」
シエルの言い分に何も言い返せない俺。
そんな俺の様子を見かねたのか、いつの間にかシエルの傍に歩み寄ってきていたらしいデセオも、話に入って来た。
「それくらいなら、マーニャも許してくれると思うよ? うん。早速今日の朝食の後に頼んでみようよ!」
「いや、それは……」
逃げ場がない。万事休すか。
なんていうやり取りを俺達が繰り広げていた時、不意にマーニャがもぞもぞと動き出した。
咄嗟に左肩の方に目を向けた俺は、いつの間にか目を覚ましていたらしい彼女と見つめ合ってしまう。
数秒間の沈黙。
気恥ずかしさと混乱のあまり、すぐにでも逃げ出したい衝動に駆られた俺だったが、マーニャが腕にギュッとしがみついてきたことで、動けなかった。
対するマーニャは、スッと目を閉じたかと思うと、少しだけ右に顔を背けながら告げる。
「良いよ。触っても」
「なっ……マーニャ!? い、いや、大丈夫。大丈夫だから。とりあえず目を開けてくれよマーニャ!」
俺の言葉を聞いたマーニャは、少しだけ不思議そうな表情を浮かべたかと思うと、何かを思い出したように尋ねて来る。
「そう? それじゃあ、私がニッシュの身体を触ってもいい?」
「え?」
思いもよらないマーニャの提案に、俺の頭は一瞬フリーズした。
『どういう意味!? どうしてマーニャが俺の身体を触るんだ!? さ、触ってみたいってことか? いや、マーニャがそんなこと』
動揺のあまり、何も答えることができなかった俺。
そんな俺の様子を見たマーニャは、返事がないことを了承ととらえたのか、ゆっくりと手を動かし始めた。
彼女の手が布団の中でもぞもぞと動く感触に緊張した俺は、目をギュッと閉じて時が過ぎるのを待った。
柔らかい手つきの彼女の手は、そっと俺の胸元に触れたかと思うと、ゆっくりと首筋に上ってくる。
そのまま俺の頬を撫でて額まで触った彼女は、そこで大きく息を吐く。
そして、小さく呟いたのだった。
「良かった。本当に傷が無くなってる」
「ん?」
彼女の呟きを聞いた俺は、そこで初めて盛大な勘違いをしていたことに気が付き、目を開けた。
目元にうっすらと涙を浮かべて、俺を凝視しているマーニャ。
そんな彼女は、ずっと抑え込んでいた衝動を解放するかのように、勢いよく俺に抱き着いてくる。
「良かったぁ!! ほんとに良かったぁ」
「ちょ、マーニャ!? どうしたんだよ?」
動揺するあまり、俺は泣きながら抱き着いてくる彼女に問いかける。
そんな俺の問いかけに答えたのは、マーニャではなく、エイミィだった。
「君の負ってた傷のうち、幾つかが思っていたよりも深くてね、マーニャちゃんが夜遅くまで看てくれてたんだよ」
そんなことを言いながら部屋に入って来たエイミィは、ベッドの傍まで歩み寄ったかと思うと、笑みを浮かべた。
「おはよう。よく眠れたかな?」
「おはようございます。エイミィさん。そっか、俺、結構深手を負ってたのか……」
エイミィの言葉と泣きじゃくるマーニャの様子を見て、改めて事態を理解した俺は、大きなため息を吐く。
未だに抱き着いて来ているマーニャと一緒に、上半身を起こした俺は、周囲を見渡した。
ベッドの傍にはいくつもの桶が用意されており、その中には血だらけになったタオルがいくつも入っていた。
それらの様子を見た俺に、マーニャが抱き着いたまま声を掛けてくる。
「ニッシュ。修行、本当に続けるの?」
多分、怪我を負った俺を見た彼女は、これ以上の修行を望んでいないのかもしれない。
それだけ、心配させてしまったことに罪悪感を覚えながらも、俺は改めて意思を固めた。
「マーニャ。心配してくれてありがとう。それに、手当てまでしてくれて、本当にありがとう。でも、やっぱり修行は続ける。そうしないと、まだまだ俺は弱いんだって、知れたから」
「……そっか」
少し残念そうに告げるマーニャは、しかし、それ以上は何も言わなかった。
代わりに、エイミィが話し始める。
「で、昨日の君の結果は、12時間37分4秒だったよ。まぁ、初回でちゃんと戻って来れただけでも、上出来なんだけどね」
「12時間……」
「そんなに落ち込む必要はないからね。それと、少しは何かを掴めたんじゃないかな?」
「正直、時間に関しては、途中から意識することもできてなかったです。全力で逃げる事しか考えてなかったから」
「ふんふん。それで?」
「一つ思ったことがあります。エイミィさんがどうして俺に、この修行をさせてるのか。その理由について」
「ほう」
「俺は魔法を使いこなせていません。だから、ずっと魔法を使い続けるこの修行を、俺にさせている。そうですよね?」
俺は修行の中で感じたことを基に、そう尋ねた。
対するエイミィは、少しだけ右の眉を上げたかと思うと、ゆっくりと頷きながら告げたのだった。
「惜しいなぁ。半分正解だね」