第193話 まだ初日
ハーシュと一緒に濡れタオルを配り終えた私は、ただひたすら、ウィーニッシュの帰りを待ち続けた。
だけど、4時間を過ぎても彼が戻って来る気配は全くない。
ついに陽が落ちてしまって、肌寒い風が吹き始める。
ゴール地点である柱の傍に座り込んでいた私は、膝を抱え込んだまま、山道に目を向けていた。
エイミィもデセオも、誰も口を開かない。
耳に届く音は、山肌を駆け抜けてゆく風の音と、どこか遠くから聞こえてくる虫の音だけだ。
すっかり暗くなってしまった山の空気は、とても冷たくて重たい。
私がそんなことを思いながら、大きなため息を吐こうとしたその時。
久しぶりにエイミィが口を開いた。
「もうそろそろかな」
そう呟いたエイミィに、思わず声を掛けようとした私は、突然の騒音に声を奪われてしまう。
何か硬いものが何度も衝突を繰り返しながら遠ざかってゆくような音。
まるで、大きな岩が転がり落ちていくような、そんな音が、響き渡ったのだ。
「なに!?」
思わずその場に立ち上がって目を凝らした私は、何かが動く影のようなものを目にした。
それは、左右に蛇行している山道に沿って、こちらへと近付いて来ている。
暗くて見えづらいけど、確実に人間よりも大きな存在。
沢山の細い足を使って走っているらしいその存在は、何かを追いかけているようだった。
「あれは……蜘蛛?」
「みたいだね。それにしては大きい気がするけど……もしかして、ウィーニッシュが追いかけられてるのかな?」
シルエットから蜘蛛っぽいと判断した私が呟くと、頭の上のデセオも賛同する。
彼の言う通り、その蜘蛛らしき魔物はかなりの巨体を持っている。
ドラゴン化した時のエイミィより少し小さい程度かもしれない。
事態を理解した私は、即座にエイミィに向き直り、懇願する。
「エイミィさん! 早く助けてあげてください! じゃないと、彼が捕まっちゃいます!」
「それはできないよ。修行中だし。それに、ウィーニッシュ君なら大丈夫でしょ」
「そんな!?」
全く助けに向かうつもりのない様子のエイミィは、相変わらず腕組みをしたまま、迫り来る蜘蛛の方に目を向けていた。
もうすぐそこまで迫りつつある蜘蛛の魔物は、2本の鎌状の爪を振り上げると、何度も眼前を飛んでいる小さな影めがけて振り下ろしている。
それらの攻撃をひらりひらりと避けているらしいウィーニッシュは、最後の力を振り絞るように加速して、ついに私達の居る門までたどり着いた。
私やエイミィに目をくれることもなく、勢いよく柱の横を通り過ぎた彼は、そのまま地面に突っ伏してしまう。
すぐにウィーニッシュの元に駆け寄ろうとした私は、動き出す直前、柱に付着していた赤い印に気が付いた。
それは、小さな人の手形。
真っ赤な色のその手形を見て、改めて事の重大さに気が付く。
と、同時に、私の背後では迫っていた大きな蜘蛛の魔物とエイミィが衝突する。
「悪いね。これ以上はあなたの踏み込んで良い領域じゃないのよ。速く森に帰ってくれるかな」
2本の爪で攻撃を繰り出す蜘蛛に対して、淡々とエイミィは、まるで赤子を相手にでもするように攻撃を弾き返してしまった。
そのうえで、蜘蛛の顔面に蹴りをぶち込み、大きく後ろに吹っ飛ばしてしまう。
流石に分が悪いと感じたのか、蜘蛛はそのまま山道を下っていく。
その様子を見ていた私は、ハッと我に返ると、ウィーニッシュの元に駆け寄った。
「ニッシュ!! 大丈夫なの!?」
滑り込むように彼の傍にしゃがみ込んだ私は、今一度彼の様子を目にして、絶句してしまう。
体中の至るところから、出血している。特に右腕は出血が激しい。
一応呼吸はしている様子の彼は、未だにリンクを維持したままうつ伏せになっている。
触れても良いのか、どうすればいいのか。
混乱のあまり、何も言えず固まっていた私に、歩み寄って来るエイミィが声を掛けてきた。
「マーニャちゃん。すぐに例の濡れタオルを持っておいで。ハーシュ様も事情は知ってるだろうから、準備してるはずだし」
彼女の言葉を聞いて、小さく頷いた私は、歯を食いしばりながら立ち上がると、ハーシュの家に向かって掛けた。
勢いよく扉を開け、本当に乾いたタオルを用意していたハーシュからそれを受け取った私は、すぐに泉に向かう。
暗くて足元が悪いせいで、何度かこけてしまいそうになりながら、なんとか泉にたどり着いた私は、タオルを握った手ごと泉の水に突っ込んだ。
タオルにしっかりと水を含ませて、ウィーニッシュの元に走る。
そうしてウィーニッシュの元にたどり着いた私は、エイミィに膝枕をされている彼の姿を目撃した。
一瞬、もやもやとした感情が胸の底に湧き出しかける。
そんな場合じゃない。
私は私にそう言い聞かせると、彼の傍にしゃがみ込み、タオルで顔の汚れを拭う。
疲れと痛みのせいだろうか、とても辛そうな彼の表情が露わになり、私は少し罪悪感を覚えた。
「マーニャちゃん。そのタオルで彼の傷を重点的に拭くんだよ。そうすれば、治りがかなり速くなるはずだから」
「はい!」
「特にひどい傷には、タオルを絞って水をかけてあげてね」
「分かりました!」
言われるがままに、私はウィーニッシュの傷を清めていった。
そのおかげなのか、傷を清めるたびにウィーニッシュの表情が穏やかになっていく。
そうして、血だらけになってしまったタオルを握りしめた私は、うっすらと目を空けるウィーニッシュと視線を交わす。
「マーニャ……エイミィさん……」
かすれた声でそれだけ告げたウィーニッシュは、そのまま気を失ってしまった。
「ニッシュ! ニッシュ! 大丈夫なの!?」
「大丈夫、大丈夫。疲れて寝ただけだよ。ほら、傷も少しずつ塞がって来てるでしょ?」
「え? そんなこと……っ!?」
かなりの数の傷を負っていたのに、それがすぐに塞がるはずがない。
エイミィの言葉に、気休めはやめて欲しいという憤りを感じた私は、次の瞬間には言葉を失っていた。
彼女の言う通り、確かに彼の傷がゆっくりと塞がり始めているのだ。
それを見たおかげか、私は自分の中で張りつめていた緊張の糸が、ぷつんと切れた気がした。
一気に全身が脱力し、その場にへたり込んでしまう。
そんな私を見て、エイミィが告げたのだった。
「2人ともだらしないなぁ。今日はまだ初日なんだよ?」