第192話 得も言われぬ悪寒
ウィーニッシュが修行に出るのを見送った私は、しばらくの間エイミィと一緒に柱の近くで山道を見守っていた。
どれくらいの時間が経ったのか分からないけど、その間エイミィは微動だにせず、腕組みをしたままだ。
流石に4時間も柱の傍で見守り続けるわけにもいかないと感じた私は、足元にいるデセオと視線を交わす。
「流石に4時間ずっと待つわけにもいかないよねぇ。僕らは何か別のことしてようよ」
「うん」
デセオの提案に賛同した私は、エイミィに軽く会釈し、その場を後にした。
と言っても、あまりうろつくのも良くないのではないかと考えた私は、とりあえずハーシュの家に向かう。
そうして、そのまま家の中に入ろうとした私は、なにやら大量の布を手にしたハーシュと鉢合わせた。
「あ、ハーシュさん。おはようございます」
「おぉ。おはよう」
短く挨拶する彼の手元を見た私は、意を決して申し出てみることにした。
「どこかに行くんですか? 良ければ、私にも何かお手伝いさせてください」
「ん? 手伝ってくれるのか? それじゃあ、一緒に着いて来てくれんかの」
ニッコリと笑みを浮かべたハーシュは、それだけ言うと歩き出してしまう。
向かっている先は、昨日見た例の泉らしい。
全く同じ道を歩いた私とハーシュは、当然ながら、ミノーラ様の眠っている泉の傍にたどり着く。
道中、ハーシュから大量の布を受け取っていた私は、それらの布を強く抱きしめながら、改めてミノーラの姿を観察した。
相変わらず心地よさそうに寝息をたてている彼女の姿は、どうしても神様には見えない。
そう思うのは、私だけなのかな。
ふと、そんな失礼なことを考えてしまった私は、気を取り直して、手にしていた布を1枚、ハーシュに手渡す。
布を受け取ったハーシュは、ミノーラの傍にしゃがみ込んだかと思うと、一度深く頭を下げた。
そうして、手にしていた布を泉に浸し、濡れた布でミノーラの身体を拭き始める。
慣れた手つきで彼女の身体を拭いてゆくその姿は、傍から見れば少し乱暴にも見えたけど、ミノーラが目を覚ますようなことは無かった。
そんなハーシュの姿は、普通のおじいちゃんにしか見えない。
背中にある翼や頭についている角が無かったら、ドラゴニュートとは気づけないくらいだ。
一通り身体を拭い終わったらしいハーシュは、濡れた布を一旦脇に置くと、もう一枚の布を要求してくる。
その要求にこたえた私は、今度は乾拭きされてゆくミノーラの様子を見守った。
なんだか、昨日までの騒動が嘘のように、穏やかな時間が流れている気がする。
そうして、ミノーラの身体を清め終わったらしいハーシュは、今度は残った大量の布を泉に浸し始めた。
大量に作られる濡れタオルを抱えた私は、湧き上がる疑問に耐えかねて、彼に質問を投げかける。
「あの、この濡れタオルは何に使うんですか?」
「皆に配るんじゃよ。儂らは毎朝、こうして泉の水で体を清めるんじゃ。ほれ、これは嬢ちゃんの分じゃよ」
最後の1枚を絞ったハーシュは清々しい顔つきでそう言った。
なるほど、と納得した私は、ふと、泉に視線を移す。
昨日はあまり泉を観察できなかったけど、改めて見ると、意外とこの泉は深いらしい。
もし落ちてしまったら、私やウィーニッシュでは足が底に届かないだろう。
少し怖い想像をした私が、身震いをした時、そんな私の様子に気が付いたらしいハーシュが、小さく笑いながら口を開いた。
「大丈夫じゃよ。落ちても儂が助けちゃる」
「あはは……ありがとうございます。それにしても、これだけ湧き出してる泉なのに、あふれ出したりしないんですね。なんだか不思議です」
そう言った私は、泉の中心に目を向けながら言った。
水面に波を作るくらいの勢いで湧き出しているらしい泉の水は、しかし、一定の量を保っている。
普通に考えれば、変な話だ。
何か理由があるのか。と考えようとした私に、ハーシュが答えを示してくれた。
「泉の中によく目を凝らしてごらん」
「え? あ、はい」
言われるままに目を凝らした私は、泉の中になにやら横穴らしいものを発見した。
「あ! 何か穴が空いてます……もしかして」
「その横穴は、山の麓まで続いとるんじゃ。そうして、巨大な河になって海まで続いとる」
「それって……もしかして、セルパン川ですか?」
「おぉ! よく知っとるのぅ! その通りじゃ」
目を輝かせて嬉しそうに言うハーシュを見て、私は少し気恥ずかしくなった。
「いえ、少し前に行ったことがあるので」
「そうかそうか。それじゃあ、これは知っておるかの? セルパン川と言う川の名前は、河に生息するサーペントから取られた名前なんじゃよ」
「そうなんですか!? それは知りませんでした」
「ふぉふぉ。そもそもサーペントは、儂らドラゴニュートと根源を共にしてるんじゃよ。じゃから、あやつも儂らと同じように、ミノーラ様を守ろうとしておる」
「え?」
「安心せい、嬢ちゃん達があやつと一戦交えたことくらいは知っておる。それに、あやつがあの程度で命を落とすことはない。それよりも、嬢ちゃんには、もっと考えて欲しいことがあるんじゃ」
なんてことない、とでもいうような表情で告げたハーシュ。
彼の様子に反して、私の頭は混乱の真っただ中にあった。
サーペントがミノーラを守ろうとしていること。
そんな事情は全く知らなかったとはいえ、私がサーペントに攻撃をしてしまったこと。
あまり意識していなかった罪悪感が、急激に湧き上がってくる。
しかし、ハーシュは私に怒りを向けるようなこともなく、穏やかな表情のままだ。
彼の言うように、安心してもいいのかな。
そんなことを考えた直後、ハーシュがゆっくりと告げる。
「そもそも、サーペントはなぜ、あの街を襲ったのかのぅ」
「……」
得も言われぬ悪寒が、背筋を走り抜けてゆく。
なんだろう。とても嫌な予感がする。
全身を蝕むように、じわじわと広がりを見せ始めた不安。
そんな不安が顔に現れてしまったのか、ハーシュは私の顔をじっと見つめてきた。
ゆっくりと開かれるハーシュの口。
更に何か怖い情報が飛び出してくるんじゃないかと、一瞬身構えかけた私は、しかし、彼の言葉を聞いて脱力したのだった。
「さて、そろそろ戻るとしよう。早く持って行かんと、タオルが乾いちまう」