第188話 泉の傍
「さ、着いたよ。ほら、降りて降りて」
霊峰アイオーンの中腹よりも少し高い位置に、チュテレールの街はあった。
ゴツゴツとした大きな岩や突起の中に、不自然に開けた空間がある。
そんな空間の中に、チュテレールの街があるのだ。
始めてチュテレールを見た俺の感想は、「街、と言って良いほどの規模じゃない」だ。
どちらかと言うと、集落と言ったところだろう。
正直、俺達の住んでいる町よりも小さくて、質素な集落だ。
エイミィが身に纏っている衣服が、かなり優雅なものに見えるのは気のせいなのかな。
そんな小さな疑問を抱いた俺は、エイミィの背中から飛び降りると、集落の入り口である門まで歩いた。
山の上だからか、かなり呼吸がしづらい気がする。
マーニャも同じように感じているのか、いつもより深く呼吸している気がする。
「さ、長が待ってるから、行くよ。着いて来てねぇ~」
門のところで足を止めていた俺とマーニャの横を通り過ぎたエイミィが、すたすたと集落の中へと歩を進めていく。
そんな彼女の後姿を見た俺達は、慌ててその後を追いかけた。
「妙に静かな所ね」
俺の頭の上のシエルが、そんなことを言う。
確かに、シエルの言う通り、チュテレールにはひどく静かな空気が漂っていた。
人がいないわけじゃない。
山肌に建てられているいくつかの小屋や洞窟の近辺には、エイミィと同じような翼を持った人々が生活をしている。
そんな彼らは、何をしゃべるでもなくニコニコとした笑みを浮かべながら、日常をこなしているのだ。
なんというか、少しだけ不気味だ。
今まで見て来たエイミィの様子からはとても想像できない。
どこか拍子抜けした俺は、ここに来て初めて小さな不安を覚える。
そうこうしている間に、とある小屋の前にたどり着いたエイミィは、その扉を軽くノックし、中へと入ってしまった。
思わず顔を見合わせる俺とマーニャは、仕方なく彼女の後に続く。
「ん? エイミィか? 戻ったか」
「はい。言いつけ通り、彼を連れてきました」
「うむ」
小屋の中に入った俺達は、まず初めに、椅子に腰かけている1人の老人に気が付いた。
木製の簡素な椅子に腰かけているその老人は、男性のようで、赤い翼を背中に持っている。
綺麗に折りたたまれたその翼は、間違いなく、ドラゴニュートの証だ。
厳格そうな面持ちの彼は、エイミィから俺の方に目をやると、小さく呟いた。
「思っとったより、ちんまいのが来たのぉ」
『知ってて呼んだんじゃないのかよ……』
思わず心の中でツッコんだ俺は、しかし、そんな考えを表に出すことなく、丁寧に返事をする。
「初めまして。俺はウィーニッシュと申します。本日はお呼び頂きまして、ありがとうございます」
「おぉ、ずいぶんと丁寧だのぉ。まるで中身はおっさんじゃ」
『ほっとけ!!』
老人の言葉から、本当に驚いたというより、少しからかうようなニュアンスを感じ取った俺は、再び心の中でツッコんだ。
そんな俺と老人のやり取りを見ていたマーニャが、恐る恐るといった感じで告げる。
「あ、あの。私はマーニャとも、申します。本日はおよびいただきまして、ありがとうございます」
多分、俺の言葉をマネようとしたんだろう。
少し不自然に聞こえたマーニャの挨拶は、しかし、思いのほか老人には受けが良かった。
俺の隣に立つマーニャをマジマジと見た老人が、ゆっくりと告げる。
「ほぅ。これはまためんこいのが来たのぉ。どうじゃ? 儂と一緒に暮らさんか?」
「「え?」」
突然変なことを言いだす老人に、マーニャと俺は驚き、エイミィは呆れてため息を吐く。
「ハーシュ様。やめてください。同じドラゴニュートとして、非常に恥ずかしいです」
「ははは、冗談冗談、今のはボケじゃよ。気にするな」
「最近本当に物忘れがひどくなってるのに、冗談で済むわけがないでしょう」
心底呆れている様子のエイミィが、再びため息を吐く。
このままじゃ埒が明かないと思った俺は、必要以上に警戒する必要はないと判断し、エイミィと老人ハーシュに問いかけてみた。
「あの……失礼ですが、結局俺はどうしてここに呼ばれたのでしょうか?」
「おぉおぉ!! そうじゃったそうじゃった。忘れるところじゃったよ」
そんなことを言いながら椅子から立ち上がったハーシュは、少し危なっかしい足取りで歩き出した。
そうして、話を続ける。
「ウィーニッシュ? だったか……に見せたいものと渡すものがあるんじゃ。まぁ、まずは向かうかのぉ」
言いながら小屋を出てゆくハーシュ。
そんな彼の後姿を見ていた俺とマーニャは、エイミィに促されるようにして彼の後を追うことにした。
トボトボと歩くハーシュの後を、俺達は歩幅を合わせながら着いてゆく。
気が付けば、集落の裏手にある細い小道に入った俺達は、その緩やかな坂道を登っていた。
大きな岩と岩の間を縫うように続いている小道。
緩やかじゃなかったら、ここを上るのは非常に難しいだろう。
周囲の様子を観察した俺は、ふと疑問を抱いた。
まさか、この速度で山の山頂まで登るつもりじゃないよな。
そんな疑問を抱きながら、少し視線を上げたところに見える頂に注目した俺は、小さなため息を吐く。
しかし、幸いなことに、その疑問は杞憂だった。
と言うのも、その細い小道は、すぐに行き止まりになったのだ。
行き止まりはチュテレールと同じように、大きな岩に囲まれていて、小道に比べれば少しだけ開けている。
そんな開けた空間の中心に、澄み切った泉が1つ、コポコポと音を立てて湧き上がっているではないか。
泉を囲むようにある岩に、日光が遮られているせいだろうか。
ここにはとてもひんやりとした空気が漂っていた。
心まで澄み渡ってしまいそうな泉の雰囲気に、飲み込まれそうになっていた俺は、ふと足を止めた。
エイミィやハーシュが足を止めたから、それに合わせたんだ。
だけど、俺が足を止めた理由は、それが全てじゃない。
泉の傍に、何かがいることに気が付いたんだ。
まるで、泉の傍で昼寝でもしているかのように、横たわっている存在。
その存在を目にした俺は、澄んだ空気を大きく吸い込んだ後、小さく呟いた。
「狼?」
そんな俺の声を聞いたであろうハーシュは、ゆっくりと頷いたかと思うと、静かに、そして厳かに、告げたのだった。
「そうじゃ。彼女こそが、この世界の守護者たる存在。祈りと恵み、そして眠りの神。ミノーラじゃよ」