第169話 脱出
最後尾で穴の中に飛び込んだ俺は、先を走る皆を追いかけるように、上へと続く細い穴を駆けのぼった。
背後からは、ワイルドウルフの吠え声と足音が聞こえてきている。
穴に入る時に、即席で作った階段を壊せばよかったなどと考えた俺は、背後に視線を向ける。
薄暗い闇の中に、俺達を睨む眼光が、幾つか見えた。
それらの眼光は、少しずつ俺達との距離を詰めながら追いかけてきている。
「来てるな。走れ! 追いかけて来てるぞ! 死ぬ気で走れぇ!」
こうなってしまえば全力で逃げる他に為す術がない。
ここでは俺もアンナも、魔法を使うことができないのだ。
足止めのために誰かがしんがりを務めても、追いかけてきているワイルドウルフの数と、この暗闇では、全てを食い止めることは至難の業に思える。
皆を急かした俺もまた、腹の底から湧き上がって来るような焦りに任せるように、がむしゃらで走った。
暗い中を走ることになるので、かなり足元が危うい。
油断していれば、何かにつまずいて転んでしまいそうだ。
俺がそんなことを考えた時、前方を走っていた1人の少女が、何かにつまずいて転ぶ。
「ニッシュ!」
すぐさま反応したシエルが、俺の頭の上で叫ぶ。
転んだ少女の母親らしき女が大声で泣き喚いているが、周囲にいた他の人々によってどんどん先へと進んでしまった。
そんな母親に伝えるために、俺は再び大声を上げる。
「大丈夫だ! この子は必ず俺が連れて行く!」
叫ぶと同時に少女の元に滑り込んだ俺は、膝をすりむいて涙を流している少女の手を取ると、強引に背中に負ぶった。
体格の差があまりないため、非常に不格好な姿に見えるだろうけど、実際のところ俺にとってこの少女は、全く重荷にはならない。
俺が少女をおんぶして走り出すと同時に、俺の頭の上に乗っていたシエルが少女の頭の上に乗り映ると、声高々に告げる。
「大丈夫よ! 私とニッシュが付いてるんだから、絶対に逃げ切れるわ! ほら、私と一緒に叫ぶのよ! 行け行けニッシュ! 走れニッシュ!」
なぜか元気一杯に告げるシエルの様子に戸惑ったのか、少女は一瞬声を上げる事を躊躇った。
そんな少女にお構いなしに、元気よく叫ぶシエルの圧に負けたのか、しばらくすると少女も叫び始めた。
「行け行けニッシュ! 走れニッシュゥ!」
2人が背中で騒いでいる間も、全力で走っていた俺は、背後に近づいている気配から逃げるように、さらに加速した。
それにしても、他の皆は随分と先に言ってしまったらしい。
小さく見える松明の灯りを見ながらそう思った俺は、次の瞬間、その松明の灯りがフッと消えたことに気が付く。
「消えたっ!? ……いや、壁に吸い込まれた? 違う、曲がったのか!」
右の壁に吸い込まれていくように消えた灯りを分析した俺は、大体の距離感を考慮しつつ走り続けた。
そして、灯りの消えたその場所にたどり着いた俺は、体重を思い切り右へと傾けながら、その角を曲がる。
丁字路になっているその場所を、減速せずに右折した俺達は、進行方向に白い光を見た。
と同時に、背後から迫りくる吠え声を耳にする。
「ひっ!」
右折の衝撃で静かになっていた背中の少女が、何かを目にしたのだろうか、そんな小さな声を漏らす。
「ニッシュ! もうすぐそこまで奴らが来てるわよ! もっと速く走って!」
「分かってる!」
騒ぎ立てるシエルと怯えてしまっている少女の期待に応えようと、更に加速しようと試みた俺だったが、流石にもう限界だ。
走ることに夢中だったせいで気づかなかったが、心臓が聞いたことないほどに早鐘を打ち、その鈍い音が耳の奥に響いている。
全身が熱を帯びていて、これ以上は限界だと弱音を上げているようだ。
そして、それらの事実に気が付いた途端、俺は猛烈な疲労と痛みを感じ始めていた。
やばい。
そんな言葉が脳内を駆けずり回り始めたその時、穴の先から、聞き覚えのある声が響いて来る。
「ウィーニッシュ! リンク! リンクしなさい!」
その単語が耳に入って来たと同時に、俺は即座にシエルとのリンクを試みた。
シエルも俺と同じく反射的に試みたらしい。
リンクできるのか、それはつまり魔法も使えるのか、それらはどうして使えるようになったのか。
そんな些細な疑問など思い抱く余裕もないままに、俺は自分の感覚が研ぎ澄まされてゆくのを感じる。
音が光が空気が匂いが。
より鮮明に、より艶やかに、世界を照らし出す。
その感覚が、リンクの成功を意味していると直感的に感じた俺は、有無を言わさず足の裏にポイントジップを発動した。
そうして、思い切り全力で地面を蹴り、穴の出口に向けて跳躍する。
一瞬にして開けた視界に眩しさを感じた俺は、直後、強烈な浮遊感を覚えた。
「やべっ!」
咄嗟にジップラインで高度を保とうとした俺は、突然現れた氷塊に乗ったことで落下を免れた。
そこでようやく、周囲の状況を確認した俺は、自分達が巨大な大穴の縁周辺を浮遊していることに気が付く。
既に陽も落ちかけている空は、青から橙へと染まりかけていた。
「ダンジョンから、抜け出せたのか……?」
穴の周辺に広がる砂漠と夕日を眺めて、茫然とそんなことを呟いた時。
白い翼を背中に生やしたアンナが、俺達の頭上から舞い降りてきた。
「その通りよ。なんとかなったわね」
そう言ったアンナのさらに頭上には、大きな氷の板が1つ、宙を漂っていた。
多分、他の皆はその氷の上に居るんだろう。
俺が思わず安堵の息を零した時、背中の少女がケラケラと笑い始める。
「お、おい、どうしたんだ?」
「楽しかった! もう1回! ねぇ、もう1回!」
怖かったことなんてすっかり忘れてしまったかのように、笑顔で言う少女。
カーブルストンで過ごしてきただけあって、肝が据わっているなどと思いながらも、俺は首を横に振る。
「ダメだ。もう絶対にやりたくない」
「えぇ~? なんで?」
「良いじゃない。随分と楽しそうな声が聞こえて来てたけど?」
ごねる少女に合わせるように、アンナはニヤッと笑いながら、そんなことを言う。
そんな彼女を睨みながらも、俺はだんまりを決め込むシエルに、内心で文句を言ったのだった。